千葉大生・寺内樺風容疑者と大阪池田小事件・宅間守元死刑囚(=04年刑執行)の意外な接点 女子中生誘拐事件で千葉大生を襲い始めた風評被害

2016-04-07 | 社会

女子中学生監禁容疑の千葉大生と大阪・池田小事件の意外な接点
   dot. (更新 2016/4/ 6 07:00)
 よもや隣の部屋で女子中学生が2年間も監禁されていたとは──。マンションの住人もさぞかし驚いたに違いない。
 埼玉県朝霞市で行方不明になった少女(15)が2年ぶりに保護された事件で、埼玉県警は3月31日、未成年者誘拐容疑で寺内樺風容疑者(23)を逮捕した。
 寺内容疑者は2014年3月10日午後、下校してきた当時中学1年生の少女を埼玉県朝霞市内で誘拐し、今年3月27日まで千葉県内や東京都中野区の容疑者宅まで連れ回した疑い。
 今年2月下旬まで約2年間監禁していたとされる千葉市内のマンションは、築31年の古めかしい建物。3階の角の部屋を借りていた。日当たりはよさそうだが、エレベーターはなく、階段を使う。
 昨年12月、たまたま寺内容疑者の隣の部屋に引っ越してきた、千葉大学に通うウイグル人男性(26)はこう話した。
「(寺内容疑者の)部屋は窓の明かりが時々ついていましたが、いつも静かでした。壁をたたき、女性が助けを求めるような叫び声が聞こえてきたことは一度もありませんでした」
 1カ月半ほど前、寺内容疑者が女性といるところを見かけたという。
「隣の部屋のドアが開いていて、中が見えました。あちこち、荷物が置いてあって引っ越しするようでした。私はそのまま近くのコンビニへ行き、戻って階段を上がろうとしたとき、2階の階段のところで寺内容疑者の横に黒い髪の女性が一緒にいた。女性は普通の感じです。友達かと思いました。監視されている感じはせず、手もつないでいなかった」
 寺内容疑者の部屋は家賃約4万円。6畳の洋室と和室があり、台所、トイレ、ユニットバス、押し入れがついていた。同じ3階に住む年金生活の男性(69)はこう話す。
 「私の部屋は6畳間が一つだけ。寺内容疑者の部屋は6畳間が二つあり、ここのマンションではいちばん広い。学生なのに広い部屋を借りたのは、最初から監禁しようと思っていたのかね」
 誘拐直後には手紙を書くことを強要、自分の意思で家出したように装った。その謎を解くカギは彼の実家のある大阪府池田市にある。中学から進学校の大阪教育大付属池田中学校、高校へと進んだ。
「中学時代から理数系の科目が得意で、頭はよかった。ひょうひょうとして悪いやつじゃないが何を考えているかわからない、つかみどころがない感じ」(大教大池田中の同級生)
 飛行機が好きで、大阪伊丹空港までよく出かけたという。
「大阪空港まで、自転車で行くんです。飛行機を見ながら、『○時○分に東京発が到着。今日の風向きは……』と、解説していた。飛行機にはめちゃくちゃ詳しかった」(同)
 01年6月、児童8人が死亡、15人が重軽傷を負った大教大池田小学校で起きた無差別殺傷事件。偶然なのか、犯人の宅間守元死刑囚(04年に死刑執行)の自宅だったアパートと、寺内容疑者の実家は、歩いて2分ほどの距離。少年時代から寺内容疑者は、宅間元死刑囚の事件を知っていたという。
「『怖いな、あんな悪いヤツはいない』とか言っていた。アパートに入り、どこが宅間の部屋なんだと探検していた」
 と言うのは別の同級生。今回の事件についてこう話すのだ。
「女子中高生のアニメキャラも大好き。家にいっぱいマンガやDVDがあった。『アニメのような女の子はいないのか』と話していた。オタクが集まる大阪の日本橋にも行っていた。千葉大に進学が決まり、『アキバが近くなっていい』と喜んでいた。人を脅し、暴行する性格じゃない。こんなとんでもない事件を起こすなんて信じられない」
 寺内容疑者は11年4月、千葉大学工学部情報画像学科に入学した。「担当教員は、特に目立つ生徒ではなく、平均的な成績で、週1回のゼミもきちんと出席をしていたと言っています」(千葉大広報室)
 大学の卒業式は3月23日だったが、事件発覚後、大学側は卒業をいったん取り消すと説明した。千葉大で、寺内容疑者と同じ年に入学した大学院生(修士課程)はこう話す。
「アルバイト先からも事件をいろいろと聞かれるし、困っている。大学側の判断も正しいのではないか」
 埼玉県警の調べに、寺内容疑者はこう供述したという。
「中学生のときからペットのようにできる女の子がいれば誘拐しようと思っていた。ネットで調べていた」
 青春を謳歌することなく中学を卒業した少女。2年の歳月は戻らない。(本誌・上田耕司/今西憲之)
