吉田修一著『怒り』映画 2016/9/17公開 「信じることの難しさ 人を疑ってしまうことの闇」=その心の闇が一番の謎、テーマ 〈俳優陣〉森山未來・松山ケンイチ・妻夫木聡・綾野剛・・・

2016-09-07 | 本/演劇…など

綾野剛と妻夫木聡がゲイカップルに! 人気小説『怒り』が映画化! 日本の3地点の出来事が“凄惨な事件”で繋がる…! 
 ダ・ヴィンチニュース 2016.3.5
 今年の9月、映画公開が決まった吉田修一の『怒り』(中央公論新社)。「週刊文春ミステリーベスト10」(2014年)ランクインや、「本屋大賞」(2015年)ノミネートなど話題となった人気作品の映画化というのもさることながら、とにかくその出演者に注目が集まっている。森山未來、松山ケンイチ、妻夫木聡、綾野剛といった実力派俳優に加え、宮崎あおい、広瀬すずなど可憐な女優陣、なにより主演は渡辺謙と超豪華。たとえ原作を読んでいなくとも、タイトルの語感と顔ぶれの組み合わせだけでも、なにやら重層性のあるドラマの予感がしてくるだろう。折しも文庫版『怒り』(上・下)が中公文庫から登場したので、未読の方はこの機会にぜひ手に取ってみてほしい。
 物語は夏の夜、静かな住宅街で起きたショッキングな殺人事件の記録から幕を開ける。若い夫婦を惨殺し、6時間もエアコンの効かない室内で冷蔵庫にあるものを食べるなどして過ごした犯人・山神一也は、バスルームに被害者の血でかいた「怒」の文字を残して姿を消す。捜査は難航し、事件から1年経っても山神の消息はつかめず、警察はテレビの公開放送に望みを繋ぐ日々。そんな頃、房総の港町で働く洋平・愛子親子の前に田代が、東京の大手企業につとめながらゲイライフを楽しむ優馬の前に直人が、沖縄の離島に母と住む泉と友人の辰哉の前に田中がそれぞれ現れる。同じ頃まったく別の場所に現れた3人の身元不詳の男たち…明らかにワケありだが誰もが素性に深く踏み込めないまま、それでもたわいのない日常の中には少しずつ「信頼」が生まれはじめる。そんな矢先に明らかとなった「凶悪犯の山神が整形して逃亡している」という事実。この男は一体何者なのか? 果たしてこの中に山神はいるのか? それぞれの心に再び暗い影がもたげはじめ…。
 東京・房総・沖縄と3つの視点のバラバラな人間模様がひとつの凄惨な事件で繋がり、いつしかクライマックスにむかって同時進行していく展開はなんともスリリング。しかも冒頭は現在も未解決の「世田谷一家殺人事件」を、山神の逃亡劇は「リンゼイさん殺人事件」の犯人・市橋達也をそれぞれ連想させ、山神が残した「怒」の文字とその不可解な行動の得体の知れない不気味さとあいまって、物語世界には息苦しくなるほどの緊張感が漂う。
 そんな重い気配の中でも男との心の交流は丹念に描かれ、そのほんのりとした温もりはひと時ほっとさせてくれもする。だが、ぬぐいされない黒い影のようなモヤモヤが常に心の奥に横たわるのは避けられず、普通の人々が等身大の幸せを求めて生きる姿を映しただけのはずなのに、なぜだかどこか哀しい。「信頼関係」が社会の基本ではあるけれど、こうしてギリギリの問いとして目の前に提示されたとき、あらためて人が人を「信じる」という行為の難しさ、その重みと責任を実感させられる。そしてまた、すべての悲劇のはじまりとなった山神の凶行を思うとき、「怒り」という感情の暴発的な不条理さは絵空事ではなく、我々の日常とすでに地続きであるという事実に戦慄するのだ。
 ミステリー仕立てながら謎解きをこえた重厚な人間ドラマを描き出すのは、さすが芥川賞作家の吉田修一。今回の映画化にあたっては、好評だった『悪人』と同じ李相日が監督・脚本をつとめるとあって、再びのタッグに期待がかかる。
