「少年A」から考える少年法 「実名報道で更生できない」は責任転嫁か
なぜ「少年A」の実名報道をためらうのか ~少年法。その”聖域”に踏み込む
藤井 誠二 2015年12月29日 11時0分 現代ビジネス
■世間を震撼させた二つの事件
今年6月に出版された、一冊の本が世間を震撼させた。”元少年A”の『絶歌』である。その内容についてはもちろんのこと、「なぜ”元少年A”なのか。実名で出版すべきだ」という議論が起こった。
遡って今年2月。川崎市で中学校一年生の男子生徒が、18歳の少年らに惨殺される事件が発生。「これほどの凶悪事件で、なぜ加害者の素性が隠されるのか」という声が上がった。
少年法の見直しが叫ばれるなか、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)を著したノンフィクションライターの藤井誠二氏が、「少年犯罪と実名報道」の問題に斬り込む。
*****
■「少年A」の由来
私が『「少年A」被害者遺族の慟哭』を緊急に書き下ろしたのは、統計やデータにはあらわれない加害少年らの「謝罪」や「賠償」の現実がどうなっているのかを社会へ伝えたいと思ったからだ。
少年「凶悪」犯罪はたしかに減少傾向にあるが、神戸連続児童殺傷事件の加害者が手記を出版したとき(2015年6月)、遺族が「裏切られた」、「二度、殺されたようなものだ」と悲憤を表明したことが、数字にはあらわれない現実を記録すべきだと私の背中を押した。
被害者遺族─加害者家族・加害者という二者間で、ひっそりと続けられてきた「謝罪」。それをいきなり、何の予告もなしに加害者が反故にしたのはどうしてなのだろう。他のケースはどうなのだろう。
私は長年おつきあいのあった少年事件の被害者遺族の方々に、それぞれの加害者の「事件後」を聞いてまわった。どのようにして「償って」いるのか、あるいは逃げ得状態になっているのか、はたして遺族の言葉は加害少年やその親(保護者)たちに届いているのかどうか。そういったことを最終的に七家族から聞き取り、編んだ。
その唖然とするしかない現実については、ぜひ本書を繙いていただき、知っていただきたい。少年法を含む日本の少年保護行政のシステムを、犯罪・非行少年を立ち直らせると信じている人々はこの現実をどうとらえるのか、ぜひ意見をお聞きしてみたいものだ。
同時に本書では、これまで4度の改正を施された少年法の「今」も記録したかった。被害者遺族にとってどのような改正だったのか、遺族が望んだような変化はおとずれたのかどうか。そしてさらなる改正は必要なのか──。
その中の大きな柱は少年法61条に規定された、いわゆる「本人が推知される報道の禁止について」である。
少年法第61条は、〔家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない〕という、表現の自由に配慮した、罰則なしの規定である。この規定が「少年A」の由来である。
■少年の名前を報じる「例外」もあった
新聞協会では1958年から、少年法の理念とする「少年の可塑性」に同調するかたちで、61条を原則的に遵守することを決め、協会には属さないテレビやラジオ、そしてインターネット媒体等もこれに従ってきた。
しかし、放火、殺人など凶悪な累犯が予想され、警察の捜査に協力が必要だと判断されるケース、少年保護よりも社会的利益の擁護が強く優先する特殊な場合については、氏名や顔写真の掲載を認める例外報道をメディアの各自判断でおこなうこともありえるという条件も付けてきた。
事実、1958年以降も事件が加害者が少年であっても写真掲載や実名報道をする「例外」が数件あったし、2000年6月に岡山で起きた、母親を殺害して自転車で逃走中の少年を実名・顔写真入りで報じるかが議論になったこともあった。死刑判決が確定した「元少年」の実名を報じるかどうか、あるいは再犯事件の場合、「少年期」に起こした犯罪に触れるかどうかも各社で判断はばらばらだ。
