『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy

2015-12-24 | 死刑/重刑/生命犯

『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy 訳者.米川正夫 河出書房新社 世界文学全集19

 誠に実(まこと)に爾曹(なんじら)に告げん、
  一粒の麦 もし地に落ちて死なずば唯(ただ)一つにてあらん。
  もし死なば多くの実を結ぶべし(ヨハネ伝第12章24節) 

【1巻】
p311~
  よしんば僕が人生に信を失い、愛する女に失望し、ものの秩序というのをほんとうにすることができなくなったあげく、いっさいのものは混沌としてのろわれたる悪魔の世界だと確信して、人間の幻滅の恐ろしさをことごとく味わいつくしたとしても、---それでも、ぼくは生きてゆきたい。いったんこの杯に口をあてた以上、それを征服しつくしたあとでなければ、決して口を放しゃしない!しかし、三十くらいになったら、まだ飲み干してしまわなくっても、必ず杯を棄てて行ってしまう・・・しかし、どこへ行くかわからない。だが、三十まではぼくの青春が、いっさいのものを征服しつくすに相違ない、生にたいする嫌悪の念も、いっさいの幻滅もね。ぼくはよく心の中で、自分の持っている凶暴な、ほとんど無作法といってもいいくらいな生活欲を征服しうる絶望が世の中にあるかしらん、とこう自問自答するのだ。そしてとうとう、そんな絶望はなさそうだときめてしまったが、しかしこれもやはり三十までで、それからあとは、もう自分でも生活がいやになるだろうと思われるよ。肺病やみのような生気のない道学先生は、この生活欲を目してよく下劣なもののように言うね。詩人なんて連中はことにそうだ。この生活欲はいくぶんカラマーゾフ的特質なんだね。それは事実だ。この性質はおまえのからだの中にもひそんでいるのだ。外観上どうあろうとも、必ずひそんでいるに相違ない。しかし、どうしてそれが下劣なんだろう?求心力というやつは、わが遊星上にはまだまだたくさんあるからなあ、アリョーシャ。ぼくは生活したい、だから、論理に逆らっても生活するだけの話だ。たとえものの秩序を信じないとしても、ぼくにとっては春芽を出したばかりの、ねばっこい若葉が尊いのだ。るり色の空が尊いのだ。ときどきなんのためともわからないで好きになれるだれかれの人間が尊いのだ。
p327~
  ロシアでは、人をなぐっていじめるのが、歴史的、先天的、直接的快楽となっている。ネクラーソフの詩に、百姓が馬の目を---『すなおな目』---をむちで打つところを歌ったのがある。
  しかし、人間でもやはりぶつことができるからね。現に、知識階級に属するりっぱな紳士とその細君が、やっと7つになったばかりの生みの娘をむちで折檻している、---このことはぼくの手帳にくわしく書きこんであるよ。おやじさんは棒切れに節こぶがあるのを喜んで、『このほうがよくきくだろう』なんかって言うじゃないか。そうして、現在肉親の娘を『やっつけ』にかかるのだ。
p328~
  ぼくはいま一度はっきりと断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ、もっとも、子供にかぎるのだ。ほかの有象無象にたいするときは、最も冷酷な虐待者も、博愛心に満ちた教養あるヨーロッパ人でございと言うような顔をして、慇懃謙遜な態度を示すが、そのくせ子供をいじめることが好きで、この意味において子供そのものまでが好きなのだ。つまり、子供のたよりなさがこの種の虐待者の心をそそるのだ。
  ほかでもない、寒い寒い極寒の時節に、その子をひと晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ。
p329~
  おまえにはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけなこぶしを固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、----え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が、説明できるかい、おまえはぼくの親友だ、神の聴法者だ、いったいなんの必要があってこんな不合理がつくり出されたのか! 一つ説明してくれないか! この不合理がなくては、人間は地上に生活してゆかれない、なんとなれば、善悪を認識することができないから、などと人は言うけれども、こんな価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにある? もしそうなら、認識の世界ぜんたいをあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。
p330~
