『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
加藤 多少、感情論になるかもしれないですけど、たとえば、木曽川・長良川事件は、私は足で稼ぐ調査ですから、現地、現場へ行く。彼らが育った家や近辺や環境を回るわけですよ。立ち寄ったところで、そこで何が見えてくるのか。彼らがどういうふうに息をしながらどうやって生きてきたのかということを。全部に行けとは言いませんよ。でもそこの痛みを感じながら大人たちが作りあげてきた側面、やったことの責任だけではなく、そうしている社会全体がその痛みをどう共有しながら、犯罪を起こさない仕組み、社会を作っていくにはどうするかという問題提起がなきゃいかんわけです。それは捨象して、誰がどうであろうと過去は関係なく、ここでやったことだけを裁く。もう少年法の原理なんてどこかに飛んじゃいますね。個別にちゃんとしっかり見て、慎重に判断しましょう、若くして犯罪にいたる場合にはそれなりの理由があるはずだというその疑問すらなくしてしまったら、もうタテマエだけですね。
平川 少年事件の中核には少年のコミュニケーション能力の欠如があるように感じるのですが、大人もコミュニケーション能力をなくしているのではないでしょうか。裁判官も(笑)。少年事件への対応の基礎には少年と大人とのコミュニケーションがなければなりませんが、それができていない。裁判官と少年、裁判官と弁護人、裁判官と社会との間のコミュニケーションがきちんとできていないのではないでしょうか。
加藤 さっき安田さんの言われた、3人の子を死刑にしなきゃならない必然性というのはどう説明するんでしょうかね。
安田 帳尻だけですよね。
加藤 彼らの社会との接点だとか、どう生きてきたのか、その中で生きる重たさ、その等価として死なんて対置してないですよ。非常に浅薄な感じがしちゃうし、失礼ですよね。
平川 裁判官は、被告人とも、弁護人とも全くコミュニケーションしていない。結論だけをぽんとくっつけているだけのように感じます。