光市事件の元少年被告人の実名を記した(というよりタイトルにした)本が出版され---そのまえに弁護団が出版の差し止めを求めた---著者側は「被告人の了解は得た」と言い、弁護団は「被告人は了解していない」と主張。了解如何に係わらず、少年法に抵触する行為だ。売らんかな、の底意が見えている。これは先の草薙厚子氏の『ぼくはパパを殺すことにきめた』も同様である。醜悪な行為だ。
ところで、「虐待を受けて育った人は周囲の人の云うことに自分を合わせる、気に入られようとするものです」、ある人から、私はそのように聞かされた。ならば、光市事件被告人も、おそらくは増田氏の申し出に「否と云えなくて」「歓心を買いたくて」実名出版を了解したのではないか。
不幸な境遇に育った少年である。父親の虐待に怯え、母親とは共依存の間柄で、独立し(解放され)た自分の意見など持ち得なかった(人に合わせることしか知らない)。
彼の弁護人の安田好弘氏は、2006年6月19日の講演「光市最高裁判決と弁護人バッシング報道・・・裁判から疎外された被告人」で、次のように云う。
「私は、少年と今年の2月27日、広島拘置所で会いました。彼はたいへん幼かったというか、大人ずれしていないというか、25歳になろうという年齢でしたが、見た目では中学生あるいは高校生といっていいくらいの印象をうけました。容貌、相貌もそうでした」。
幼かった理由を
「18歳1ヵ月で逮捕され、そのまま独居房に隔離されて身柄拘束されているわけですから、成長の機会が完全に奪われたままであることも確かです」。
と云われる、が、これは少し違うかもしれない。虐待のなかでは、心も体も育たない。逮捕後に成長の機会が完全に奪われたのではないだろう。
生まれてきてよかったと思える日々、楽しい、嬉しいと感じる日々が元少年に幾日あっただろう。
光市事件⇒http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/hikari-menu.htm
辛淑玉さんと野中広務さんの対談『差別と日本人』を読んで、辛さんという人を知ってから、彼女の幾つかの言葉が、常に私の脳裏にある。
辛 彼(オバマ米大統領)は白人の母親とケニア人(黒人)の父親との間に生まれた子ですよね。ダブルですよ。にもかかわらずマスコミがずぅっと黒人大統領、黒人大統領って言い続ける。
たとえば私たちももうなんですけど、お母さんとお父さん、どちらかだけが朝鮮人でも朝鮮人と言われる。つまり、白人とか日本人というのは純血主義で、ちょっとでも「違う血」が入ったら「あっち」なんだみたいな、そういうメディアのいやーな感じがとてもしたんですね。
それと三つ目は、多くの白人の人たちは、オバマさんのことを怖がっていないということなんですね。なぜなら、彼は傷ついていないから。オバマさんはインドネシアやハワイで育って、アメリカの黒人の歴史的な傷つき方をほとんどしていない。文化的にもない。ダブルだということもあって白人が投票しやすい。もっと言うならば、仕返しされる心配をしなくていい。安心して投票できる人だから大統領になったんだなって気がしたんですね。
じゃあ、ほんとにオバマさんがなんかやるかっていったら、私はあんまり信じちゃいけないなって感じがしていたんですよ。
野中 それは見事な分析だと思うよ。
私が辛さんの発言に注目し、傾聴するのは、彼女の鋭い感性の故だ。彼女から多くを気付かされ、教わった。そういう彼女だが、私には、いつも彼女が、ご自分の見方・考え方の妥当性・正当性を吟味、確認しようとしているふうに見える。そうではないのかもしれないのだが、私はそのように見てしまう。これは恐らく私自身の「やり方」を彼女に反映させているのだろう。私自身がちょっと特殊なところ(死刑囚の親族という立場)にいるものだから、自分の視点、考え方に、偏向しているところがないだろうか、と絶えず気にし、確かめるような姿勢になってしまう・・・。
そんな私の日常の中で、光市事件被告人の生い立ちゆえの今般の実名出版のことも考える。
父親の暴力のなかで勝田清孝も育った。元少年被告とは年齢も何もかも異なるが、清孝も人に対する執着が殊のほか強かった。精神を病んでいた。分裂病(統合失調症)であった。
犯罪の周りに、寂しみがある。哀しみがある。悒(ゆう)があり、恨(はん)があり、憂愁がある。だがこれらは、人間誰しも、等しく抱いていくことを余儀なくされているものだ。被害者遺族の方たちの事件後の想像に絶するような活動(世論や司法・政府への訴え・働きかけ)は、悒や恨や憂愁が出口を探し噴出したものかも知れない。人はみな、いたみの中で生きてゆく。
パンフルートを聴いている。清孝の死から間もない頃、よく聴いた。パンを聴いていると、夜空を清孝と飛んでいるような、そんな気分になる。
<追記 2009/10/13Tue.>
この頃、公園を40分ほど歩くようにしているが(自然保有林も擁する広大な公園)、野良猫が多勢。時に、犬も尻尾を振りながら人懐こい笑顔を向けてくる。林の奥中に首輪もリードもない。飼い主が、遺棄したのだろう・・・。そんな人類に、なおも尻尾を振り、親愛の情を示す。泣きたくなる。
本日、本屋さんでちょいと立ち読みし、思わず買ってしまった五木寛之氏の本。
p160~
しかし、最近、悪は人間共通の運命であると思うようになった。
戦争などの極限状況ではなく、いまの平和な世で、どんな善人でも、生きるためには悪を抱えずにはいられない、と。
悪に染まらない心など、この現代にはないのだ、と痛感するのである。
p164~
ここで親鸞が言わんとしていることは、人間は存在することで、いやおうなしに悪を内側にもっている。そのみずからの存在としての悪を、おそれることなく正面からみつめようということだろう。
自分の悪をまっすぐ直視する勇気をもって、それがどのように恐ろしくても、その真実を自覚せよ、なにも恐れることはないのだ、と、人をはげましている。
親鸞が言わんとしたことを、現代にあてはめていいかえれば、「悪」を「闇」、「本願」を「光」とでも言えるかもしれない。
「人はおのれの心の闇を、たじろがずにみつめる勇気をもて。どんなに深い闇であっても、この世界をつらぬく永遠の光の前にはおそれることはないのだ」
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光母子殺害:元少年の死刑確定 判決訂正申し立てを棄却
山口県光市で99年に母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(31)に対し、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は14日付で被告側の判決訂正の申し立てを棄却する決定を出した。死刑が確定した。2審の無期懲役を最高裁が破棄・差し戻したケースでの死刑確定は戦後3例目。先月20日の差し戻し上告審判決では、裁判官1人が反対意見を述べる極めて異例の展開をたどった。
確定判決によると、元少年は99年4月、光市の本村洋さん方に排水管検査を装って上がり込み、妻弥生さん(当時23歳)を絞殺して強姦。長女夕夏ちゃん(同11カ月)も絞殺した。死刑の求刑に1、2審が無期懲役としたのに対し、06年の最高裁判決は審理を広島高裁に差し戻し、差し戻し控訴審が死刑としていた。【石川淳一】毎日新聞 2012年3月16日 19時34分(最終更新 3月16日 19時57分)
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