総ての牛の処分を終えて/牛には十分な飼料は与えられない/一生懸命乳を出す牛ほどやせていくんです

2011-07-19 | 社会

安易な原発再開論に怒る、飯舘村の酪農家 二度と同じ生活に戻れないかもしれない人々の悲しみ
JBpress 2011.07.19(Tue)川井龍介
 東日本大震災から4カ月が過ぎた7月11日、たまたま新聞休刊日であったせいかもしれないが、3.11から1カ月、2カ月、3カ月という節目に比べて被災への関心が薄れていっているのではないかという感が否めない。
*原発に対する国民の関心が冷めつつある
 福島県飯舘村で長谷川健一さんが酪農家を営んでいた頃の牛舎
 出版関係者によると、このところ一気に店頭に並んだ原子力発電所や核・放射能に関わる書籍の売り上げも止まりつつあるという。
 しかし、被災地ではもちろんまだまだ厳しい現実に変わりなく、原発・エネルギーをこれからどうする、といった課題は粘り強く議論していく必要がある。
 この日、福島県飯舘村の酪農家、長谷川健一(58)さんと久しぶりに電話で話をした。震災後2カ月して長谷川さん宅を訪れて以来、話をするのは3回目だった。長谷川さんはこの村で長年酪農を営んできた。
 しかし、原発事故による放射線の危険から飯舘村が計画的避難区域に指定されたことなどでやむなく廃業を決意した。
 いまはまだ、長谷川さんは村内の自宅にとどまっている。「牛はすべて片づきました」と言った彼は、酪農という自分の仕事には終止符を打った。
*すべての牛の処分を終えて・・・
 事故後村外に預けた育成牛や妊娠牛も前月いっぱいで競りにかけるなどして処分したという。廃業に追い込まれた長谷川さんに残されたのはもはや用のないからっぽの牛舎だけだ。
 しかし、区長としての責任感から、区内に住む54戸(205人)を村から完全に避難させるまでは、自分は家を離れないつもりだ。現在、区内の住民の約9割が避難を終えているという。
 アパートを借りるなど自分で避難先を探して移動した人もいるが、仮設住宅に入る住民については、できるだけまとまって移住するように働きかけている。
 というのは、このままただ入居可能な仮設住宅に順番に入っていけば、かつてのコミュニティーはばらばらになる可能性が高く、お年寄りたちが孤独に陥るのではないかと心配するからだ。
 こうした配慮から、長谷川さんは村や地区の住民に働きかけて、まとまって入居できる仮設住宅を検討、すでに別の仮設住宅を予定していた人の了解も得てキャンセルしてもらった。
*防犯上の理由から避難しても遠くには行けない
 その結果、17~18軒が飯舘に隣接する伊達市にある仮設住宅に入居することが決まった。ここは仮設の中では珍しく木造で、木のぬくもりを感じられるという。
 日本ログハウス協会などが建設を手がけ、福島県産の杉を使うなどで断熱性を高め、結露を防ぐといった配慮がされている。
 また、長谷川さんによればこの地区は大きな病院やスーパーも近くにあり、飯舘へも40分ほどで行くことができるという利便性がある。
 いまでも、防犯上の理由から故郷を見まわる必要もあり、遠く離れることはできないのが現実だ。名前は仮設でも、これからしばらくはそれが日常となる。1カ月、2カ月の話ではない。住宅そのものの住み心地は重要だし、周りの環境も無視できない。
 「近くに知り合いもいるので畑も借りた。桃の果樹園もあるし緑の中で静かな環境です」と、長谷川さんは厳しい現実を前によりよいものを目指している。苦境を前にしても彼の責任感と前向きな姿勢には感服する。
*牛の移動を禁止した不合理な国への怒り
 振り返れば、初めて長谷川さんの牛舎を訪れた震災から2カ月後の5月11日夕、長谷川さんの牛舎の牛は見るも無惨にやせ細っていた。原発事故以来、搾乳した牛乳の放射線量は基準値以下だったのにもかかわらず、牛は移動を禁じられたままだった。
 毎日搾乳しては、それを処分する。えさ代だけがかかるため牛には十分な飼料は与えられない。「一生懸命乳を出す牛ほどやせていくんです」と、長谷川さんは教えてくれた。
 当時、育成牛は移動できたが、妊娠している牛なども国から移動を禁じられている状況は、どう見ても不合理だった。
 村外で飼育を委託するなどの方法で、大切な牛を飼い続ける選択肢は封じられていた。管理さえしっかりすれば移動は問題のないはずだった。一方、住民に対しては、最も放射線量が高い時に避難させなかったことに長谷川さんは憤っていた。
