裁判でも続いた麻原劇場 殺人を正当化した教祖の狂気 <麻原彰晃の真実(3)>

2018-07-21 | オウム真理教事件

裁判でも続いた麻原劇場 殺人を正当化した教祖の狂気 <麻原彰晃の真実(3)>
2018.7.6 14:15 週刊朝日#オウム真理教
 6日、法務省が発表した、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の教団元幹部の死刑執行。多くの謎を残したままの死刑執行に、様々な声が挙がっている。麻原彰晃とはどんな人物だったのか? 6千人を超す死傷者を出した地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』で徹底的に取材した麻原像を、特別に公開する。日本中を、いや世界を震撼させたオウム事件とは何だったのか。「尊師」と呼ばれた男の半生と、テロにつながった「狂気」の全貌を、全3回で明らかにする。
      *  *  *
■テロリスト誕生
 89年4月と9月の説法で麻原は言った。
「悪業を積むであろう人の命を絶ち、高い世界に生まれ変わらせることは、凡夫が見れば殺人だが、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、立派なポアだ」
 仏教の高い教義を曲解し、すでに犯したものも含め、殺人を正当化していく。
 94年3月、麻原は仙台市内での公演で、ついに「対国家戦争」について言及する。
「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」
「もう一度言おう。オウム真理教がこのままでは存続しない可能性がある。信徒は立ち上がる必要がある」
 こうして、女の子とままごとばかりしていた少年はテロリストと化した。最盛期は出家信徒が1400人、在家信徒は1万4千人まで膨らんでいた。
 95年5月16日、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)。警視庁の捜査員が「第6サティアン」に踏み込むと、「尊師」と呼ばれた男は、2階天井部分にあった隠し部屋で、960万円分の札束を抱き、横になっていた。教祖逮捕。一つの時代が終わった瞬間だった。
■のみこんだ真実
 地下鉄サリン事件から1年1カ月後の96年4月24日。東京・霞が関の東京地裁周辺には、麻原の初公判を傍聴しようと1万2292人が列をつくった。注目の罪状認否。
「絶対の幸福を得られるようにお手伝いをしたいと思う心、マイトリー、聖慈愛の実践……」
 麻原は意味不明な発言に終止し、弁護側は認否を留保した。他方、弟子たちは赤裸々に事件の内幕を証言していく。
 弁護人が麻原と意思疎通ができたのは97年の初めごろまでだった。異変が起きたのは96年10月、麻原の側近中の側近だった井上嘉浩被告(後に死刑確定)との「師弟対決」だった。
 弁護団が井上被告への反対尋問をしようとすると、麻原に遮られた。
「井上証人は私の弟子、偉大な成就者。このような人に反対尋問すると、尋問する者だけでなく、それを見聞きする者も害を受け、死ぬこともある」
 と言って、弁護人の反対尋問をやめさせようとした。
 しかし、弁護人としては、反対尋問をしなければ、井上の証言がそのまま認められてしまうため、麻原の言い分通りにするわけにはいかない。麻原と話し合うために、その日の裁判を打ち切ろうとしたが、裁判所が認めず、結局、反対尋問を強行した。
 数日後に弁護士が接見に訪れると、涙と鼻水を垂れ流し、話もできない麻原がいた。その後、法定で不規則発言を繰り返し、被告席で突然、立ち上がろうとするなどの奇行が目立つようになった。
「ここは劇場だ。裁判なんてなんの意味もない」
 と口走ったこともあった。弁護団は、そのとんでもない勘違いと思い上がりを麻原に気づかせることさえできなかった。
■「聖者のふりをすれば聖者」
 97年4月の第34回公判では一転、麻原は起訴された17事件の認否を2時間半にわたって雄弁に語った。地下鉄サリン事件については、
「自分は止めたが、結局弟子に負けた形になった」
 元信徒の落田耕太郎さん殺害事件は、
「弟子たちが直感的に殺した」
 たどたどしい英語も交え、責任を弟子に転嫁した。
 17番目の水野昇さんVX襲撃事件だけは、
「(教団自治省大臣の)新実智光にY・Aを使うように言ったのは認める。傷害として認定してほしい」
 と関与を認めた。
 その後は3度の被告人質問でも沈黙を続けた。
 第一審は初公判から7年10カ月、257回の公判の末に死刑を宣告。第二審の弁護団は「被告に訴訟能力がない」として公判停止を求め、控訴趣意書の提出を拒否したが、東京高裁は訴訟能力を認めて控訴を棄却。特別抗告も棄却され、控訴審が開かれないまま06年9月に死刑が確定した。
 11年11月に最高裁が遠藤誠一死刑囚の上告を棄却したことで、オウム裁判は一度は集結した。だが、特別指名手配されていた平田信被告の出頭や、菊地直子、高橋克也両容疑者の逮捕で事件は再び動き出した。
■勘違いの果て
 教団が大きくなるにつれて、麻原は電話魔になった。携帯電話が普及していなかったため、自室ではいつも、固定電話を抱えるようにして座っていたという。
 多くの電話番号を暗記し、絶え間なく手探りでプッシュボタンを押した。主な幹部や目をかけた信徒には自分の番号を教え、報告や密告、相談を受けた。自らの地位が転覆することを、常に恐れた。
 地下鉄サリン事件後に脱会した元信徒は、ある幹部から「尊師がふと口にした」と聞かされた言葉が忘れられない。
「一生、聖者のふりをすれば、聖者なんだ」
 麻原のあの巨躯は、ウソで塗り固められていた。
 少年時代に端を発する歪んだ個性。信徒に「解脱」の意義を説きながら、自分はその個性から脱することはなかった。そしてかかわった人すべてを、不幸のどん底にたたき落とした。
 その男はいま、東京拘置所の独房で、車いすを使って過ごしているという。(年齢肩書などは当時)
 ※週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)から抜粋

 ◎上記事は[dot.]からの転載・引用です
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