こういったメディア各社の「自主的」な判断には、警察庁通達(2003年・警察庁が凶悪逃亡犯が14歳以上にいつては実名・写真を公開して捜査できるというもの)なども影響しているが、これは結果的に新聞協会の取り止めを追認するものとなった。
とはいえ、長年にわたり日本では横一線的な61条遵守は崩れていないまま、一方ではインターネットには実面や顔写真、住所等が真偽入り乱れてあふれ返る野放し状態になっているのが現在のありさまだ。
このメディア状況に対してゲリラ的にヒビを入れてきたのは、記者クラブに加盟していない出版社系週刊誌だったが、どの事件を実名・写真入りで報道するかは時々の編集部の判断に委ねられていて、はっきりとした基準はないと同社の幹部から聞いたことがある。その幹部は数々の少年事件の実名報道の指揮をとった人物だ。
私なりに過去の週刊誌の実名報道の「基準」を考察してみると、事件の凶悪性や残忍性、被害者の年齢(幼子の場合)、加害者に知名度があった場合(芸能人等)、事件の社会的影響力などが条件だろう。
では年齢はどうか。過去のケースを見ると、綾瀬女子高校生監禁殺人の主犯グループの最年少は当時16歳だったが、実名と写真が掲載された。私の記憶ではそれが出版社系週刊誌の実名報道の下限で、イギリスで1933年に起きたバルガー事件のように2 歳の幼児を殺害した二人の少年10歳を実名報道したような例はないはずだ。
これは私の勝手な解釈だが、当時は刑事責任を問うことができる下限年齢の16歳が暗黙の実名報道の境界線になっていたのではないか。現在では改正少年法により14歳でも刑事責任を問うことができる。
記者たちはどう考えているのか
バルガー事件を例に出すまでもなく、欧米では、刑事裁判に付された少年の実名を報道してはならないとするルールも不文律もない。日本の家裁にあたる裁判所で扱われた少年事件については匿名が原則だが、ケースによっては実名報道をすることがある。
実名報道をする場合、犯罪の様態や、被害者の年齢、加害者の年齢等について業界の横一列的なルールはなく、あくまで各メディアの判断に委ねられている。そういった判断基準について事件ごとに議論を闘わせ、自分たちでつくり上げていくこともジャーナリズムの重要な使命だと考えられているからだ。
少年法は2001年から、少年によって家族の命や人生を奪われた犯罪被害者遺族の思いを反映させるかたちで改正や運用の変更が4度繰り返されてきた。被害者・被害者遺族たちの要望は多岐にわたったが、被害者の実名や名前が報道されることには規制がないのに、加害者は自動的に最初から「少年A」になってしまうのは理不尽だという要望も含まれていた。
最初から加害者の「顔」がなくなってしまうことは、事件が、発生直後から風化を始めてしまうのではないかという恐ろしさを感じた、と言う遺族もいた。
そうした状況と並行するかたちでインターネットでは──、それまでメディアがまがりなりにも61条を遵守してきた歴史や背景など無視をするように──加害少年の実名や写真、住所、家族関係等がばらまかれている。昨年2月に神奈川県川崎市で起きた13歳の少年が殺害された事件では、加害少年(18歳)の自宅前から十代前半の少年が動画中継して話題になった。
少年はハンドルネームを使ってはいたが、顔を出して悪びれることなく中継をおこなっていた。彼の言い分は、自分の行動はネット時代の「市民報道」だと堂々と主張していた。
私は過日、メディアの幹部記者が集まる会合で、もっと各社の自主性や独自の判断で実名報道をするべきではないかということを提言してきた。そこには頑なに守ってきた新聞社からゲリラ的に破ってきた出版社まで、幹部が揃っていた。
そこで意見交換を多くの記者としたが、記者個人としては実名報道すべきだと考えているほうが多く、会社の方針と乖離しているのが私の印象だ。少年法61条に縛られる必要はないと考える記者のほうが、じつは多いのではないかと私は思っている。
■実名報道されなければ、立ち直るのか?