 長谷川さんは、かつて村内の若い人たちがスクラムを組んで酪農に取り組んでいる姿を見て、会社員をやめて酪農の道に入り、徐々に牛を増やし50頭を抱えるまでになった。
*脱サラし親子2代で酪農事業を拡大させていた矢先の事故
 6年前に長男も酪農に未来を託して勤めをやめて父とともに酪農に従事、牛の“美人コンテスト”にも熱心に参加するなど、親子2代で事業を充実させていた時に、今回の原発事故に遭ったことになる。
 混乱の中で廃業を決めて、仕方なく育てた牛を次々に肉として処分するため牛舎から送り出した。「大型トラックに積まれていく牛の姿を見て、家族みんなで泣いた。見てらんねぇ」と、その時の気持ちを話す。
 飯舘村を訪れてみれば分かる。瑞々しい緑が広がり、なだからな丘陵が優しい風景を描く。田んぼを前にした商店では、食料品や酒、そして日用雑貨が並んでいる。
 道を尋ねれば地図を書いて教えてくれる店主がいる。気温の差が大きいことが色合いの鮮やかな花を咲かせる。地酒や飯舘牛といった名産もなかなかの評判だった。
 こうした自然の恵みとともにあるのどかな暮らしが、放射能の汚染によって一気に破壊された。見た目は何も汚れたり傷ついたところはないのに、放棄されなければならない家、田畑、そして仕事の現場。
*大災害が目に見える海岸沿いとは被害の質が全く異なる
 三陸から福島にかけての海岸線をたどってきて目にした破壊し尽くされた光景とはまた別の意味で、何とも言えない悲しい風景として心に映る。
 戦災でも自然災害でも破壊は形となって表面化されたが、全く見た目には変化のない放射線による生活の破壊というものは、これまで我々が経験したことのないものだ。
 6月11日、福島県相馬市で50代の酪農家の男性が、小屋で首をつった状態で見つかった。自殺だった。彼は長谷川さんと同じく牛乳が出荷停止となり、乳を搾っては捨てざるを得ず、自分の飼っている乳牛も処分した。
 小屋の壁には白いチョークで「原発さえなければ」「残った酪農家は原発にまけないで」といったメッセージが残されていた。事故前から悩みを抱えていたという話もあるが、原発事故と死との関係は疑いようはない。
 村の将来と自分たちの暮らしがどうなるのかついて、長谷川さんも見通しがつかない。二度と戻れないだろうと思う一方で、自分自身は戻る可能性もあるという。
*海外で人気だった青森リンゴが売れなくなった
 「2~3年後に戻っていいと言われたら、私より上の年代の人たちは戻るだろう。でも、子供たちは戻らない。そうなれば、家族は離散という状態になる。別の地が見つかれば、村として新しいところへ移るということも、この2~3年のうちに考えなければならないだろう」
 長谷川さんは移住の準備のかたわら、いま全国各地で講演活動をしている。酪農家の人たちをはじめ多くの人に、飯舘村が味わった苦しみを伝えるためだ。
 飯舘村の酪農家の現実だけを見ても分かるように、いったん原発が事故を起こしたら放射線によって長年にわたって取り返しのつかない被害をもたらす可能性がある。
 直接的な被害だけでなく、観光地や農産物などへの風評被害が東北全域や北関東へも広がっていることを考えると、まさに未曾有の悪影響を招く。一例を挙げれば、高級品として人気を博していた青森のリンゴが台湾で売れなくなっている。
 こうした現実を見れば、原発に対してはより慎重に存否を含めてそのあり方を根本から議論する必要がある。しかし、現在問題になっている原発の再稼働を巡る動きをみれば、まことに残念ながらこの大惨事の教訓が生かされていない。
*九電のやらせメールに見る原発行政の異常
 九州電力玄海原子力発電所を巡る動きがその一例だ。再稼働を認められたいがために、九州電側が仕かけたやらせメールという、恥知らずの犯罪的な行為がこの期に及んで行われたという事実を見れば、いかにこれまでの原発建設に関わる公開ヒアリングなどが、言葉は悪いがインチキ臭かったかが想像できるというものだ。
 原発の安全性の再確認や再稼働の是非についての国の方針については、その一貫性に問題があるといった批判が噴出している。その通りだろう。
 しかし、心配なのは国の対応への批判が、「いったいいつになったら再稼働できるのか」、あるいは「このままでは将来電力需要をまかないきれない」といった、安易な原発容認論へとすり替わっていく風潮が、新聞、とくに地方紙の論調に表れていることだ。
 脱原発を推進する菅直人首相への批判が、脱原発批判に利用される危険性には注意しなければならない。原発の将来を巡っては、開かれた情報のもとで、民主的な議論を尽くすなど公正な手続きを踏んだうえで決めたいものだ。
