選挙での惨敗が麻原彰晃を凶行へ… 背景に幼少時代のトラウマ <麻原彰晃の真実(2)>
2018.7.6 14:15 週刊朝日#オウム真理教
6日、法務省が発表した、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の教団元幹部の死刑執行。多くの謎を残したままの死刑執行に、様々な声が挙がっている。麻原彰晃とはどんな人物だったのか? 6千人を超す死傷者を出した地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』で徹底的に取材した麻原像を、特別に公開する。日本中を、いや世界を震撼させたオウム事件とは何だったのか。「尊師」と呼ばれた男の半生と、テロにつながった「狂気」の全貌を、全3回で明らかにする。
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■オウムの誕生
83年になって麻原彰晃と名乗り始めると、翌84年2月、教団の前身となるヨガサークル「オウム神仙の会」の主宰として、再び世に出てきた。
85年には、座禅を組んだまま浮き上がる「空中浮揚」に成功したとオカルト誌に売り込み、写真を掲載させた。矢継ぎ早にトップの著作を出版し、組織を大きく見せる戦略は、先行する新興宗教と同じ手法だった。
教団の資料によると、麻原は86年1月に修行の本場であるインドを訪問し、同年夏にヒマラヤで「最終解脱」を果たした、とされる。
わずか15人で発足した「オウム神仙の会」は、86年には東京世田谷区に東京本部、87年には大阪市淀川区に大阪本部をつくり、設立から3年半で信徒を1300人にまで増やした。
そして87年7月、「オウム真理教」に改称。全国各地に支部や道場を建設し、教団の拡大を図った。
信徒の増加にともなって、営利追求の姿勢も露骨になっていった。
<解脱特別修法10万円、グルヨーガイニシエーション30万円、血のイニシエーション100万円……>
修行マニュアルが体系化されて法外な料金を取るようになり、布施も制度化されていった。
麻原は、チベット仏教のダライ・ラマ14世から秘儀を伝授され、92年には「タントラ・ヴァジラヤーナ」を国教とするブータン政府から招待を受け、「最聖」の称号を贈られたと称した。しかも、タントラ・ヴァジラヤーナとは、殺人を含めた犯罪も救済のためにはやむを得ない、とする仏教の最上級の教義ステージだと説いた。
さらに89年3月には、宗教法人設立の申請書類を東京都に提出したが、「出家制度などに苦情が多い」として受理を留保された。その時点で、都には元信者や信徒の親から、「入信した子どもと会わせてくれない」など、約20件の批判が寄せられていた。警察からの報告もあった。
4月末には「陳情」と称して信徒約220人が突然都庁を訪れ、廊下を練り歩いた。5月には1週間にわたって、担当の課長や副知事などの職場と自宅に電話攻勢をかけた。
6月に入ると教団は<法に定められた期限(3カ月)通りに認証しないのは違法>として、都知事を相手取って行政訴訟を起こした。そして8月末、念願の宗教法人の認証を受け、その後、訴訟は取り下げた。麻原は説法でこう言った。
「認証が下りました。オウム真理教は、宗教法人オウム真理教です」
こうして教団を拡大させる一方、麻原は水面下で様々な違法行為を指示していた。88年に修行中に死亡した信徒の遺体を教団内で処分したのに始まり、89年には、信徒の田口修二さんと坂本堤弁護士一家の殺害をそれぞれ信徒に命じた。
教団は田口さんを殺害した翌月に宗教法人の申請をし、認証された3カ月後に坂本さん一家を殺害した。
宗教法人としてのオウム真理教は、その成り立ちからして、「殺人教団」そのものだった。
■衝撃の惨敗
出家制度のもとに現世と隔絶を訴えてきた麻原は、89年に入って突然、政治への志を説き始めた。
「私たちの救済活動が、政治家たちに受け入れられるだろうか」
「瞑想しているだけで解決できるか? 政治が必要なんだ」
念頭にあったのは、次期衆院選への出馬だった。
唐突な選挙準備に信徒らは戸惑う。89年7月、緊急会議が静岡県富士宮市の富士山総本部で開かれ、約200人の信徒が集まった。
「選挙に出ると、オウムの宗教が変わってしまうのではないか」
「選挙や政治に首を突っ込むのは危険ではないか」
反対意見が相次いだが、麻原は頑(かたく)なだった。全員が賛成するまで出馬の賛否を取り続けた。少年時代に満たされなかった自己顕示欲と、かつての政治家への思いが背中を押したとしか思えない執拗さだった。
90年2月の衆院選には麻原を始め25人が立候補した。億単位のカネをつぎ込んだが、いかんせん素人選挙だ。全員が落選し、麻原の得票はわずか1783票だった。
麻原は衝撃を受けた。教団内で絶対者としてあがめられてきた権威の失墜。選挙に出ては負けた少年時代の屈辱の再来。
「もう(教団を)やめようか」
と、珍しく弱音を吐いた。
ここで麻原が、教団の内外で自分への評価がいかに違うか、世間からオウムがどれだけ冷ややかな目で見られているのかに気づいて踏みとどまっていれば、後の凶行は防げたかもしれない。ただ、この時点で信徒は7千人まで増えていた。
広範の宗教の知識とカリスマ性を身にまとった「尊師」であり続けようとすれば、もう止まれない。麻原はすぐに思い直し、こう説いたのだ。
「私は6万票は取れるはずだった。選挙管理委員会絡みの大きなトリックがあった可能性がある。国家権力による妨害だ」
落選の2カ月後、「東京が危ない」と信徒をあおり、沖縄県石垣市で大集会「石垣島セミナー」を開いた。参加費は1人30万円だった。
ここで麻原は「ハルマゲドン」(人類最終戦争)を演出に使う。説法などで、
「97年にハルマゲドンが来て、10人中9人が死ぬ。オウムに入らないと生き残れない」
と繰り返し、強引に出家者を増やして、全財産を布施させた。それによって、衆院選の供託金没収などで4億円消え、破産寸前とも言われていた教団財政の立て直しに成功した。
その後、教団の暴走に拍車がかかった。90年秋には熊本県波野村(現・阿蘇市)の敷地取得を巡って、信徒5人が国土利用計画法違反の容疑で逮捕された。すると92年にはロシアへ進出。武装化へ大きく歩み出す。(年齢肩書などは当時)
※週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)から抜粋
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