 ちなみにキャストが豪華な映画の場合、あらかじめ原作を読んで世界をインプットしておき、役者たちがその世界をどう演じるのかを楽しむのも醍醐味のひとつ。なにしろ『怒り』の場合、東京、房総、沖縄の3つの舞台で人物たちが複雑な人間模様を織りなすとあって、その楽しみも3倍だ。ゲイカップルの優馬と直人を妻夫木と綾野が演じるなど、すでに配役も発表されているので、映画公開まで妄想をふくらませるのも期間限定のお楽しみになるにちがいない。
 文=荒井理恵

 ◎上記事は[ダ・ヴィンチニュース]からの転載・引用です)
----------
映画『怒り』公式サイト
 対談 吉田修一×李相日
―― 原作「悪人」は2007年に発表され、3年後の2010年に映画公開。公開後は大変話題になりましたね。
吉田:僕としては初めての新聞連載だったこともあり、書いている間はもう必死でした「映画になったらいいなあ」とか、そんなこと考える余裕もなかったですね。東宝から最初に連絡があったのは、確か連載が終わる直前頃だったかな。しかも妻夫木聡さんが主人公・祐一役をやりたいと申し出てくれた。
李:僕は映画化を前提に原作を読んだのですが、ずっと自分がもやもやと感じていたこと、自分が映画にしてみたいことが、そのまますべて入っていたような驚きを感じました。
―― 脚本は吉田さんと李監督の共同執筆ですよね。
吉田:「自分で脚本を書きたい」って申し出たんです。たぶん、『悪人』という作品が映画という形で続くんなら、その最後までずっと一緒にいたいなと思ったんですね。心中するような気持ちで。
李:だから最初は吉田さんが自ら脚本を書かれるということで、僕はじっと待っていたんですよ(笑)。あれだけ濃密で膨大なボリュームの小説を、原作者がどういう風に抽出されるのか、とても興味がありましたし。ただ何回かの打ち合わせを経て、どうやら僕も自分で書いてみないことには、こちらの意図を映画としてうまく伝えられないなと思い直し、共同作業という形でキャッチボールをさせていただいたんです。
吉田:そのキャッチボールが長かったんですよ……。作業に使った東宝の会議室は、いまでもトラウマですもん。
李:すみません(笑)。
吉田:僕は原作者ですけど新人脚本家なので、貴重な経験でした(笑)。李監督は「腹に落ちてこない」っていう言い方をするんですよ。とにかく自分が感覚的に納得するまで、もう粘る、粘る。
李:うんざりされているだろうな、とは思いつつ……(笑)。でも根っ子はあくまで原作なんですよ。ただ実際に映画を撮る者として、まず自分が原作の世界を血肉化できるように、細かいニュアンスまで徹底的に詰めていったということです。
吉田:脚本作りが終わったあと、どこをどっちが書いたのかわからなくなっていましたね。
―― 結果、2010年に完成した映画は公開前にモントリオール世界映画祭で深津絵里さんが最優秀女優賞を受賞し、その年の国内の映画賞は総ナメ。興行的にも大成功となりました。
吉田:僕は単純に浮かれていましたね(笑)。
李:僕はとにかくホッとしたというか……『七人の侍』の勘兵衛(志村喬)じゃないですけど、「なんとかまた生き残ったな」って(笑)。まだ映画監督を続けることができる、と。あと『悪人』は作る過程において関係者にいろんなムチャを強いちゃったので、結果くらいは良くないとまずい(笑)。
 吉田さんからの恨みもこれで浄化されるかと……。
吉田:忘れてはいないんですけど(笑)、あれだけ出来上がった映画が良ければすべてOKになっちゃいますよね。
―― そしてお二人の6年ぶりのタッグとなったのが『怒り』です。 原作小説の連載は2012年から2013年ですが、映画化のお話はどのタイミングであったのでしょう?