 原発を抱える地方自治体からも、目先の利益にとらわれている感のある議論が聞こえてくる。長谷川さんはこう憤慨する。
 「先日テレビを見ていたら、(青森県大間町の)大間町議が、原発(建設中の大間原子力発電所)の建設を急いでくれと言っている。この人は何を考えているんだ。被害に遭っている現地を見てみろって言いたい」
 地方の抱える問題はそれぞれにあるだろうが、ことの重大性を考えれば長谷川さんの声をまずは広めたい。
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原発20㌔圏に家畜65万匹超、置き去りか 餓死か/牛に「ごめん」牛を解き放とうと悩んだが、近所迷惑と考え 2011-04-22  
原発20キロ圏に家畜65万匹超置き去りか
< 2011年4月19日 20:41日テレ>福島第一原子力発電所の事故で避難指示区域に指定されている半径20キロの圏内に、家畜のウシ3300頭やブタ、ニワトリなど計65万匹以上が取り残されているとみられることが、福島県の調べでわかった。大半は死んでいるとみられる。
 県は、行方不明者の捜索も難航していることから対応は難しいとしている。
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牛3千頭・豚3万匹、原発20キロ圏に…餓死か
読売新聞 4月19日(火)14時33分配信
 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、避難指示区域(原発の20キロ圏内)に牛約3000頭、豚約3万匹、鶏約60万羽が取り残されたことが19日、福島県の調べでわかった。
 避難指示から1か月以上が過ぎ、すでに多数が死んだとみられる。生き残っている家畜について、畜産農家らは「餓死を待つなんてむごい。せめて殺処分を」と訴えるが、行政側は「原発問題が収束しないと対応しようがない」と頭を抱えている。
 県によると、20キロ圏内は、ブランド牛「福島牛」の生産地や大手食品メーカーの養豚場などがあり、畜産や酪農が盛んな地帯。しかし、東日本大震災発生翌日の3月12日、同原発1号機が爆発し、避難指示が出たため、畜産農家や酪農家は即日、家畜を置いて避難を余儀なくされた。 .最終更新:4月19日(火)14時33分
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<福島第1原発>牛に「ごめん」 警戒区域化で最後の世話
(毎日新聞-04月21日 21:23)
 「一時帰宅はどこまで認められるのか」「放射線量が高いのに大丈夫なのか」。福島第1原発の20キロ圏内を22日午前0時から立ち入り禁止にするとの21日の政府発表を受け、福島県内外で避難生活を送る約7万8000人の住民に大きな波紋が広がった。一時帰宅への期待が高まる一方、やり残したことを「最後の1日」で済ませようと圏内を行き来する人の動きも目立った。原発事故の影響は圏内で暮らしていた約7万8000人の営みを翻弄(ほんろう)し続けている。
 ◇楢葉町牧場主
 同県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。20キロ圏外のいわき市に避難している経営者の蛭田博章さん(42)は21日、約130頭の牛たちに最後の餌を与えた。強制力のない「避難指示」の段階では、3日に1回のペースで餌やりのため牧場に入っていたが、22日午前0時以降は不可能になる。蛭田さんは「何もしてやれず、ごめん」と牛たちにわびた。
 この日、蛭田さんが干し草を積んだトラックで到着すると、エンジン音を聞いた牛舎からは一斉に鳴き声が起きた。まず飲み水を与え、次に干し草を一列に並べると牛たちは我先にと食べ始めた。与えたのは1日分。牛が飲まず食わずで生きられるのは約1カ月が限度という。
 子牛の牛舎を見ると生後3カ月の雌牛が栄養不足で死んでおり、別の1頭が絶えそうな息で横たわっていた。蛭田さんは重機で掘った穴に死んだ子牛を埋め、瀕死(ひんし)の子牛の背中をずっと、なでた。「ごめんな、ごめんな」。涙が止まらなかった。
 立ち入りが禁止される今回の事態を前に、牛舎から牛を解き放とうと何度も悩んだが、近所迷惑になると考え、思いとどまった。最後の世話を終えた蛭田さんは「一頭でも生かしてやりたかったけど、もう無理みたいです。次に来るときは野垂れ死にしている牛たちを見るのでしょう。つらいです」。それ以上、言葉が続かなかった。【袴田貴行】
