詩集-柴田トヨ『くじけないで』 仮構ではない肉声の力

2011-02-22 | 本/演劇…など

仮構ではない肉声の力 『くじけないで』に思う
井坂洋子(いさか ようこ)=詩人 2011年2月21日Mon.中日新聞夕刊〈文化欄〉
(前段略)
 “白寿の処女詩集”と銘打たれた柴田トヨ『くじけないで』が150万部の驚異的な売り上げを見せているらしい。(略)
 詩集の巻末に“「朝はかならずやってくる」ー私の軌跡”と題された自叙伝風の文章が、何枚かの著者の若かりし頃の写真とともに載っている。それによると、柴田さんは「90歳を過ぎて」書き始めたとある。90代で詩作を始め、その第1詩集が多くの人の共感を得たのは前代未聞のことで、特例中の特例といってもいいだろう。
 ただし、純粋にその詩が好まれたというだけではないかもしれない。巻末の自叙伝風の文章のような、書き手の人生の軌跡と作品をいっしょに載せている単行詩集は珍しい。いわゆる、詩集の「あとがき」とはちょっと性質を異にしていると思う。
 ふつう、詩集には年齢や、性別すら書かれていないものだ。詩作品は書き手から独立したものとして提示される。『くじけないで』は、詩と詩人が不可分な関係を保っている。繰り返しになるが、その詩集は、詩が書き手から独立して存在しているのではなく、「私詩」というよりもっと積極的な形で、柴田トヨさん自身を浮かびあがらせているのである。
 私はそれについての良し悪しをいっているわけではない。ただ、そのような特徴が、詩集が多くの人に行き渡った理由のひとつに挙げられると思う。もしかすると、詩が仮構のものであることに、多くの人が苛立っているのかもしれない。真実より事実を、表現としての新しさや濃密さよりもストレートな肉声に近いものが、詩に求められているのかもしれなくて、複雑な思いがする。
 『くじけないで』には、直喩や暗喩、擬人法や連のとり方など、詩を学び始めた人の技法があるが、それが技ともいえないういういしさである。(略)
 また、柴田トヨさんほど年齢がいっているわけではないにしろ、お年寄りが彼女の詩に支えられているのだと思う。柴田さんは、息子さんやヘルパーの人が訪ねてきてくれるといっても基本的に一人暮らしである。ブームの背景に高齢者の独居が増えてきている社会情勢があり、そのことにも複雑な思いがする
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〈来栖の独白〉
 ブログパーツの「週刊ベストセラーTOHAN調べ」に進出してきたと思ったら、今週は一気に1位に駆け上がった柴田トヨさんの『くじけないで』〈飛鳥新社〉。
>詩が仮構のものであることに、多くの人が苛立っているのかもしれない。真実より事実を、表現としての新しさや濃密さよりもストレートな肉声に近いものが、詩に求められているのかもしれなくて
>ブームの背景に高齢者の独居が増えてきている社会情勢があり
 大いに納得する。人の心、社会のありようを映している。
 詩集のなかから、一つだけ、写してみよう。「生きる力」。なんといとおしい詩であることだろう。リアリティが胸に迫り、私は母を思う。重ねる。そして、すぐに私も柴田さんたちと同じになる。すぐに・・・。

    生きる力

   九十を越えた今
   一日一日が
   とてもいとおしい

   友からの電話
   訪れてくれる人たち

   それぞれが
   私に
   生きる力を
   与えてくれる


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