混迷する社会を平等で平和な社会に変える神の意志を見て

2008-06-29 | 日録
本日のミサ 説教要約
 【6月も終わり、色々あった。秋葉原事件、地震、台風の被害、イラク・アフガンでの戦闘、食品偽装事件、北朝鮮拉致事件問題、等々。混迷する現代社会で、イエスを救い主として信じることはどういうことなのか。教義を信じて礼拝に与り、天国へ行くことではないだろう。イエスの生き方に、混迷する社会を平等で平和な社会に変える神の意志を見て、それに倣うことではないだろうか。イエスは共に生き、仕え、分かち合った。そこに人生の指針を見よう。】
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 ミサ後、そのまま聖堂で南山大学choirの演奏を聴かせて戴いた。各パート2名ずつの精鋭♪(全隊員は20余名とか)。曲目は、時空、いろいろ。古代教会のものから現代まで。スラブ語から、ラテン、ドイツ、英語・・・。K教会に来ている神学生ヤコボさんが指揮。清らかな声音とハーモニー。
 glee club(混声)で歌っていた往時を思い出してしまった。懐かしい。
 K教会の主任神父が神言会司祭なので、ここでは神学生が必ず誰か関与しているそうだ。教会も高齢化の時代、中年の働き盛りの神父を戴き、神学生が常駐する教会なんて、今どき滅多に見られない風景だ。
 司祭の説教にも、力がある。師は、一貫してイエスの視点で社会の底辺の人たちを見、連帯してきた人。そして案外知られていない横顔だが(私は知ってる!)大変な読書家、学者である。本日の説教の趣旨も、「共に」ということであった。
 今、世相は、「共に」の丁度逆である。ネットのbbsに犯罪予告をしてしまう、こんなにも侘しく危うい風景。「無関心」は、イエスの視点の対極にある。

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