 ◇検問で列
 政府による「警戒区域」の設定が発表された21日、福島第1原発の半径20キロ圏に取材で入った。主要道路は、警戒区域に切り替わる22日午前0時より前に圏内の自宅から荷物を持ち出そうとする住民の車で混雑した。
 国道6号の原発20キロ地点に設置された楢葉町の検問所も列ができていた。警察官は「今日までは立ち入りを認めているが、明日からは完全に入れなくなる」と説明し「短時間で出てください。出た後は(被ばくの有無を調べる)スクリーニング検査を受けてください」と念押ししていた。
 夕方、圏内からUターンを始めた車には、多くの家財が積まれていた。マスク姿の運転者が目立ち、防護服代わりのような雨がっぱで頭を覆った女性もいた。荷台に犬を乗せた軽トラックも通り過ぎていった。
 この日、出会った楢葉町の森田孝広さん(35)は家財道具を持ち出すためトラックを借りて「家にある7割くらいは持ち出した」という。仕事があるため妻と小1の長男、1歳の長女を東京の実家に預け、いわき市内で単身の避難生活を送る。自宅が警戒区域になることに「何も考えられない。目の前で起きることを一つ一つこなしていくだけ」とうつむいた。
 町内には今回の問題を生み出した原発の復旧に当たる前線基地「Jヴィレッジ」がある。施設内では、この日も多くの作業員が防護服に身を包み、原発に向かうワゴン車やバスに乗り込んでいた。
 スクリーニング検査を実施しているいわき市保健所によると、この日は圏内の楢葉町や富岡町にいったん戻った人を含めた検査が平常より3割増えた。持ち出した家財道具の検査ができるかの問い合わせもあり、職員らは遅い時間帯まで対応に当たっていた。【町田徳丈、石川淳一】
 ◇郡山避難女性
 福島県内外の避難所などに身を寄せる住民の関心は、今後実施されるとみられる一時帰宅に集中した。
 最も多い避難住民を受け入れている「ビッグパレットふくしま」(郡山市)には21日、菅直人首相が訪れた。
 津波で集落全体を流された富岡町のパート、佐藤恵美子さん(50)は首相に「よろしくお願いします」と声を掛けたが、本音では「早く帰らせて」と怒鳴りたかった。震災から一度も帰宅できておらず、アルバムや思い出の品も捜したい。ただ佐藤さんは「放射線で汚れたものをそのまま避難所に持ってくるわけにもいかないだろう」と、複雑な思いをのぞかせた。
 家族4人と寝泊まりする同町の会社員、遠藤和也さん(43)は今まで2回、帰宅して通帳などを持ってきたが、両親の保険証を回収できていない。一時帰宅に期待しているが「本当はみんなで戻りたいが、放射能が怖いので子供2人は連れて行けない」と話した。
 山形県米沢市の避難所に身を寄せる浪江町の会社員、金沢良行さん(48)は警戒区域設定のニュースを知り、車を飛ばして自宅に家財道具を取りに行った。国の一時帰宅の方針については「一時帰宅は乗り合いバスで移動するというが、多くの荷物が載せられない。もう少し自由にできないのか」と訴えた。
 一方、第1原発の3キロ圏内は一時帰宅の対象外に。双葉町長塚から米沢市に避難している東電協力会社員、渡部恵丞(けいすけ)さん(32)は「一時帰宅できたら衣類や日用品、3人の子供のアルバムを持ってきたかったが……。こんなことなら自己責任で戻って回収しておけばよかった」と肩を落とした。【前谷宏、荻野公一、金寿英】
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福島からの牛豚避難に壁 風評被害、東海の受け入れ先断念
中日新聞2011年4月22日 10時38分
 福島県や農林水産省は、福島第1原発事故で「計画的避難」や「屋内退避」の対象になっている地域の牛や豚を、圏外に避難させる方針だ。ただ、受け入れを表明した東海地区の酪農家が、インターネット上で中傷され、断念するケースも出始めるなど、難航も予想される。
 1カ月をめどに避難対象となる「計画的避難」区域の福島県飯舘村。黒毛和牛を育てる庄司武実さん(57)は「牛を飼っている者は不安で仕方がない。こんな状態では当たり前でしょ」と憤りをあらわにする。
 父親の後を継いで30年。「草原の草を食べて育つ。うちの牛は赤身が多くて、うまいんだ」。競りに出した子牛が、三重県や山形県で育てられ、全国でも屈指のブランド牛になる。それを誇りにしてきた。