吉田:まずは単行本になる前、プルーフ版(仮製本した見本)の段階で、僕から李監督に自分の小説をお送りしたんです。それは単行本の帯用のコメントをお願いするためなんですけど。「怒り」は自分でも『悪人』につながる要素があると思っていたので、いったい李監督がどう読むのか、非常に興味があったんですよ。
李:吉田さんはもちろん『悪人』以降も何作も書かれているじゃないですか。でも単行本の見本が自分に送られてきたのが初めてだったので(笑)、まず構えますよね。「これは読み終わるまで、水一滴も飲んじゃいけないのかもしれない」と……。
吉田:そんなこと思ってたんですか?(笑)李:ただいったん読み始めると、もう夢中になっちゃったんですよ。文字から来る圧力に打ちのめされながら読み終えて。でもすぐ「映画にしたい」という気持ちにはなれなかった。間違いなく『怒り』を映画にするには、『悪人』とは違う方法論が必要だと思ったんです。だからその後、とりあえず一回原作から距離を置いて自分の頭を冷却しようと。
吉田:でも、それからわりとすぐに直接お会いしたんですよ。『悪人』のプロデューサーだった川村元気さんも交えて三人で。2013年の年末かな。
李:あくまでプライベートな集まりだったんですけど、その時にもう事実婚というか(笑)。ゴールはまだイメージできないけど、映画化に向けてスタートしようという雰囲気になっちゃったんです。
吉田:僕のほうは「映画になればいいな」くらいの気持ちだったんですけど、ただ李監督には無理難題を押し付けているな、と思っていました(笑)。『怒り』って、小説の書き方としても『悪人』より遥かに難しかったんですよ。それを映画にするなんて……。だからこそ「李相日ならどうする?」ってところを見てみたい、という欲望が働いたんですね。
―― 吉田さんは『怒り』を読売新聞に連載中、物語の核となる殺人事件の犯人を決めずに書き進めていったそうですね。
吉田:半分を越えたあたり……後半に突入してもまだ決めていなかったです。ただ「犯人を決めずに書こう」というコンセプトから入ったのではなく、実際書いているうちに迷ってくるんですよ。容疑者として浮かんでくる三人の身元不明の青年のうち、誰が犯人・山神だと本当に納得できるのか。
―― しかも犯人以外の青年を描く二つのパートは事件と無関係ということになります。これはミステリーとして前例のない構造だと思います。
吉田:ありがとうございます。そこに注目してくれる人がほとんどいないんですよ。でもだからこそ、脚本の話になった時、まずこう言ったんですね。「今回、僕はできません」って(爆笑)。
李:いきなり吉田さんに一抜けられちゃって。結局自分ひとりで書くハメになったんですけど、僕も最初は「無理だよ!」って言いましたよ(笑)。『悪人』は小説を読んだ時点で自分なりに映画化のイメージがおぼろげに掴めてましたけど、『怒り』は余程考え抜かないと、作りながらドーン!ドーン!と次々に壁がやってくるのは予想できたので。
吉田:李監督が特に難しいと思えた壁は何ですか?
李:映画としての着地点ですね。それはまさにタイトルが示すように、『悪人』は特定の人間を指す言葉じゃないですか。でも『怒り』は“誰か”の問題に集約できない。裏返すと、誰にでも当てはまる観念なわけです。それを生身のキャラクターを使って、どこに持って行けるかが最初わからなかった。これは映画用に新たな発見が必要だなと。
吉田:だいたい群像劇って、『悪人』もそうですけど、ひとつの事件を核に全体がつながっていくんですね。だけど『怒り』は実際にはつながっていない。李監督がおっしゃったように“観念で広がる”っていう……。ひとつの事件が、まったく別の場所で生きる者たちの人生にも深く関わっていく。そんな可能性に賭けて書いた物語なので。
李:あと、映画は時間を操る表現じゃないですか。だけど『怒り』の物語は、パートごとに見ていくと、バラバラの三つの場所でそれぞれ似たような経緯をたどるんですね。出会って、親密になって、犯人ではないかと怪しんで……。その流れを映画の時間の中で追いかけると、重複する展開が多くなるんです。それは得策ではない。だから各パートの物語をいかに補完し合う形でシャッフルして、どうひとつのリニア(線状)な時間に乗せていくか。いかに二時間あまりのランニングタイムで気持ちよく駆け抜けていくか……そこが悩みどころでした。原作の時間経過とは違って、“ひと夏”の出来事にしよう、という発想もそこから生まれました。
吉田:「『悪人』が冬の映画だから、『怒り』は夏の映画にしたい」ってこともおっしゃっていましたよね。
―― 物語の舞台を東京・沖縄・千葉の三か所にしたのはなぜですか?
