「真っ白な闇」を読む=ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(悲劇のロシア)

2008-09-02 | 本/演劇…など

「真っ白な闇」を読む=亀山郁夫
 ドストエフスキーという小説家は、恐ろしく複雑な内面を抱え、小説中にすべてを明晰に書き込むことを極端なまでに嫌った作家だと思う。そのあたりが、何より明晰を求める、たとえばフランスの作家などと、根本的に異なるところである。
 そうしたドストエフスキーの書き方には原因が2つある。
 1つは言うまでもなく、同時代の検閲である。思想犯として逮捕・流刑の経験をもつドストエフスキーとしてはつねに外部の目を顧慮せざるを得なかった。
 しかしより本質的な理由は、ドストエフスキーの心のなかにあったのだと思う。おそらく彼は、われわれには及びもつかない恐ろしい「地獄」を抱えていたが、正面きってそのすべてを書くことはできなかったし、また書こうとも思わなかった。それらは、言葉にならない巨大な感情であり感覚であり、混沌とした思想であり、あるいは危険な性向であって、死ぬまで心の奥深くに隠し持っているべきものだったのだろう。
 その隠された部分に何としても切り込み、隠されたものを引きあげることによって、ドストエフスキー文学の限りない多様性と深さと悲劇性を読み取りたい。そうしなければ、ドストエフスキーという作家の根本には辿りつけない---こんな思いで、私はずっとドストエフスキーを読みつづけてきた。だから私は、ドストエフスキーの小説について、あいまいなディテール一つからはじまって、すべてが謎かけであると考えている。
 ドストエフスキーはあらゆることを想像しながら小説を書いていた。ページの中の黒いインクの部分だけが考えたことのすべてではない。余白という「真っ白な闇」にも、はかり知れない人間の隠された真実の世界が書き込まれているのである。あるいは、書かれなかった白紙(タブラ・ラサ)にも、無限の人間の生命の姿が書き込まれている。できるかできないかは別に、そこまで踏み込まなければ、ドストエフスキーをとことんまで明らかにすることはできないと思うのである。
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来栖のつぶやき
 さきほど、やっとHP 読書ノート「カラマーゾフの兄弟」のupを終えた。翻訳は、米川正夫さんのほうが格段に好きである。美しい。
 ところで、亀山郁夫さんの論考の最後(上掲)が身に沁みた。「聖書に匹敵する」と謂われる大作を幾つもものした大文豪に、卑小に過ぎる私の感傷だけれど「明晰」を最期まで避けて終わる人生もまたあるのだ、と思う。
 藤原清孝との面会は常に看視のもとに行われたし、発受信には検閲が付された。私たちはそれに慣らされてしまっていたが---何かで面会の立会人が席を外したことが会った。すると、私たちは妙にぎこちなくなってしまい、会話が出来なくなった。係官が戻ってくるのを待った。---しかしそれは、「自分を明晰に言いあらわさず抑え込む」ことであった。加えて、私は、清孝という人の全体に配慮してしまい、壁のように、彼の心のうちを聴く、そういう存在に徹してしまった。そうするうちにやがて、自己を表白することが極端に苦手になった。ホームページやブログををやっているが、ファイルの多くは「転写」である。或る人に「コメントが書けません。難しいです」と打ち明けたことがあった。その人は「コメントは難しいですよ。無理をしなくていい」と言ってくださったが、エントリからコメントまで彼のように縦横無尽にお書きになる姿は、私にはまったくもって別様である。


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