野べうつす屋戸(やど)のまがきに風ふけばしたゆく水に萩が花ずり 慈円
今週のことば
中日新聞 2020.08.25 火曜日 朝刊
松本章男
萩の茂みに近づいて花を賞美するとき、衣服に花びらが付着することがある。和歌では古来、その風情を「萩が花ずり」と称していたが、花の摺れる感興を生体以外にまで敷衍したのが、提示歌を詠じた慈円ならびに藤原定家。
野をまねて草木を茂らせるわが家の垣根に風が吹きつけるとき、垣根の下の掘割が花摺りを起こします。萩の花びらを浮かべて流れるので。提示歌の意だ。
定家が詠んでいるのは、《忘れ水たえま絶えまのかげみれば斑濃(むらご)にうつる萩が花ずり》。
こちらの花は散っていない。萩の群落の切れ目きれめ、野を流れて生じた人さえ気づかない溜(た)まり水に、濃淡までみせて、萩の花がひそやかに映っている。
両首ともに文治三(1187)年の作。いずれが先詠か。あるいは花摺りの趣意をひろめようと示し合わせた同時詠なのか。
残暑をしのいで秋萩がぼつぼつ咲いているだろう。(随筆家)
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
秋萩は咲くべくあるらしわが屋戸(やど)の浅茅(あさぢ)が花の散りぬる見れば
巻八(一五一四)
秋萩の咲くべき時になったらしい。私の家の浅茅の花が散ってしまったのを見ると
この歌も先の巻八(一五一三)の歌と同じく、穂積皇子(ほづみのみこ)が詠んだ二首の歌のうちのひとつです。
「浅茅(あさぢ)」は植物のチガヤのこと。
「萩(はぎ)」は秋の代表的な花で、万葉集の時代にはとくに好まれた花だったようですね。
そんな「秋萩の咲くべき時になったらしい。私の家の浅茅の花が散ってしまったのを見ると」と、こちらの歌では浅茅の花が散ったことによって秋萩が咲く季節の到来を知った内容の歌となっています。
まあ、取り立てて個性というほどのものはないものの、この歌もまた季節の移り変わりに敏感な万葉人の繊細な感性がよく表れている一首ですよね。
春日大社神苑(植物園)の秋萩
◎上記事は[万葉集入門]からの転載・引用です