吉田:場所に関しては、最初十か所くらい考えていたんですよ。もっと日本全土にまたがる形で。それを書く前にひとつずつ消していって、 残ったのがこの三カ所でした。あくまで直感で選んだんですけど、 必然的に残るべくして残ったんでしょうね。
―― 「誰が犯人か?」という部分でいうと、 映画では指名手配の写真がミスリードを誘発するトリックとして機能しますね。
李:脚本を書く段階の考え方として、核に据えたのは「それぞれの人にとって自分の近しい人が指名手配の顔に見えてしまう」ってことです。愛子の目には田代に似て見えるし、優馬には直人のように見えるし、っていうラインを押さえて、あとは具体的な映像を作っていく段階に課題を回そうと。黒澤明監督の『羅生門』じゃないですけど、個人の主観によって世界像が変わって見える、ということを表現しないと、指名手配写真がただのミステリーの道具になってしまうので。
吉田:そもそも李監督って、例えば原作にあるAさんのエピソードを映画にする時、Aさんのキャラクター自体を変えることはしないんです。ただ原作がAさんの昼を書いていたとすると、映画では夜を描こうとする。同じ人の別の顔を描こうとする。人間の見方が一面的じゃないんですよ。だから根っ子は原作と同じだけど、同じキャラクターの違う顔、いろんな顔を映画では見ることができる。
李:そういう脚色が可能なのは、吉田さんが立体的な人物像を書かれているからですよ。キャラクターを単なる物語上の役割や記号にはしていない。だからこっちも「この人の別の顔が見たいな」という発想が生まれてくる。
―― 人間という複雑な生きものを多面的に捉える。これはまさにお二人をつなぐ重要な特質だと思います。
李 :『怒り』はミステリー・ジャンルの体裁をしていますけど、核心にあるのは犯人捜しや謎解きとかじゃなくて、「信じることの難しさ」あるいは「人を疑ってしまうことの闇」。その心の闇が僕はいちばんの謎というか、ミステリーだと思っているので。それが“怒り”という観念とつなげられたら、「怒りとはなんぞや?」っていう出口に、最終的には何とかたどり着けるんじゃないかなって。
―― 日本最強とも言えるドリームキャストが揃いましたよね。
吉田:壮観ですよね。
李:絶対に替えが利かない精鋭メンバーに集まっていただけました。
 最初にお願いしたのは、やっぱり洋平役の渡辺謙さんでしたね。群像劇のトップを切っていただく役回りですし、全体のバランスの要にもなる。謙さんとは『許されざる者』(13年)でもご一緒させていただいたんですけど、主役が渡辺謙である、という重圧は僕らスタッフサイドの気構えや覚悟を否が応でも引き上げてくれますから。それに、自分の心のうちに複雑な感情を溜め込んで生きて来た男のシルエットを謙さんがどう纏うのか、非常に興味がありました。あれだけ、背中で多くを語れる俳優さんは他にはいないですからね。
―― 洋平の娘・愛子役は宮崎あおいさん。外見で言うと原作からは遠いかもしれませんいかもしれません。
李:原作では「ぽっちゃり」しているという設定ですからね。でも基本的に僕は原作のルックを再現しようとは全然思わないんですよ。もっとキャラクターの根っ子にあるものでキャスティングしたいと常々思っていて、愛子にある危うさと純粋さを考えた時、僕の中であおいちゃんのことが浮かんだんですね。ただ「宮崎あおいでいきたい」と最初に話した時、周囲はみんなピンと来てなかったんですけど(笑)。
吉田:過去の映画の宮崎あおいさんのイメージとはずいぶん違いますもんね。
李:実は、今まで自分の映画の中に宮崎あおいが出るということを一度もイメージしたことがなかったんですよ。あおいちゃんの方も同じことを思っていたみたいで、お互い生息地域が違うっていう印象があったんですけど(笑)。ただ『怒り』では初めて彼女と一緒にやりたいと思ったんです。純粋に宮﨑あおいという女優に興味を持ったと言うか。もちろん、愛子になる上で5キロ以上体重を増やしても貰いました。
―― 優馬役の妻夫木聡さんはもはや李組の常連。
 『69 sixty nine』(04年)『悪人』に続き三度目の出演となります。
