ユトリロ回顧展へ行った 2017.1.6 Fri

2017-01-06 | 日録

松坂屋美術館 名古屋店 南館7F

 
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〈来栖の独白 2017.1.6 Fri 〉
 ユトリロの絵画には、教会が多い。人間嫌い、というか、女嫌いだったらしい。孤独な魂。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』という作品の解説に〈ユトリロはこの作品で、静寂・色彩の美しさ・人のいない幸福の時間〉を表現している、とあった。〈人のいない幸福の時間〉との言葉、深く心に感じた。
 また、一つ一つの作品に、今日の私は泣きそうになった。教会の中に、寺院の中に、大聖堂の中に、イエスがおられる、そのように感じたのだと思う。何年も前の私は、そうではなかった。教会の聖壇に聖体ランプを見ても、ここに主はおられない、と考えた。「小さくされた人々の中に、例えば、クリスチャンの差し出す炊き出しの一杯を貰う側の人々の中に、イエスはおられる」と考えていた。この世で小さくなって生きる人々の列の中に主はおられる、そのことに間違いはないだろう。しかし、だからといって、教会の中に主はおられない、とは言い切れないのではないか。もし、(さほど小さくされて生きているわけではない)私の中に主が居てくださらないとしたら、私は、生きてはゆけない。私は、日々、瞬間瞬間を主に寄り恃み、すがることで生きているのだから。
 ユトリロの描く大聖堂、教会、寺院のなかに主はおられる、そう感じ、胸が熱くなったのである。一人一人のなかに、主はおられる。

ヨハネによる福音書14章 18~20
  わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
  しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
  かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

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