  この家の犬小屋には何百匹という犬がいて、それに百人近い犬飼がついていたが、みんな制服を着て馬に乗っているのさ。ところが、あるとき召使のむすこで、やっと九つになる小さい男の子が、石をほうって遊んでるうちに、誤って将軍の愛犬の足をくじいたんだ。『どういうわけで、おれの愛犬はちんばをひいておるのか?』とのおたずねで、これこれの子供が石を投げて愛犬の足をくじいたのです、と申し上げると、『ははあ、これはきさまのしわざか』と将軍は子供を振り返って、『あれを捕まえい!』で、人々はその子を母の手から奪って、ひと晩じゅう牢の中へ押し込めた。翌朝、夜の明けきらぬうちに、将軍は子供の着物をはげと命じた。子供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶるふるえながら、恐ろしさにぼうっとなって、うんともすんとも言えないのだ・・・『それ、追えい!』と、将軍が下知あそばす。『走れ、走れ!』と勢子どもがどなるので、子供は駆け出した・・・と、将軍は『しいっ!』と叫んで、猟犬をすっかり放してしまったのだ。こうして母親の目の前で、獣かなんぞのように狩り立てたので、犬は見る間に子供をずたずたに引き裂いてしまった!・・・その将軍はなんでも禁治産者か何かになったらしい。そこで・・・どうだい? この将軍は死刑にでも処すべきかね? 道徳的感情を満足さすために、死刑にでも処すべきかね? 言ってごらん、アリョーシャ!」
  「死刑に処すべきです!」あお白いゆがんだような微笑を浮かべて兄を見上げながら、アリョーシャは小さな声でこう言った。
  「ブラーヴォ!」とイヴァンは有頂天になったような声でどなった。「いまえがそう言う以上、つまり・・・いや、どうもたいへんな隠遁者だ!そらね、おまえの腕の中にも、そんな悪魔の卵がひそんでるじゃないか、え、アリョーシカ・カラマーゾフ君!」
  「ぼくはばかなことを言いました、しかし・・・」
p332~
  問題は山ほどあるけれど、ぼくはただ子供だけを例にとった。そのわけは、ぼくの言わなければならないことが、明瞭にその中に現れているからだ。いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか? なんのために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか!
p333~
  しかし、ぼくはそのとき『主よ』と叫びたくないよ。まだ時日のある間に、ぼくは急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸をたたきながら『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら価しないからだ! なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、あがなわれることなく棄てられたからだ。この涙は必ずあがなわれなくちゃならない。でなければ調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなおうというのだ? それはそもそもできることだろうか? それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか? しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか! それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。ぼくはゆるしたいのだ、抱擁したいのだ。決して人間がこれ以上苦しむことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすのに必要だというなら、ぼくは前からきっぱり断言しておく、---いっさいの真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁しなくたってかまわない! 母親だってその暴君をゆるす権利はないのだ! もしたって望むなら、自分だけの分をゆるすがいい、自分の母親としての無量の苦痛をゆるしてやるがいい、しかし、八つ裂きにせられたわが子の苦痛は、決してゆるす権利を持っていない。たとえわが子がゆるすと言っても、その暴君をゆるすわけにはゆかない! もしそうとすれば、もしみんながゆるす権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和がありうるんだ? いったいこの世界に、ゆるすという権利を持った人がいるだろうか? ぼくは調和なぞほしくない、つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえばぼくの考えがまちがっていても、あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。
p340~
  深い闇の中に、とつぜん牢屋の鉄の戸が開いて、老いたる大審問官が手にあかりを持って、しずしずと牢屋のなかにはいってきた。彼はただひとりきりで、戸はそのうしろですぐさま閉ざされた。彼は入り口に立ち止って、長いこと、1分間か2分間か、じいっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かに近寄って、あかりをテーブルの上にのせて口をきった。