李:妻夫木君は『怒り』を作ると聞いた時点で「何らかの形で参加したい」ってすぐに言ってくれましたね。 実は『悪人』の時、彼が祐一役を演じる際に観てもらった映画があったんです。それが『ブロークバック・マウンテン』(05年)なんです。あの映画で同性愛の関係に悩むヒース・レジャーの芝居をよく見ておいて欲しいと。その影響もあって、彼の中でゲイの男性は挑戦したい役柄としてあったんじゃないかと思うんですね。
―― そして殺人事件の犯人に疑われる三人は、 直人役の綾野剛さん、田中役の森山未來さん、田代役の松山ケンイチさんです。
李:指名手配の写真で顔のイメージが重なるというくだりがあるので、さすがに塩顔とソース顔ほど離れたキャスティングはできないですけど(笑)、
 基本的には個々のキャラクターに合う佇まいと顔つきで選ばせてもらいました。
 まったく僕の勝手な感覚なんですが、田中役は森山未來君しかありえないと思いました。歪んで見える瞬間と、その裏の透き通った魂を同時に感じさせる独特な顔だなと。ちょうど彼がイスラエルへの留学を経て、戻ってきてすぐの時期にダンスの公演を観に行ったんですが、田中のようなバックパッカー的な雰囲気、原作では「どこにも居場所のない奴の目」と表現されていた眼差しを感じました。
 綾野剛君は、役者としても正体不明なところがあると思うんです。演じる役柄の幅広さはもちろん、良い意味でのあやふやさがあって、まだまだちゃんと彷徨っている。それが直人役にぴったりだなと。あと肌が白くて、きめ細かそう(笑)。繊細なゲイの青年という役の設定以上に、恋愛の相手として、思わず触ってみたくなるような肌をしているかどうかという皮膚感覚は重要だなと思ったんです。
 松山ケンイチ君は、まず純粋に以前から興味があって、一度仕事してみたいなとずっと思っていたんですね。これまでの彼は、色の強いものを纏うことでくっきりした個性を出す役が多い印象があったんです。だけど今回の田代は原作でもいちばん余白が多い人物なので、過剰な要素を全部削ぎ落とした、素っ裸の俳優・松山ケンイチの姿を見せてもらえるかなと思ったんですね。
―― 泉役は、広瀬すずさん。
李:彼女が秀でているのは、その熱量なんですね。おそらく持って生まれた魂の強さ、存在から放たれるエネルギーは他の人にない魅力でした。その魅力を引き出すために、現場で千本ノックかなと(笑)。
 沖縄編には地元のオーディションで選んだ新人の佐久本宝君もいますから、やっぱりリハーサルにはいちばん時間を掛けましたね。
 二人とも若いので吸収力が高いし、叩かれても起き上がってくるパワーがありますから、まったく遠慮せずにしごきました(笑)。
―― このキャスティング、原作者としてはいかがですか?
李:内心、「この人は違うんだよな」って思ってたりするところないんですか?
吉田:僕も李監督と同じで、原作のルックが再現されているかとか、どうでもいいんです。それよりも「この役は、この人なんだな」っていう監督の選択を楽しむほうが好きですね。
李:素敵な原作者ですね(笑)。
―― 撮影は2015年の8月から10月まで。東京編、沖縄編、千葉編の順番で撮っていったそうですね。
李:言わば三本分の映画を続けて撮ったような感覚で、その過酷なスケジュールの中で熱量を最大限まで引き上げなきゃならない。今までの現場に比べても本当に大変でした。そういう時って、やっぱり役者同士のコミュニケーションも大きいんですね。
 例えばリハーサルの時間を満足に取れないとなった時の代わりに、俳優さんが物語の役に近い関係性を裏で築いてくれているとすごく助かる。
 その点、前にご一緒した渡辺謙さんや妻夫木聡君は僕のやり方もよくわかってらっしゃるので、それを前提に関わってくれるんですよ。謙さんは待ち時間も常に娘役のあおいちゃんとの距離感を意識して話しかけてくれていたし、妻夫木君と綾野君は生活を共にする二人の親密感を出すために、プライベートでもしばらく同居することを自主的に実行してくれたり。僕の手が届かないところで、各々が演出の隙間を埋めてくれたのは本当にありがたかったですね。
吉田:その裏で埋める作業も、李監督が役者さんたちに指示を出したりするんですか?
