「60年安保」夢見た秘密保護反対 否定派の横綱は朝日と毎日 佐瀬昌盛

2013-12-12 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

【正論】「60年安保」夢見た秘密保護反対 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 
 産経ニュース2013.12.11 03:16
 特定秘密保護法をめぐっては与野党間でも、政府・与党と言論機関の間でも複雑な攻防戦が展開された。「複雑な」という意味は、そのいずれでも明快な正面激突戦が見られなかった点にある。民主党の戦法は衆院と参院で違った。ブレなかったのは共産党と社民党ぐらいのもので、他の野党はふらついていた。共、社以外の諸野党には新法を全面否定することへの躊躇(ちゅうちょ)が働いていたからだろう。
*否定派の横綱は朝日と毎日
 政府・与党と言論機関の攻防戦が複雑だったのはいささか意味が異なる。本稿はその面を扱う。
 主要言論機関たる新聞の場合、新法に対しては大別して肯定派と否定派がある。前者は産経と読売に代表される。が、両紙とも全面的賛成論ではなく8割肯定、2割留保といったところか。他方、否定派の横綱は朝日、毎日の両紙であり、その論調には迷いがない。全面的断罪派と呼ぶべきか。政府立法の発想そのものを正面から危険視する社説を何本も掲げた。両紙が新法案への全面的な反対姿勢を打ち出すや、すぐに私は半世紀以上も昔の60年安保騒動を思い出した。昔の夢よ、もう一度?
 往時、岸信介首相がアイゼンハワー米政権と現行の日米安保条約を結ぶと、主要各紙の評価は一枚岩ではなかった。が、国会周辺での激しい抗議行動中に女子東大生の死亡事件が起きると、在京7紙(挙名順に産経、毎日、東京、読売、東京タイムズ、朝日、日経)が1960年6月17日、前代未聞の共同宣言「暴力を排し議会主義を守れ」を1面に同時掲載した。
 60年安保騒動は日米間条約が原因だったから、今回の国内立法と同列には論じられない。が、肝は国民の意識覚醒だ。ならば、往時並みの活発なプレスキャンペーンをやろう-。朝、毎の気負いを私はそういうものと読んだ。
*激情に基づく判断は持続せず
 両紙は連日、有名人や識者を登場させて秘密保護法案反対を語らせた。朝日は11月30日付夕刊の大型連載企画「昭和史再訪」で53年前の「日米安保条約改定」を扱った。その書き出し。〈「秘密保護法、反対」と声を上げ、行進する人々。先日、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂での特定秘密保護法案の反対集会後、約1万人が国会などへデモをした〉。この記事に添えられた大きな写真も53年前のものではない。なんと、「STOP! 秘密保護法」の写真だ。これでどうして53年前の回顧記事だといえるのか。
 朝日や毎日に訊(たず)ねる。60年安保騒動の大衆エネルギーに今日、再びあやかりたいとの心情は分かるが、そのエネルギーが10年後、20年後にどうなったかを復習したことがあるのか。安保条約の一応の期限は70年であったが、期待(?)に反して反対運動は盛り上がらず、条約は自動延長された。
 以降、条約規定では締約国の一方が解消通告すれば1年後に条約は終了する。だが、誰が一体、そんな道を選ぶか。国民の圧倒的多数は今日、日米安保条約は無期限有効と思い込んではいまいか。
 激情に基づく判断は時の経過とともに変化する。私は日米安保反対だったことは全くないが、私より才能のある友人知人の中には反安保の闘士がわんさといて、国会前のデモを指導した。全員、激情の持ち主だった。そして数年にして「転向」した。苦しかっただろう。が、例外なく誠実だった。彼らは長文でも難解でもない安保条約を読まなかったと告白。巣鴨帰りの岸が憎くて反安保を叫んだと認めた。これは何を教えるか。
*新法は一部留保付きで合格点
 新法の内容にいくばくかの留保を持つ私の判断を書く。〈この道はいつか来た道。おおそうだよ、戦前の治安維持法へ戻る道〉と言わんばかりの朝日や毎日は「事前決定論」に立つ。前途には戦前の治安維持法下そっくりの日本が待ち受けるとの診断だ。5年後、10年後、30年後に診断書を開けてみて大丈夫か。53年前に日米安保体制の不吉な将来を描いた論説の類(たぐい)を再読、再学習する必要はないが、今日の激情が持続するのか。
 特定秘密保護法下のわが国が無病息災で暮らし続けるかどうかは分からない。長い歳月には多分、風邪や下痢を経験することもあろう。過般の国会審議で野党側から指摘されたように、国民の「知る権利」と法規定との間に避け難い軋轢(あつれき)が生まれ、法律違反を問われる国民や公務員が出る事態はゼロとはいえまい。新法下、美しい予定調和を望むべきではない。が、おおむね良好な健康状態が保たれるだろう。それが鍵だ。
 政治の世界、わけても他国との関係が絡む国際政治の世界では一点凝視に耽(ふけ)るのは危険だ。「知る権利」は優れて国内的価値だが、新法は軍事、外交、テロ、スパイ関連の情報など国境を越える領域での秘密保護という国際的価値に関わる。複数の価値間のバランスを図りつつ最適解を求めることが肝要だ。最適解とはある意味、職人芸みたいなもので、誤解を恐れずに言うと以心伝心的な性格がある。それを法制化するのは難事だが、新法はほぼ合格点である。(させ まさもり)
 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します 
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◇ 憲法改正で「日本」を取り戻せ 誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を 『Voice』4月号 2013-03-24 | 読書 
  『Voice』4月号2013/3/9(毎月1回10日発行)