  『おまえはイエスか? イエスか?』しかし、返事がないので、急いでまたつけたした。『返事しないほうがいい、黙っておるがいい。それに、おまえなぞ何も言えるはずがないではないか! わしにはおまえの言うことが、あまりにもわかりすぎるくらいだ。それに、おまえはもう昔に言ってしまったこと以外に、何ひとつつけたす権利さえ持っていないのだ。なぜおまえはわしらのじゃまをしに来たのだ? ほんとうにおまえはわしらのじゃまをしに来たのだろう、それはおまえ自身でもわかっておるはずだ。しかし、おまえは明日どんなことがあるか知っておるか? わしはおまえが何者か知らぬ、また知りたくもないわ。おまえがほんとうのイエスかまたはにせ物か、そのようなことはどうでもよい。とにもかくにも、明日はおまえを裁判して、一番性の悪い異教徒として烙いてしまうのだ。すると、今日おまえの足を接吻した民衆が、明日はわしがちょっと小手招きしただけで、おまえを烙く火の中へわれさきに炭をかきこむことであろう。おまえはそれを知っておるか? おそらく知っておるであろうな』と彼は1分間も囚人(めしゆうど)の顔から目を離さないで、しみじみと考え込むようなふうつきでこう言いたした」
p341~
  「そして、囚人はやはり黙っているのですか? 相手の顔を見つめながら、ひと言も口をきかないんですか?」「そりゃ、そうなくちゃならないよ、どんな場合においてもね」と、イヴァンはまた笑い出した。「老人自身も、キリストは昔自分が言ってしまったこと以外に、何ひとつつけたす権利を持っていない、と断言しているじゃないか。もしなんなら、その中にローマカトリック教の最も根本的な特質がふくまれてる、と言ってもいいくらいだ。少なくともぼくの意見ではね。『もうおまえはみんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いまいっさいのことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい。少なくとも、ある時期の来るまでじゃまをしないでくれ』というのさ。
p349~
  われわれはおまえの事業を訂正して、それをば奇跡と神秘と教権の上に打ち立てたのだ。そのために民衆は、ふたたび自分たちを羊の群れのように導いてくれる人ができ、非常な苦痛の原因たるかの恐ろしい賜物を、ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだ。
p350~
  われわれがこういうふうに教えたのはまちがっておるかどうか、一つ言って聞かしてくれ。われわれが素直に人間の無力を察して、やさしくその重荷を減らしてやり、意気地のない本性を思いやって、われわれの許しを得た上なら、悪い行いすら大目に見ることにしたのは、はたして人類を愛したことにならぬだろうか。
  いったいおまえは今ごろなんだって、われわれのじゃまをしに来たのだ? どうしておまえはそのおとなしい目で、腹の底まで読もうとするように、黙ってわしを見つめておるのだ? おこりたいなら勝手におこるがよい、わしはおまえの愛なぞほしくもないわ。なぜならば、わし自身もおまえが好きでないからだ。それに、何も隠し立てする必要はない。それともおまえがどんな人間かということを、わしが知らぬとでも思うのか? わしが今言おうと思っていることは、すっかりおまえにわかっている、それはおまえの目つきでちゃんと読める。しかし、わしはおまえにわれわれの秘密を隠そうとはせぬ。もっとも、おまえはどうしてもわしの口から言わせたいのかもしれぬ。よいわ、聞かせてやろう。われわれの仲間はおまえでなくて、彼(悪魔)なのだ、これがわれわれの秘密だ! われわれはもうずっと前から、もう8百年の間おまえを捨てて、彼といっしょになっているのだ。ちょうど8世紀以前、われわれは彼の手から、おまえが憤然としりぞけたものを取ったのだ。彼が地上の王国を示しながらおまえにすすめた、かの最後の贈り物を取ったのだ。われわれは彼の手からローマとケーザルの剣を取って、われわれのみが地上における唯一の王者だと宣言した。もっとも、まだこの事実を十分完成する暇がなかったが、それはわれわれの罪ではない。この事業は今日にいたるまで、ほんの初期の状態にあるが、とにかく緒についてはいるのだ。その完成はまだまだ長く待たなければならぬし、まだまだこの地球は多くの苦しみをなめねばならぬが、しかしわれわれは目的を貫徹してケーザルとなるのだ。ところで、おまえは、まだあのときケーザルの剣を取ることができたのに、どうしてこの最後の贈り物をしりぞけたのだ? この悪魔の第3の勧告を採用したなら、おまえは地上の人類が求めているいっさいのものを満たすことができたのだ。ほかでもない、崇拝すべき人と、良心を託すべき人と、すべての人間が世界的に一致してあり塚のように結合する方法である。なぜと言うに、世界的結合の要求は、人間の第3にしてかつ最後の苦悶だからである。
p351~
  全世界とケーザルの緋袍を取ってこそ、はじめて世界的王国を建設して、世界的平和を定めることができるのだ。なぜと言うに、人間の良心を支配し、かつそのパンを双手に握っている者でなくて、だれに人間を支配することができようぞ! 