李:明確に「やってくれ」とは言わないんですけど、まあ、それとな~く空気は作るというか……。
―― 策士ですね(笑)。吉田さんは『悪人』の時には現場に遊びに行かれたそうですが、今回は?
吉田:三か所とも行きました。撮影に関しては、こちらは部外者なので、映画ファンとして単純に楽しい。最前列に陣取っている迷惑なやじ馬ですよ(笑)。
李:もはや馴染みのやじ馬(笑)。今回はスタッフの中に溶け込んでいましたよね。
吉田:「あの人、また来てる」みたいな(笑)。撮影の笠松則通さんなど李組のスタッフ陣は連携がすごく取れていて、その素晴らしいチームワークは見学していても感激しますね。
李:続けて同じスタッフと組んでいると、何がやりやすいかっていうと、僕が何について悩んでいるかっていうのを理解してくれる。これはすごく大きい。スケジュール的に言えば監督がパッパッと合理的に答えを出せていけばいいんですけど、僕はそうじゃないんで。自分が本当に納得しないと次に行けないので。
吉田:現場でも「腹に落ちてこない」とダメなわけですね。
―― 音楽は坂本龍一さん。監督から音楽について出された指示は?
李:僕からお願いしたのは、例えば信頼に対するテーマ曲を作るとするじゃないですか。その同じテーマ曲が、疑っている時にも流れていて欲しい。つまり、信頼と疑惑という真逆の概念が同一のメロディとして聴こえる。なぜなら、ひとりの人間の中に表裏一体の両面がある。だから音楽もそうあってほしい、と。一方で「怒り」をテーマにとっても、悲しみもあれば憤怒もあったりと、捉え方や解釈がその音楽によって複層的に深まって行くもの。そんな抽象的で難しいお願いをしちゃったんですけど、物の見事に素晴らしい音楽で応えてくれました。
―― こうして完成した映画『怒り』ですが、原作者としてご覧になった感想は?
吉田:「原作者として」じゃなく、いち観客としての感想なんですけど。以前、僕が李監督との会話の中で聞いたすごく好きな言葉があるんです。こちらが映画ってクライマックスに至るまでの流れがあるじゃないですか、みたいな話をしている時に、「いや、僕は全部のシーンをクライマックスとして撮りたいんです」って。『怒り』を観た時にまず思い出したのが、その言葉でしたね。本当に最初から最後までテンションが一切緩むことなく張りつめている。素直にすごい映画だと圧倒されました。
李:ありがとうございます。そこは題材との幸福な掛け合わせというか、 『怒り』にはどのエピソードにも人間同士の濃い密度があったおかげで、 「全部クライマックス」の映画を撮ることができたんじゃないかって思っています。
吉田:あとはキャストの力でしょう。これだけの役者さんが次々と出てきて、 最高のお芝居を見せ続けていくわけですから。
李:映画は俳優のもの、ですからね。それと今回、自分で多少なりとも達成感があったのは、 観終わり感としてわかりやすい答えを提供するのではなく、明確な“クエスチョンとしての映画”を作れたってことですね。
 僕の映画って対立構造がいつもあるんですけど、オリジナル脚本を書いていた頃は、自分と他者、自分と世界の対立軸にとどまっていたんです。でも『悪人』をきっかけに内省的な対立へと変化していった。今回はその探究をさらに深くできた気がして、それはやはり『怒り』という小説がなければできなかったわけです。吉田:それは原作者冥利に尽きる言葉です。李:まあ今の自分としてやれることは全部やったので、あとはまな板の上の鯉として、皆さんの判断にゆだねるだけですね(笑)。
 *強調(太字・着色)は来栖
----------
吉田修一著『怒り』 書いたきっかけは、市橋達也の事件(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害)

    
--------------------
吉田修一 作 『ウォーターゲーム』中日新聞朝刊連載から・・・ 
--------------------
ディーン・フジオカ(『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』)を大抜擢した敏腕プロデューサー
.......


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。