私は、実名報道は少年法61条だけの範疇で考えるられるべき問題なく、犯罪報道の社会的意義や、社会の知る権利に答える「犯罪報道」のレベルで考えることだと考えてきた。どこの誰が事件を起こし、その背景には何があるのか、どうしたらこのような事件を防ぐことができるのかを考えるための公益性の高い情報の提供は重要である。
犯罪報道の正確性や記録性を鑑みれば、実名や写真も大事なファクトの一つであり、加害者の生活史や家族などのプライバシーに踏み込むことも時には必要だろう。
それから、そもそも実名報道が、加害少年の社会復帰を阻害するのだろうか、という疑問に立ち返る必要もあるのではないか。たしかに少年は大人に比べて「可塑性」があることは確かだろうから、実名報道が更生を妨げるというロジックはわからなくもない。
実名報道されたせいで社会はみんな自分のことを知っていると思い込み、街も歩けなかったと言った殺人犯の元少年の証言を法廷で何度も聞いたことがある。しかし彼らは出所後に再犯をして、再び犯罪者となっていた。そう思い込むのはとうぜんの人間心理だとしても、それは実名報道のせいなのだろうか。
それは彼の生き直したいという努力不足や、帰住先等の環境が整っていなかったからではないか。それを単に実名報道にすり替えてはいないだろうか。
では、実名報道されなかった者たちは立派に更生して、贖罪の道を歩んでいるといえるのだろうか。私は今回、『「少年A」被害者遺族の慟哭』を取材する過程ではそうではないことを確信した。というより、実名報道が少年の更生を阻害するかどうかは、エビデンスとして立証のしようがないと思う。
実名報道に関係なく、立ち直るためには深い自己反省や更生をうながすための大人のサポート、更生プログラム、被害者への弁済のためのサポート等、多くの人的資源が必要で、その可否が、贖罪の方向性を決めていくのだと思う。実名報道に責任を転化しているようでは、贖罪の入口にも入っていないと私は考えてしまう。
実名報道された二十歳以上の者は社会復帰ができにくいという、はっきりとしたエビデンスがあるのかどうか。実態はどれほど詳細に把握されているのだろうか。もしかしたら社会復帰の妨げになるというロジックは水掛け論や方便にすぎず、ある種の「少年法神話」のようなものかもしれない。そうも私は思ってしまう。
■もっと実名報道の議論を!
『「少年A」被害者遺族の慟哭』では、十数年前に起きた事件から数年前に起きた事件まで扱っているが、加害者の名前をどうするかは遺族ととことん話し合った。実名報道を望む被害者もいれば、そうではない遺族もいる。被害者側がすべて実名報道を望んでいるというわけではないのだ。
結果、実名は控えるが、地域名などは特定したし、加害者のプライバシーについてはそうとう詳細に書き込んだ。実名報道については、できうる限り被害者側の意見も取り入れるべきだろう。
18歳選挙権で、来年(2016年)夏の参議院選挙から18歳にも選挙権が認められるようになる。それに付随して、少年法の対象年齢が20歳から18歳に下げられる可能性も検討するとの意見が、与党の中からも上がっている。
そうした社会の変化も含め、犯罪報道の視点から、各メディアは実名報道について独自の判断でのぞんでもいいのではないか。もし少年法61条違反で「実名報道された側」から訴えられることがあれば、過去の判例を土台にしながら論争をし、実名報道に踏み切った判断理由を社会に向けて発信すればいいと思う。
もちろん、実名報道をしない方針であれば、それも61条に書かれているからという理由だけでなく、報道機関としてその姿勢を明確にすることも一方で大事だと思う。61条に実名報道が禁じられているからしない、というロジックに横並びに依拠しているだけでは、それは思考停止ではないか。
◎上記事は[livedoor・NEWS]からの転載・引用です *リンクは来栖
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 神戸連続児童殺傷事件 『絶歌』を読み解く 長谷川博一
.........