「凶悪犯罪」とは何か 光市事件で脅迫電話を受けた 弁護するお前も殺しちゃえ、司法なんて必要ない

2007-11-04 | 光市母子殺害事件

『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法

安田 僕はこの間、光市の事件でかなりの脅迫電話を受けたわけですが、そういうのと対応しているんですね。私は、凶悪だと非難し、死刑にすることを求める彼らの底意に、凶暴性、凶悪性というのをものすごく感じるんですね。飛躍してしまうんですが、僕らは体験していないけれども、戦前に農村なんかで普通どおり生活していた人たちが兵士にとられて中国大陸なんかで突然残虐な行為をやってしまう。ああいうような状況に今なりつつあるのかなという気がするんです。それは一般市民だけじゃなくて裁判官も含めて底意の中の凶悪性というのは徐々に堆積してきているのではないか。そして、来年、再来年ぐらいになると、底意の凶悪性が表に出てきて、社会全体が凶悪化するような気がするんです。
 やっぱり僕に脅迫電話をかけてくる人の底意と、それから今回の最高裁の裁判官が書いた文章とが大変よく似ているんですよね。事件を「冷酷、残虐、非人間的な所業である」と決めつけて最大限の非難をし、しかも被告人に有利な事情をことごとく否定したうえ、1審、2審の6人の裁判官が悩んで出した結論を、著しく正義に反するとはなから否定しているんですよ。乱暴でひどく感情的ですよね。「いのちの大切さ」を教えるどころか、「いのちをないがしろにしろ」にしているんですよ。先ほども言いましたが、中国大陸で人を殺していった発想と同じですね。「ちょっと待て」、「どのようなことがあっても、やってはならない」という毅然とした態度や、「う~ん、なるほど」と人をして納得させるものは何もないんですね。そこらあたりというのは、裁判官がどんどん理性も思想性も失ってきたことの結果ではないですかね。
 それは、同時に、一般市民なりマスコミが裁判所に対して尊敬も期待もしないことの裏返しであると思います。裁判所は、たとえば、目の前に憲法違反の事実があるのに憲法判断を回避する、目の前に苦しんでいる人がいるのに、10年も20年もかけないとその人たちは救われない。薬害も公害も、なかなか国家の責任を認めない。他方で、人を処罰することにおいては拙速を極める。司法は、国家の間違いを正したり人を救済することをしてこなかった。光市の最高裁判決のように、「冷酷」「残虐」「非人間的」と最大限の非難の言葉を並べて、もっぱら人を処罰するばかりですから、マスコミも市民も、司法に厳罰を求めるんですね。「殺せ」、「吊るせ」とガーッと騒げば司法は簡単に動くものだと、実際動いてしまうんですけどね、そういう、全体としての同化現象というか軟弱現象が起こっているという気がします。

加藤 そうですね。凶悪合唱団が、全体としては自分自身の中にあるそういう凶悪さも揺り起こして、命を尊ぶという社会規範をどんどん後退させて、ある意味戦争状態に入って、導いちゃっている危険性というのをどれだけ感じとれるかが課題だと思います。

安田 ですから、あんな悪い奴はすぐ殺してしまえ、あんな奴を弁護するお前も殺しちゃえ、司法なんて全く必要ないという話が、何のためらいもなく湧き上がるんですね。今までの、戦後何十年と続いてきた教育はなんだったのですかね。何の役にも立っていなかったということなんでしょうね。

加藤 あまり否定的に見たくはない心情はあるんだけれども、やっぱり全体として命が大切にされないそういう流れの中で、逆に犯罪がまた再生産されてるわけですよね。コミュニケーションと言われたけれども、まさに支え合うというか共生的に生きるところから遠ざかって、孤立化するところで自殺が増え、虐待が増え、犯罪に追い込まれるという構造を作っていくという、この悪い連鎖を断ち切らないと怖いことになりますね。せっかくそこの歯止めになるはずの裁判体がその合唱団に加わってどうするんだという印象すら受けますね。

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku.htm


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