  われわれはケーザルの剣を取った。そして、これを取った以上、むろんおまえを捨てて彼の跡について行った。おお、人間の自由な知恵と、科学と、アンスロポファジイ(人肉啖食)の放肆(ほうし)きわまりなき時代が、まだまだ幾世紀もつづくだろう。
p493~
  地上の静寂は天上の静寂と合し、地上の神秘は星の神秘と相触れているように思われた・・・アリョーシャはたたずみながらながめていたが・・・ふいに足でも薙がれたように、地上へがばと身を投じた。
  彼はなんのために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地を残るくまなく接吻したいという、おさえがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することができなかった。しかし、彼はなきながら接吻した、大地を涙でうるおした。そして、自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった。『おのが喜悦の涙をもってうるおし、かつその涙を愛すべし・・・』という声が彼の魂の中で響き渡った。いったい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、感激のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥ようともしなかった』ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、いっせいに彼の魂へ集まった思いであり、その魂は『他界との接触に』ふるえているのであった。彼はいっさいにたいしてすべての人をゆるし、それと同時に、自分のほうからもゆるしをこいたくなった。おお!それは決して自分のためでなく、いっさいにたいし、すべての人のためにゆるしをこうのである。『自分の代わりには、またほかの人がゆるしをこうてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた。しかし、ちょうどあの蒼穹のように毅然としてゆるぎのないあるものが、彼の魂の中に忍び入るのが、一刻一刻と明らかにまざまざと感じられるようになった。何かある観念が、彼の知性を領せんとしているような心持ちがする、----しかしそれは一生涯、いな、永久に失われることのないものであった。
  彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ちあがったときは生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのときだれかぼくの魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉にたいして固い信念をいだきながら・・・
 三日の後、彼は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。

【2巻】
p553~
  「カラマーゾフ万歳!」とコ‐リャは歓喜にたえぬように叫んだ。 「そして、なくなった少年を永久に記憶しましょう!」 アリョーシャは情のこもった声で、こう付け加えた。 「永久に記憶しましょう!」とさらに少年たちが引き取った。 「カラマーゾフさん!」とコーリャハ叫んだ。「ぼくたちはみんな死からよみがえって命を得て、またお互いに見ることができるって、----どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教のほうでは教えていますが、あれはほんとうでしょうか?」
  「きっとわれわれはよみがえります。きっとお互いにもう一度出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう」アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていで答えた。
  「ああ、そうなればどんなにうれしいだろう!」とコーリャは思わず口走った。「さあ、もう話をやめて、イリューシャの法事に行きましょう。そして心配しないでプリンを食べましょう。昔からしきたりの古いしゅうかんですからね。そこに美しいところがあるんですよ」アリョーシャは笑った。「さあ、行きましょう!これからわたしたちはお互いに手を取り合って行くんですよ」「永久にそうしましょう、一生、手を取り合って行きましょう!カラマーゾフ万歳!」もう一度コーリャが感激したように叫ぶと、ほかの少年たちはふたたびその叫びに和した。


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