 ※週刊朝日 2016年4月15日号

 ◎上記事は[ dot. ]からの転載・引用です
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女子中生誘拐事件で千葉大生を襲い始めた「風評被害」 大学は寺内容疑者の卒業「留保」を決めた
 J-CASTニュース 2016/3/31 19:05
   「千葉大は呪われているのだろうか...」「就活中の千葉大生は大変だな」――。埼玉県朝霞市の女子中学生が約2年ぶりに保護された事件で、未成年者誘拐の疑いで逮捕された寺内樺風容疑者(23)が在籍していた千葉大学に対し、こんな声がネット上で囁かれている。
   今回の事件をきっかけとして、千葉大園芸学部出身の市橋達也受刑者によるイギリス人女性殺害事件をはじめ、同大をめぐる凶悪犯罪が再び取り沙汰されているためだ。一部のネットユーザーからは「千葉大は犯罪が多いイメージ」という声も上がっており、千葉大在学生は「風評被害」の影響を心配している。
■「風評被害」に悩む千葉大生
  千葉大生が集まるネット掲示板は「炎上」
“「千葉大って犯罪者出しすぎじゃね?」
 「千葉大は犯罪が多いイメージ」
 「犯罪者多いから千葉大はやめとけ」”
   寺内容疑者が千葉大工学部に在籍していたことが各種報道で伝えられた16年3月28日以降、ツイッターやネット掲示板には上記のような投稿が相次いで寄せられている。それだけでなく、千葉大生が集まるネット掲示板には「監禁しながら卒業できる千葉大」「また千葉大関係者の犯罪か」といった罵詈雑言に近い書き込みが殺到し、いわゆる「炎上状態」になっている。
   こうしたマイナスイメージを抱くネットユーザーが続出する背景には、09年に逮捕された市橋達也受刑者の存在があるようだ。千葉大園芸学部を05年に卒業した市橋受刑者は、07年にイギリス人女性を殺害。その後2年7か月にもわたる逃亡生活を送り、逮捕後の11年に逃走時の心境などをつづった手記を出版したことで世間を大きく騒がせた。
   また、09年には千葉大園芸学部4年(当時)の女子大生が殺害され、自宅マンションを放火される事件も起き、そのことを引き合いに出すネットユーザーも出ている。
   こうした凶悪犯罪が発生する割合は、同程度の学生数(1万人程度)を抱える他大と比べて極端な差が存在するわけではないとみられる。だが、今回の埼玉少女誘拐の事件も含めて、1つ1つの事件がメディアに大きく報じられ世間の関心を集めたものばかり。そのため、ネット上では千葉大生とみられるユーザーから「千葉大は呪われているのだろうか...」との呟きも漏れている。
■卒業生は「在学生の就活に影響が出なければ...」
   ネット上で盛んに取り沙汰される「千葉大と犯罪」のイメージに、大学関係者からは「風評被害」を訴える声も上がっている。
   千葉大卒業生OGの20代女性は16年3月31日のJ-CASTニュースの取材に対し、
 「大学時代の友達や後輩と『また千葉大だよ。やばいね...』って話していたんです。市橋受刑者の事件のときもそうですけど、千葉大の名前がこんな形で出るのは卒業生としては正直複雑です」
 と答えた。また、就職活動の真っただ中で起きた事件だけに、「在学生の就活に影響が出なければいいんですが...」と心配するように続けた。
   千葉大教育学部3年生で現在就職活動中だという20代女性は、今回の事件が同級生の間でも話題になっていることに触れ、「なかには、『これじゃ犯罪者養成大学だよ』と自虐的に話す人もいます」と語る。また、本人は就職活動への影響はあまり心配していないというが、就活中の同級生からは、
“「就活に影響したらどうするんだ」「後輩が就職活動で苦労するかもしれない」
と憤る声も聞かれるという。
   このように、今回の事件が大学関係者の間で波紋を広げる中、当の千葉大は16年3月31日、寺内容疑者の卒業認定および学位授与を一旦取り消し、卒業を留保することを決定したと発表した。この決定に対しネット上では、「容疑者の段階で処分するのは重大なミス」「そんなに自校の名誉を守りたいのか」といった批判が相次いでおり、一部からは「千葉大批判恐れすぎて批判されてて笑う」と皮肉る声も上がっている。

 ◎上記事は[J-CASTニュース]からの転載・引用です
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千葉大女医殺人事件 昭和58年(1983年)
