繰り返し問われた「牛を屠る」仕事に就いた理由

2011-09-08 | 社会

繰り返し問われた「牛を屠る」仕事に就いた理由 児玉清さんと私(2)
 佐川 光晴

JBpress2011.09.08(木)
 児玉さんがカバンから取り出した2冊の本生活の設計牛を屠(ほふ)るは、どちらも私の労働経験を題材にした作品である。ただし、前者は小説で、後者はノンフィクションという違いがある。
 私は作家になる前、大宮にある屠畜場の作業員として働いていた。1990年7月16日から2001年2月10日までの10年半にわたり、主に牛の解体作業に携わった。
 大宮食肉中央卸売市場・大宮市営と畜場(現さいたま市食肉中央卸売市場・さいたま市営と畜場)はJR大宮操車場の北端に位置し、北関東一円と東北地方さらには北海道から運び込まれる牛や豚を屠畜して、出来上がった枝肉を競りにかけて首都圏に流通させている。
 牛に関していえば、品川区にある芝浦屠場が高級な肉牛ばかりを扱うのに対して、大宮屠場は乳牛としての役目を終えたホルスタインの牝牛を中心に、ランクがあまり高くない牛を引き受けていた。
 私の在職中は、1日平均、牛が100頭、豚が400頭くらいだったと思う。季節によって差があり、夏場は少なく、冬場の方が断然多い。牛の場合、11月中旬から2月中旬までは連日150頭が続き、それを20人足らずの作業員で解体していくのだから、脇目も振らずにひたすらナイフをふるい続けるしかない。
 生きている牛は温かく、解体されてゆく牛は熱い。裂かれた喉から溢れ出る血液、皮の下から現れる脂と筋肉、そして大きな腹にたっぷり詰まった内臓からも大量の熱気が放出される。コンクリート打ちっぱなしの作業場は真冬でも大型扇風機が回されて、それでも我々は大汗をかいた。
 1990年代に、1日平均100頭の牛を解体する屠場で、ナイフを基本に作業をしていたのは日本全国で大宮だけだったのではないかと思う。もろもろの事情から機械化が遅れたのが原因で、おかげでナイフの扱い方を徹底的に仕込まれた。
 文章はとても自慢できないが、ナイフの扱いについてならば、今でも胸を張りたい気持ちがある。それもこれも作業課の先輩たちが手取り足取り教えてくれたからで、この場を借りて、改めてお礼を申し上げたい。
 私がデビュー作となる『生活の設計』に取り組んだのも、大宮食肉荷受株式会社作業部作業課に所属していた我々の労働を記録しておきたいというのが大きな動機だった。ただし、小説という体裁を取ったために、職場の様子については書き切れない事柄も多かった。それは読む側も物足りなく感じていたようで、解放出版社の編集者の勧めにより、私はデビュー10周年の記念の年に『牛を屠る』を世に問うたのである。
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 児玉さんとの対談はおれのおばさん(集英社)の刊行に際して組まれたものだった。しかし、開口一番、『生活の設計』と『牛を屠る』に触れたところを見ても、児玉さんが屠畜の仕事に関心を抱いていることがよく分かった。そして、写真撮影のために屋上に向かうエレベーターの中で、児玉さんは私に言った。
 「大変恐縮だけど、手を見せてもらってもいいだろうか?」
 「はい」と答えて、私は左手を差し出した。
 『牛を屠る』には、私の左手に関する記述がある。詳しくは同書の<「逃げや」と「まくり」>の章を読んでもらいたいが、牛の皮を剥いていると、重たい皮を繰り返し引っ張るために、左手の爪と指先が変形してくる。
 具体的には、爪は大きく分厚くなり、指先は団扇のように膨らむ。しかも爪の先が開いてそこからゴミが入るため、爪が根元まで真っ黒になってしまう。反対に、爪がすり減り、指先がウインナーソーセージのようになってしまう人もいる。
 私の爪はどちらでもなかった。5年ほど働いたところで気づいたのだが、爪はいくらか厚くなっていたが、その変化は他の作業員たちに比べれば微々たるもので、爪が開いて隙間にゴミが入ることもなかった。
 「いい爪だね。おれのと取り替えてもらいたいくらいだよ」と作業課の先輩に言われて、私は驚いた。もともと男性にしては手が小さく、こんな手で牛の解体作業が上達するのかと悩んだこともあったのに、10年働いて腕前は上がっても、私の手にさしたる変化はなかった。
 そんな説明を手短にしていると、「本当に小さな手だね」と児玉さんは笑顔で言い、ご自分の手を広げて見せてくれた。それは大きな男らしい手だった。
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 写真撮影の間も児玉さんは終始笑顔で、私のおしゃべりに相づちを打ってくれた。しかし、屋上から2階の会議室に戻って椅子に着くと表情が一変し、真剣な顔で『おれのおばさん』の感想を述べられて、対談が始まった。
