ヴィクトル・E・フランクル著作集『夜と霧』

2008-06-29 | 本/演劇…など

 『夜と霧』(みすず書房)を何十年ぶりで読んだ。この本は、学生の頃、心理学科の友人から貰ったものだ。彼女を通じて、私は松本ブラザーと出会い、まっちゃんによってキルケゴールに出会った。若い日、友人たちが私にくれたものは、キリスト教的思索であった。キルケゴールやドストエーフスキーを好んで読んだ。

 久しぶりにフランクルの名著を手に取り、記憶の彼方に押しやっていた幾つもの名文に新たな感動がある。歳を重ねた分、感動が深いとも言える。新刊も出ているようだし、友人から貰ったこの本は字も小さく薄くなっているようだけれど、若い日を彷彿させて感慨深い。

 囚人から名前を奪い、番号で呼称すること、又、一人の囚人が死を免れたときには別の囚人がその代わりに、死に選ばれるということ。

 『夜と霧』で読んだそれらは、後年勝田清孝と出会ったとき、現実に起きたことであった。---刑が確定すると、「番号」も、変わった。「ゼロゼロセブンの逆や」と、藤原は言った。死刑囚藤原清孝の呼称番号は、「700」であった。

 私は、犯罪者と云えども(例えば「麻原」などと)呼び捨てにする人に、烈しい嫌悪と恐怖を禁じえない。恐怖の所以は、呼び捨てることが人間性を否定する「暴力」であるからだ。犯罪者であっても、いや犯罪者だからこそ、人は人として尊重されねばならぬ。呼び捨てになど、してはならない。また、死刑の周辺で、「今度は誰が刑執行されるのだろう」などと憶測する人がいる。人は囚人であるまえに「人」なのに、人を「番号」(死刑囚)としてしか見ていない。

 『夜と霧』には、名文が多い。感動的な箇所が多い。放っておけば目先の事象に翻弄されてしまいそうな日常から、静かな深い思索へと導いてくれる。書き出せばキリがない。以下は、ほんの僅かである。 

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 そしてここでは偉大な英雄や殉教者の死が語られるのではなく、むしろ多くの民衆の「小さな」犠牲や「小さな」死が語られるのである。また長い期間「カポー」(訳者註、囚人を取り締まるため囚人の中より選ばれた者)や「有力な」囚人だったものが耐えなければならなかったことを扱うわけではなく、「知られざる」収容所囚人の受難を扱うのである。なぜならばカポー達は何の腕章もつけない普通の囚人を見下していたのだった。囚人が飢え、そして飢え死にしている間に、カポー達は少なくとも栄養の点では悪くなかった。それどころか若干のカポーは、彼の生涯に今まで無かったほど、恵まれていたのである。

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 しかし、殺されることから、誰かが救われるとしても、その代わりに誰か別の人が入らなければならないのは明らかなのである。何故ならば輸送の場合には人数だけが、すなわち輸送を充たすべき囚人の数が問題なのである。各囚人は文字どおり番号だけを示しているのであり、輸送のリストには事実、番号のみが書かれてあるのである。

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 既述のことから明らかなとおり、カポーになることはいわば一種の逆の選抜であり、最も残酷な人間のみが、この役目に用いられたのである。

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 ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人々もいた。もともと精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人々が、その感じやすさとは裏腹に、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久(とわ)の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を・・・。

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 ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。

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 人間はひとりひとり、このような状況にあってなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、己の尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

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 しかし創造的及び享受的生活ばかりが意味を持っているわけではなく、生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を持っているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。

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  他方、監視兵が示したごく僅かな人間性に対して、囚人が深い感動をもって応えることもあったのである。たとえば私はある日一人の労働監督がそっとパンの小片を私にくれたことを思い出すのである。・・・私は彼がそのパンを彼の朝の配給から倹約してとっておいてくれたことを知っていた・・・そして私を当時文字どおり涙が出るほど感動させたものは物質的なものとしてのこの一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的なあるものであり、それに伴う人間的な言葉、人間的なまなざしであったのを思い出す。


4 コメント

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もしや (freitag)
2008-06-30 13:26:28
誤)フランクフル → 正)フランクル

では…?
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私は今頃初めて読みました (saheizi-inokori)
2008-06-30 14:51:44
ひと言ひと言が深い意味を持って私の生きかたに疑問符を投げかけてきました。
まともじゃない、まともじゃない!って。
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私がフランクルを全面的に支持する理由 (freitag)
2008-07-01 23:05:35
先程は誤記確認のみの短いコメントで失礼いたしました。またわざわざ私の始めたばかりのブログにご挨拶いただき、ありがとうございました。ブログ初心者の割にどんどん人様にコメントしているので、失礼もあるかと思いますが今後ともよろしくお願いいたします。

前置きが長くなりましたが、本題に関して。フランクル『夜と霧』は本当に全ての人の必読書と思っておりましたのでエントリ嬉しく拝見しました。本書で私が最も感動したのは(今手元にないのでウロ覚えです)たしか彼が収容所から解放された直後、同じく囚人だった友人と歩いていて麦畑に行き当たるシーンです。友人は自分の受けてきたいわれない暴力への憂さ晴らし?なのか、たわわに実をつけている麦を踏み潰して通っていこうとする。それをフランクルは止めるのです。彼のように不正義に苦しめられて来た人間であっても(あるいはだからこそ)、それを拠り所として他者を傷つけることは許されないと…。われわれ皆がこのような心で生きることができたら、と、思います。
長文失礼いたしました。
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Re:私がフランクルを全面的に支持する理由 (ゆうこ)
2008-07-02 09:53:48
freitag様
 コメント、有難うございました。如何にも「フランクル」の世界から出たコメントという、芳しさを感じました。人間を観る確かな洞察、徹底したしなやかな優しさというのでしょうか。絶望のなかにあっても希望を指し示す必読の書ですね。
>不正義に苦しめられて来た人間であっても
 他者を傷つけることは、その行為自体悪く、またその行為によって、あちら側(傷つける側)に立たつことになりますね。絶対に立ちたくない側であるはずです。そのことは、自分を傷つけ貶めることになりますね。
>(あるいはだからこそ)、
 だからこそ、ですね。
>われわれ皆がこのような心で生きることができたら、と、思います。
 ああ、心の底から、そう願います。 
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