  昭和58年1月7日朝の5時50分ごろ、千葉市葛城の新興住宅地の路上で、若い女性がうつぶせに死んでいるのを新聞配達員が発見。遺体の近くにはハンドバッグが落ちており、財布や手帳が散乱し、財布から現金が盗まれていた。運転免許証から、被害者は千葉大医学部研究生の椎名敦子さん(25)であることが判明。敦子さんは、自宅から徒歩数分の路上で首を絞められ殺害されたのである。首筋にはコードで絞殺された索溝痕(さくこうこん)が残されていた。敦子さんは新婚3カ月の女医で、駆けつけた夫の椎名正(25)とともに千葉大医学部に勤務していた。
  女医殺人事件だけでも話題性は十分だったが、被害者が新婚の妻で、若い夫婦が敷地約500平方メートル、時価8600万円の豪邸に住んでいたことから、羨望(せんぼう)の混じった国民的興味を引いた。さらに、殺人事件としては多くの疑問があったことからテレビのワイドショーを独占した。
  椎名正の話によると、事件前日は一緒にドライブして午後10時半ごろ帰宅したが、深夜の3時ごろ敦子さんは「眠れないので、研究室に行く」と1人で病院へ行ったということだった。近所の人は、午前4時10分ごろ、怒鳴り合う声と女性の悲鳴を聞いていた。
  千葉県警中央署に捜査本部が設置され、100人の捜査員が動員された。警察は顔見知り、行きずりの犯行の両面から捜査を開始した。当初は敦子さんの財布から現金が盗まれていたことから、強盗殺人を想定していた。捜査員は新婚ほやほやの夫が現場で泣き叫ぶのを見て同情した。しかし敦子さんの遺体に衣服の乱れはなく、抵抗の跡がなかった。両まぶたが閉じられていて、強盗殺人にしては不自然だった。捜査官は顔見知りの犯行、特に夫の正を疑った。正の手のひらに赤い条痕がついているのを見逃さなかった。
  殺された敦子さんと夫の正は独協医科大学の同級生だった。新婚3カ月であったが、2人は大学1年生のときからの知り合いで、長い同棲生活を送っていた。新婚であったが、2人の愛情はすでに冷えていた。
  正(旧姓藤田正)の実家は秋田市内の名家であったが、実家が倒産したことから千葉県S市の同級生で一人娘である敦子さんの椎名家に養子に入ることになった。椎名家には男性の後継がいなかった。敦子さんは東京女子医大にも合格していたが、独協医大に進学したのは婿養子の候補者に出会えると考えたからだった。正は名字を藤田から椎名へと変え、S市の病院の跡取りとして将来を保障されていた。
  椎名夫妻は千葉大医学部の大学院を受験したが2人とも落第。正は整形外科の研修医、敦子さんは病理の研究生となった。正が千葉大に就職できたのは義父の力による。正は妻の実家から自宅を新築してもらった上、月々20万円の生活費を受けていた。事件の起きる3カ月前の昭和57年10月10日、千葉大の井出源四郎学長を媒酌人とした結婚式を帝国ホテルで挙げていた。結婚式には、安倍晋太郎通産相、独協医大理事長などが出席する豪華なものであった。
  千葉県警は捜査を進め、決定的な情報をつかんだ。正は敦子さんとの婚約後、2カ月もたたないうちに千葉市栄町のソープランド「ニュータレント」の21歳のホステスと深い仲になっていて、ホステスとは半同棲生活を送っていた。
  椎名夫妻は新婚旅行で沖縄に行くが、帰って間もなく、正は今度は京成千葉駅近くのパブ「マッケンジー」の19歳のフィリピン人ダンサーと付き合うようになる。新婚生活直後からパブに通い、ダンサーに熱を上げていた。正は枠組みだけの家庭をつくりながら、妻以外の女性を求めていた。このような事実が明らかになるにつれ、エリート医師の転落として世間の注目を集めた。
  ダンサーは4人組ダンサーチーム「カルセール」のリーダーで、昭和57年10月に千葉のパブに来たばかりだった。正は一目ぼれで毎日のように通い詰めた。彼は椎名家から結婚祝いにもらった200万円の時計をダンサーに与え、結婚の約束までしていた。
  しかし10月24日に「マッケンジー」との契約が終わり、ダンサーは愛媛県今治市のクラブに移ることになった。正は消費者金融から80万円を借りると、出張と偽って千葉から愛媛までダンサーを追って行った。そこで今治市のクラブの経営者に200万円で千葉に戻してくれるように頼んだ。正は消費者金融に借金を重ねながらダンサーに貢いでいた。正は同年12月20日以降、病院を無断欠勤していた。医師が無断欠勤すれば、すべておしまいである。
  新婚にもかかわらず、事件当時、椎名正と妻の敦子さんの関係は冷え切っていた。フィリピン人ダンサー、金銭問題、無断欠勤などトラブルが絶えなかった。そのため、正は敦子さんをガス爆発に見せかけて殺害しようとした。自宅のガスを漏出させ、台所の電気スイッチを入れると爆発するように工作したが、この計画は未遂に終わった。