 福島県の調査によると、今月上旬、村内の土壌からは1キログラムあたり最大2万ベクレル以上(規制値5000ベクレル)のセシウムが検出された。県は「計画的避難」区域の牛や豚の飼育数は把握していないが、原発から半径20~30キロ圏内の「屋内退避」区域だけでも、牛1万頭、豚1万3千頭が飼育されている。
 家畜の世話をするために自宅にとどまったり、餌をやるために避難先から通う農家もいる。
 農水省は今月上旬、農協などを通じて、全国の酪農家や畜産農家に、家畜の受け入れ希望を調査した。数十の農家が「可能」と回答したという。
 東海地方のある酪農家も「被災地の助けになりたい」と、牛数十頭の受け入れを申し出た。しかし、直後にインターネット上で「放射能で汚染された牛が××県に来る」などと中傷されたことから、風評被害を恐れ、受け入れを断念した。
 庄司さんは、母牛や子牛に餌をやりながら考える。「来月予定される競りに、飯舘の牛は出せないだろう。国や東電はどう補償してくれるのか」。丹念に育ててきた雄の子牛は今、9カ月。ちょうど出荷の時期を迎えている。
宮崎牛、口蹄疫 「人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ」2010-05-17
・五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)より
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
・五木寛之著『天命』幻冬舎文庫より
p64~
 ある東北の大きな農場でのことです。
 かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
 ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
 その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
 そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
 これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
 ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
 生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
 親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
 我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
 そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
 親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
 私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
 攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。
・五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉より
 いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
 私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。
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「牛は処分を察してか悲しい顔をする。涙を流した牛もいた」担当者ら、悲痛~心のケアを 2010-05-26
わが子を死なせる思い。これまで豚に食わせてもらってきた。処分前に せめて最高の餌を
電気を流した。「豚は一瞬、金縛りのように硬直して、聞いたことのない悲鳴のような鳴き声を上げた」
ハイチの“マザーテレサ”須藤昭子医師(クリストロア宣教修道女会)に聞いてみたい、牛や豚のこと。
「子牛もいた。何のために生まれてきたんだろう」処分用薬剤を140頭もの牛に注射し続けた獣医師


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