卑見「カトリック中央協議会の裁判員制度に関する公式見解を読む」~五木寛之氏の『親鸞』

2009-06-27 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

〈来栖の独白 2009-06-27 〉
  昨秋より毎朝、中日新聞の小説『親鸞』(五木寛之著)を楽しみに読んでいる。己が罪と煩悩に悩む親鸞が法然に出会い、「どのような悪人も、念仏を唱えれば救われる」との教えに深く帰依してゆく姿、読みながら胸熱くなる。
 以下のような文脈もあった。

 法然はひと息いれて、おだやかな口調で範宴(はんねん=親鸞)にたずねた。
「わたしは日々つねに念仏を口にとなえて暮らしておる。その法然の念仏と、そなたがとなえる念仏とは、はたしてちがうところがあるであろうか。それとも同じ念仏として、変わるところがないのか。どうじゃ」
 範宴はしばらく考えた。遵西や蓮空の視線が針のように突き刺さってくる。
 範宴はいった。
「同じ念仏でございましょう。すこしも変わるところはないと思います」
「なんと---」
 蓮空が怒りの声をあげた。遵西はあきれはてたといわんばかりに唇をゆがめ、首をふっている。
「安楽房は、この範宴の意見をどう思う?」
 法然がきいた。遵西は言下に答えた。
「とんでもない思いあがりでございます。反論する気もありません」
「よく、そのようなことを」
 と、横で蓮空がけもののような唸り声をあげた。
「我慢も、もうこれまでじゃ」
 いきなりとびかかった蓮空の拳が、固い石のように範宴の顔を連打した。
「やめよ、蓮空」
 法然の声が厳しくひびいた。さきほどまでのおだやかな声とはまったくちがう、戦場の武者頭のような野太い声だった。
「わたしの念仏も、範宴の念仏も、そして蓮空や遵西の念仏も、ここにあつまるすべての人びとの念仏も、すべてみ仏とのご縁によってうまれる念仏じゃ。阿弥陀如来からたまわった念仏であることに変わりはない。そう思えば、この法然房源空の念仏も、そなたたちの念仏も、まったく同じ念仏であろう。範宴とやら、よう答えた。きょうからそなたを、この法然の仲間の一人として吉水に迎えよう。よいか」
 いま自分は、はじめて本当の師とめぐりあったのだ、と範宴は思った。

 先般出されたカトリック中央協議会の裁判員制度に関する公式見解について、卑見を申し述べてみたい。
1、「祈り」に違いはあるか
 公式見解では、「信徒」と「聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員」とを区分し、勧告の内容に異なりがみられる。私は、その区分に疑問をもった。
 「祈り」とは、上記『親鸞』のなかで五木寛之氏も言われるように、神から賜物として戴いたものであり、その人の生き方となるものだ。信徒も聖職者も同じではないか。神の前には、なんぴとも等しい。ならば信徒と聖職者との間で、福音を生きるということ(裁判員制度への対応)に区分が生じてよいはずはない。
2、公式見解には、「聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員候補を辞退したにもかかわらず選任された場合は、過料を支払い不参加とすることを勧める。」とあるが、これは、どうか。
 大久保太郎氏(元東京高裁部統括判事)は『裁判員制度のウソ、ムリ、拙速』(文藝春秋2007年11月号)のなかで、次のように言われる。
 

 自由権、財産権の侵害
 憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定め、同18条後段は「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定め、同19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定め、さらに同29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と定めている(このうち「良心の自由」については、政府は立案段階で指摘を受け、これに違反しないよう政令で辞退事由を設けることを約束している)。
 ところが裁判員法によると、くじにより裁判員候補者とされた者は、具体的な事件ごとに行われるくじに当たって裁判所から呼出しを受けたときは、自分の仕事や予定を放り出してでも、裁判員選任期日に出頭しなければならない。
 裁判員または補充裁判員(裁判員欠席の場合に代わって裁判員となる)に選任されると、これまた自分の仕事や予定を犠牲にして公判期日(一回ですむものは少なく、数回、時には数十回に及び、期間も数日から数ヵ月にもなるだろう)に出頭しなければならない。しかも公判の全審理に立ち会い(一日も一刻も欠席はできない)、審理が終われば、裁判員は評議の席で自分の意見を述べ、判決宣告期日にも出頭しなければならない(その他の義務は省略する)。
 もっとも裁判員法は若干の辞退事由を定めているが、事由はごく限定的で、しかも事由のあることを裁判官に認めてもらわなければならないから、電話で済まない場合は、半日か1日をつぶして裁判所に出かける必要がある。厄介なことなのだ。
 憲法に根拠もないのに突如裁判への参加は公共の福祉だとして、国民にその意思に反して以上のような被害(雇用主の財産的被害を含む)を及ぼす法律を作ることは、国民の自由権、幸福追求権は立法その他の国政の上で最大の尊重が必要だとする前記憲法13条に違反し、また前記憲法18条の苦役強制の禁止、同29条の財産権の不可侵に違反することが明らかである。
 このような状況では、国民が裁判所から裁判員法に基づくもろもろの強制に服しなくても制裁を受ける理由はないといわなければならない(実際上も裁判所は「違反者」に過料を課すことはできないだろう)。