 興味のある方は、「青春と読書」(2010年6月号)を最寄りの図書館等で探していただければと思う。写真も3枚掲載されているが、対談での2人の位置関係を明かしておけば、児玉さんと私は、長さ10メートルはある細長いテーブルの端に、ほぼ向かい合うかたちで座っていた。私は右端の椅子に座り、児玉さんは端から2番目の椅子に座っておられたので、お互いの視線はテーブルをやや斜めに横切ることになる。これはカメラマンからの注文で、その方が写真を撮影しやすいとのことだった。児玉さんの背後がガラスで、私の背後が壁になる。集英社の方々は細長いテーブルの半分より向こう側に、固まって座っていた。
 『おれのおばさん』について一頻り話すと、児玉さんは居住まいを正してから、身を乗り出すようにして言った。
<児玉 ぼくが佐川さんにお目にかかりたいと思っていた理由の一つは、『牛を屠る』、『生活の設計』といった作品で、生きること、働くことの壮絶感みたいなものを、自分の胸元にいきなり匕首を突きつけられたようなところがあったからなんです。我々がのほほんとして肝腎なところを見過ごしてきたことを、佐川さんに教えていただいたといいますかね。
 佐川 ぼくが大宮のと畜場に飛び込んだのは、ある偶然なんです。そこで働いてもかまわないとなったときに、ぼくにとって大事なのは、それを選んだ理由よりも拒まなかったということの方なんです。と畜場で働くという選択肢を拒まないだけの根拠がぼくにはあった。それは児玉さんが偶然ではあれ役者という道を拒まずに続けたのと似たようなことかもしれません。
 児玉 いや、ぼくの場合は、拒んだけど行っちゃったんですよ。
 佐川 しかし、決定的には拒んでいない。
 児玉 たしかに。>
「青春と読書」2010年6月号、児玉清×佐川光晴 青春という名の驕傲
 こう書き写すと、すらすら話が進んだようだけれど、実際にはこのくだりだけでも30分はかかったように思う。
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 「きみはどうしてそこに行けたのか?」
 児玉さんから繰り返し問われて、私は答えに窮した。
 「ぼくが屠畜場で毎日ナイフを持って働いている理由? よし、説明してみよう!」とは、単行本『生活の設計』(新潮社)の帯に記された惹句である。しかし、私は260枚の長篇小説によってもその理由を説明しきれていなかった。
 その点は、『牛を屠る』においても同様であるにもかかわらず、児玉さんはしつこいくらいに理由を尋ねてきて、音を上げかけた時にようやく思いついたのが、「拒まなかった」という言葉だった。
 確たる理由や目的によって『牛を屠る』仕事に就いたのではなく、ある偶然によってそこで働けるとなった時に、私はそれを拒まなかった。そして、ナイフを握って働くうちに、働き続けてもいいと思うようになっていった。
 自分のことながら、誠にしっくりくる説明で、児玉さんが私を追及してくれなければ、「拒まなかった」という表現は出てこなかったと思う。
 続いて私は、職業安定所の女性職員から、明日にでも面接を受けられますがと問われた時に、「少し考えさせてください」と答えてもよかったのだと気づいた。実際、希望する職種を編集者から屠畜場の作業員に変更したいと申し出た時に、私に何か当てがあったわけではなかった。
 子供の頃、近所に屠畜場があったわけでもなく、親戚が働いていたわけでもない。それでも私にはナイフを持って働きたいという強烈な衝動があり、思い切って申し出てみたところ、すぐにでも働かせてくれそうな展開になったのである。
 だから、「少し考えさせてください」と言ったところで、なにも問題はなかったはずだ。ところが私は、なんとしてもその場で返事をしなければならないと思い込んでいた。
 「では、お願いします」と頼んだ時の、全身がしびれた感じを、私は今でも憶えている。
 この下りも対談の場で児玉さんに話したのだが、そこはすっかりカットされてしまっているので、この場を借りて再現しておきたい。
 午後4時過ぎから、1時間の予定で始まった対談だったが、気がつくと窓の外が夕焼けになっている。しかし、児玉さんは一向に話をやめる気配がなく、我々はさらに話し続けた。
・佐川 光晴 Mitsuharu Sagawa
 1965年東京生まれ。北海道大学法学部卒業。出版社、屠畜場の勤務を経て、2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞を受賞しデビューする。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞を受賞。その他の著書に『ジャムの空壜』『銀色の翼』『金色のゆりかご』『牛を屠る』『おれのおばさん』(第26回坪田譲治文学賞受賞)などがある。
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