〈来栖の独白 2017.9.18 Mon〉
NHK BS『奇跡の丘』を録画し、昨日と今日とで、視た。無駄を一切省き、福音書の言葉のみで繋げてゆくドラマ。どの言葉も、既に諳んじている、云ってみればポピュラーな聖句であり、聴く者(私)に懐かしく、胸に迫る。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」などに、私は、泣いた。
バッハやモーツァルトも、胸に迫る。
私見だが、イエスは「生命は地球よりも重い」などと、云っていない。事勿れの「平和」など、云っていない。
仏教は「生命第一」を云い、「殺すなかれ」が戒律の最高位であろうが、聖書はそのようなことを云っていない。聖書の世界に於いて最大の罪は、「主なる神」を崇めないことだ。イエスが命をかけて叫んだことは、「聖名を崇めること」である。戒律の最高位も、それである。
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2017.09.08 キリストの生涯を描いた最高傑作の一つ 『奇跡の丘』9月16日(土)[BSプレミアム]前0:15
坂本朋彦のシネフィル・コラム
映画のことならお任せください!
イエス・キリストを主人公とし、その生涯を描いた映画は、例えば、スペクタクル史劇を得意としたセシル・B・デミル監督の「キング・オブ・キングス」(1927)、ニコラス・レイが監督した同じ題名の超大作、スウェーデンの名優 マックス・フォン・シドーが主演したジョージ・スティーブンス監督の「偉大な生涯の物語」(1965)、マーティン・スコセッシ監督の「最後の誘惑」(1988)、メル・ギブソン監督の「パッション」(2004)など、映画創生期から数多くの作品が製作されてきました。
今回ご紹介する「奇跡の丘」(1964)は、キリストの生涯を描いた映画のなかでも、最高の一つとされる傑作です。「マタイによる福音書」を題材にしたこの作品、キリストがマリアから産まれ、洗礼を受け、悪魔の誘惑をしりぞけ、弟子たちと旅をつづけ、十字架にかけられ、復活するまでを描きます。
監督・脚本は、ピエル・パオロ・パゾリーニ。1922年、イタリア・ボローニャに生まれたパゾリーニは、詩人、小説家、映画脚本家として活動し、監督として、「アポロンの地獄」(1967)、「テオレマ」(1968)など、性と暴力、社会の矛盾や偽善を描き、世界中でセンセーションを巻き起こす数々の作品を発表しました。1975年、何者かによって殺害され、53歳で亡くなりましたが、その衝撃的な生涯と作品は、今なお、さまざまな論議を呼んでいます。
*鬼才・パゾリーニ監督が作り出す独特のリアリズム
ロケ撮影でドキュメンタリーのように映画を製作する、ネオ・レアレスモの手法で作られたこの作品、世界遺産に登録されている、イタリア南部マテーラの洞窟住居をはじめ、イタリアやモロッコで撮影された映像は、まるでキリストの時代にタイム・トラベルしたかのような独特のリアリティーで見るものに迫ります。
また、出演者の多くは、演技経験のない一般の人たちで、キリストを演じたエンリケ・イラソキは、イタリアに留学中だった当時19歳のスペインの学生だったということですが、その表情、眼力めぢからは、強烈です。また、年老いた母・マリアをパゾリーニ監督の母・スザンナが演じています。
バッハやモーツァルト、そして、アメリカのブルース、オデッタやブラインド・ウィリー・ジョンソンの音楽も忘れられません。パゾリーニ監督は無神論者だったともいわれますが、この作品は、ベネチア映画祭で審査員特別賞を受賞し、カトリック教会からも高く評価されました。
鬼才・パゾリーニ監督ならではの清廉で崇高な物語。じっくりご覧いただきたいと思います。
【放送日時】プレミアムシネマ「奇跡の丘」9月16日(土)[BSプレミアム]前0:15〜2:33
◎上記事は[NHK]からの転載・引用です
◇ パゾリーニ「奇跡の丘」ラストシーン YouTube
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マタイによる福音書 10章28~42
また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
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◇ 聖書の苛烈とイスラム…〈来栖の独白〉 / 「モーセの十戒」と「十善戒(仏教)」
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私も、『聖書』は持っています。口語訳と文語訳を両方持ってます。
キリストのお言葉を見ますと、まさに『寸鉄』のような印象を受けます。
時に優しく、時に厳しく、偽善者に対しては辛辣に批判し、発言に全く無駄がありません!
もちろん、事なかれ主義的な平和論とは無縁でしょう。
日本のクリスチャンの一部には、『憲法9条』の熱心な信奉者がいます。『どんなことが有っても憲法9条は守らなければならない』と、おっしゃっています。でも、それって、おかしいと思います。
クリスチャンにとって、どんなことが有っても守らなければならないのは、聖書の教えでしょう。
聖書と主なる神様以外のものを絶対信奉するのは、それこそ『偶像崇拝』ではないでしょうか?。。。。。??!