 裁判員制度は、違憲の疑いが濃い。このあたりを吟味もせず、安易に「過料を支払って、事無きを得よ」と勧めるのは、果たして適切か。極めて疑問である。むしろ当局からこの種の支払い命令をなされたなら、堂々と国民の自由と権利を主張して渡り合われたら如何か。
3、公式見解に、<司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持している。>とある。また、カテキズムにおけるヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』は、久しぶりに読み直して私には懐かしい文脈だが、<死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました>と、言っている。
 これらのメッセージに依拠するならば、これまた安易に教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる」の規定を楯に、下されるかもしれない死刑判決からの関与を回避するのではなく、裁判員となって、堂々といのちの福音(死刑反対)を宣教なさっては如何だろう。失われずに済むいのちが、そこにあるのかもしれない。
 そのような聖職者であればこそ、信徒は信頼し、「司牧者に相談することもでき」るのではないだろうか。踏み絵が置かれていると察知して、過料を支払ってその部屋に入ろうともせず、敵前逃亡にも等しい真似をする司牧者になど、如何なる相談もできはしない。更に言わせていただくなら、「中央協官僚」の肩書と「いのちの福音の使徒」のそれとでは、どちらが魅力的だろう。
 イエスは、肩書の線引きなど、されなかった。「過料を支払って事なきを得よ」と言われたとも思えない。
------------------
ともに悩み、考えたい 「死刑」について 
―――――――――――――――――――――――
「裁判員制度」について
- 信徒の皆様へ -

日本カトリック司教協議会は、すでに開始された裁判員制度には一定の意義があるとしても、制度そのものの是非を含め、さまざまな議論があることを認識しています。信徒の中には、すでに裁判員の候補者として選出された人もいて、多様な受け止め方があると聞いています。日本カトリック司教協議会は、信徒が裁判員候補者として選ばれた場合、カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考えません。各自がそれぞれの良心に従って対応すべきであると考えます。市民としてキリスト者として積極的に引き受ける方も、不安を抱きながら参加する方もいるでしょう。さらに死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否したい、という方もいるかもしれません。わたしたちはこのような良心的拒否をしようとする方の立場をも尊重します。 
                        2009年6月17日、日本カトリック司教協議会

良心的な判断と対応に際しては、以下の公文書を参考にしてください。

 1.「信徒は、地上の国の事柄に関してすべての国民が有している自由が自己にも認められる権利を有する。ただし、この自由を行使するとき、自己の行為に福音の精神がみなぎるように留意し、かつ教会の教導権の提示する教えを念頭におくべきである」(教会法第227条)と定められています。また、第二バチカン公会議が示すように教会は、キリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励します。地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の務めです。キリスト教的英知に照らされ、教導職の教えに深く注意を払いながら、自分の役割を引き受けるようにしなければなりません(『現代世界憲章』43番参照)。
 しかし裁判員制度にかかわるにあたり、不安やためらいを抱く場合は、教会法212条第2項で「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由を有している」と述べられているように、司牧者に相談することもできます。裁判員として選任された裁判については守秘義務がありますが、裁判員であることや候補者であることを、日常生活で家族や親しい人に話すことは禁止されていません。

 2.死刑制度に関して、『カトリック教会のカテキズム』(2267番)では、ヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』(56番)を引用しながら、次のように述べています。「攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました』」。また、日本カトリック司教協議会も、司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持しています。
なお、聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員に対しては、教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる」の規定に従い、次の指示をいたしました。(修道者については第672条、使徒的生活の会の会員については第789条参照)
 1.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員の候補者として通知された場合は、原則として調査票・質問票に辞退することを明記して提出するように勧める。
 2.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員候補を辞退したにもかかわらず選任された場合は、過料を支払い不参加とすることを勧める。
――――――――――――――――
◇ 聖職者の裁判員辞退につき、最高裁に理解を求める文書提出=カトリック司教団 2009-09-11
 【裁判員制度】聖職者の辞退に理解求める カトリック団体
 産経ニュース2009.9.11 14:40
  カトリック中央協議会(信者約45万人)は11日、同会で「司教ら聖職者(計約7600人)が裁判員裁判に選ばれた場合は辞退することを勧める」と合意したことについて理解を求める文書を最高裁の竹崎博允長官に提出した。
 文書には、裁判員の身分が、世界のカトリック信者共通の“法律”にあたる「教会法」に定められた「聖職者は国家権力の行使にかかわる公職に就くことを禁じる」とする規定に抵触することなどが説明されている。
 同会は6月に「聖職者には過料を支払ってでも裁判員裁判に参加しないことを勧める」ことなどを盛り込んだ公式見解を表明していた。一般信者については各自の判断に委ねるという。

――――――――――――――――
【裁判員制度のウソ、ムリ、拙速】 大久保太郎(元東京高裁部統括判事)  『文藝春秋』2007年11月号 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。