  敦子さんは夫の無断欠勤を追及しているうちに、ダンサーとの関係を知り、夫が自分を殺そうとしたことを知った。敦子さんは夫をののしり、「実家の両親に何もかもぶちまける」と叫んで外出の準備を始めた。正は、妻が実家に帰って両親にこのことを話せばすべてが終わってしまう、医師としての将来がなくなると動転し、敦子さんに飛びかかり電気コードで絞殺した。
  正気に戻った正は、敦子さんを路上強盗に遭ったように偽装した。正は敦子さんの遺体を抱え、外に出て路上に放置、遺体の周囲にハンドバッグの中身をばらまき、財布から現金を抜き取って強盗に襲われたように見せかけた。さらに見開いた死体の両まぶたを閉じ、鼻から流れ出ていた血をふいた。それは夫が見せた最後の優しさだった。
  正は事件発生から9日後の1月16日、自宅で腕から500ccの血液を抜き、自殺未遂で千葉大付属病院に運ばれた。同月21日に敦子さんの葬儀がS市の妙福寺で行われたが、入院中の正は姿を見せなかった。敦子さんの葬儀の翌日に、正は退院したが、その日に殺人容疑で逮捕された。逮捕後の調べで、正はフィリピン人ダンサーとの交際を大筋で認めたが、妻の殺害については否定した。
  正の自供は二転三転した。正は「自分が第1発見者だったが、恐ろしくて警察に届けなかった」と供述。そして最後には、自分で組み立てたフィクションに落ち込み、何が真実なのか分からないと精神的混乱をきたした。「この事件を解き明かせないように複雑にしたのは私です」、このように意味不明な言葉を捜査官に並べ立てた。
  正は起訴されたが、第1回公判では起訴事実を全面的に否定。第5回公判から嘱託殺人を主張した。正の供述によると、前年の10月に妻が自宅近くで性的暴行を受け、脅迫状が届くようになった。そのため、自分がいない方が妻の気持ちが落ち着くだろうと、千葉市内を飲み歩くようになった。妻が死んだのは、事件のショックから、ベッドの上で自分の首にコードを巻き、殺してくれと依頼されたためで、嘱託殺人だったと述べた。妻が死んだのは自殺で、事故をよそおうため路上に運んだ、というものであった。殺人は認めたが、妻が自殺を望んでの嘱託殺人と強調した。
  この事件で最もかわいそうだったのは、敦子さんの父親であった。病院の後継者ができたと喜び、正が逮捕されても無実を信じていた。しかし正の女性関係が報道されると、希望は絶望に変わった。一方、ソープランドの愛人やダンサーは正の無実を信じ、正との結婚を希望する発言を繰り返して話題になった。
  この事件は世間が注目し、裁判の動向にも関心が集まった。傍聴席を求める長い列が千葉地裁を囲み、その中には正に同情的な若い女性が少なからず混じっていた。正は若く端正な顔立ちだった。もし「自分が正の妻だったら、正を被告にさせなかった」という気持ちを、多くの若い女性たちに抱かせていた。
  東京高裁の小野慶二裁判長は「乱脈を極めた女性関係を妻に責められ、妻を口封じのために殺害したのは明らかで、妻に依頼された嘱託殺人との被告の主張は信用できない」と述べ、懲役13年を言い渡した。
  事件から7年目にあたる平成2年3月13日、最高裁(中島敏次郎裁判長)で上告棄却が決まり、正は懲役13年の刑が確定した。しかしその直後の同月22日、正は東京拘置所の独房で自殺を図り、自らの人生に終止符を打った。畳の糸を抜き、糸を首に3重に巻き、糸の間にペンを入れ、ねじって自分の首を絞めたのだった。
  「僕は殺していません。ただ責任は僕にもあります。最後の約束を守ります」と書かれた遺書を残していた。この事件は被告人死亡のため刑は確定せず、椎名正の医師免許は剥奪されていない。正は事件後、都合4回自殺を図っていた。罪の重さを感じてのことであろうか。

 ◎上記事は[http://www.cool-susan.com/]からの転載・引用です
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事件後、市橋達也受刑者の両親とも医師を辞め、姉も嫁ぎ先から離縁 『週刊女性』2015/5/12・19号 

    本山直樹 千葉大学名誉教授
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付属池田小事件(2001/6/8)から14年 …(宅間守死刑囚 2004年9月14日 刑執行 状況要旨)
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