      

  憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ
 対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」
〈抜粋〉
p45~
■サイレントマジョリティの声を聞けるか
百田 同じように、戦後長らく左翼的な勢力が跋扈しているのが、新聞やテレビなどメディアの世界、そして教育界です。(略)
 まずメディアについていえば、第1次安倍内閣は『朝日新聞』をはじめとする新聞やテレビに過剰なまでにバッシングされ、短い期間で残した実績が国民に十分に伝わらないまま、退陣に追い込まれてしまいましたね。
渡部 ベストセラーになった約束の日 安倍晋三試論(幻冬舎)で小川栄太郎さんが書いているのですが、昨年11月に亡くなった政治評論家の三宅久之さんは、かつて朝日新聞社の主筆だった若宮啓文氏に「どうして『朝日』はそこまで安倍さんを叩くんだ?」と尋ねたところ、「社是だからだ」といわれたそうです。
百田 ただ、いまでは「安倍たたき」をするか否か、メディアも少し慎重になっているようにもみえます。リベラルな論調を出すことで読者が減るのではないか、と懸念しているのでしょう。
渡部 1月にはアメリカのニューヨーク・タイムズ』紙が安倍さんを「右翼の民族主義者だ」と強く批判しました。『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局は、朝日新聞社と同じビルにあります。これは邪推かもしれませんが、『朝日新聞』の記者が、自分たちの発言力が落ちていることに危機感を抱き、『ニューヨーク・タイムズ』の記者をけしかけて、社論を書かせたと解釈することもできます。
百田 ここ数年でインターネットが発達し、とくに若い世代を中心に「マスコミの情報が必ずしも正しいわけではない」という意識が芽生え始めたのも大きいですね。
p46~
渡部 2012年から現在にかけては、脱原発運動の旗振り役になり、いかにも国民全体が「脱原発」の意見をもっているかのような記事を掲載した。しかし先の総選挙では、「日本未来の党」をはじめとする、脱原発政党は軒並み議席を減らしています。マスコミのいうことと、「サイレントマジョリティ」の意見は違うということが露呈しました。
百田 60年安保のときと状況はよく似ています。当時も日本全国が「安保反対」のような気運でしたが、自然成立とほぼ同時に岸内閣が倒れ、その数か月後に行われた総選挙で自民党が圧勝した。メディアの声はあくまでも「大きい声」にすぎず、それが大多数の声を代表しているとは限らないということです。
(略)
百田 岸信介はいみじくも、安保デモを前に「私には国民の声なき声が聞こえる」と発言しました。それは正しかったんです。いくら国会を群集が取り囲んでも、私の両親のような大多数の庶民は、そのような問題に何ら関わりはありませんから。サイレントマジョリティの声を聞くというのは、政治家の大きな資質の1つだと思います。 *強調(太字・着色)は来栖 
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◇ 秘密保護法 野党とメディアの大声 60年安保に酷似 岸元首相は言った「サイレント・マジョリテイを信じる」 2013-12-08 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 
         

深谷司の言いたい放題 第492回 2013年12月07日「秘密保護法成立に思うこと」
 12月6日深夜、参議院本会議で賛成多数で可決した。韓国や特に中国の、日本を脅かす理不尽な行動が激しくなりつつある今、国家の主権を守り国家国民の安全保障の為に、法や機能を整備することは急務である。
 国家安全保障会議の創設が必要だし、そのためには世界と情報を共有しなければならない。しかし、日本は情報の垂れ流し、スパイ天国、情報管理が出来ていない。これでは世界で全く信用されず、確かな情報も入ってこない。秘密保護法は、こうした状況の中、まさに喫緊の課題で、これが成立したことは本当によかったと思っている。この法は今月中にも公布され、公布から1年以内に施行される。
 それにしても、野党の動きはいい加減で、世論に迎合して右往左往、茶番劇の連続であった。
 採決にあたって、維新の会は退席したまま、みんなの党は衆議院で賛成したのに退席した者、反対した議員と対応はバラバラで、全く政党の形を成していなかった。民主党は一旦退席し、やっぱり反対票を投じようとまた舞い戻る醜態ぶりであった。
 11月7日に自公、維新、みんなの4党が、修正案をまとめたのだが、あれは一体なんだったのか。中身は賛成だが、国会の運びが悪いからと維新の松野幹事長は弁解していたが、審議しているのは法案そのものであることをわきまえていないのだ。(実際は党内に若手の反対があり分裂を避けるためだが・・・)
 近ごろの若い国会議員は、おしなべて、どうも真剣さが足りないように思えてならない、国家国民の為に命さえ捧げるとういう気概が無い。周りを気にして周章狼狽している。マスコミや世論の動きに迎合して、己の確固たる信念が無い。プチプル政治家が多くなっては国の将来が心配でならない。
 マスコミ報道は相変わらずだ。朝日新聞を中心に、勝手に限りなく拡大解釈を繰り返し、さも軍国主義に戻るかのように書いて大騒ぎしている。朝日新聞の一面で「治安維持法を含め、この種の法律は拡大解釈を常としていた」と決めつけているが、民主主義が定着し、成熟していることを、ことさらに無視している。 
 国民の意識の高さや判断力の正しさも考慮しようとしない、自分たちだけが利口だと思っている。要は国民を馬鹿にしているのではないか。
 私は、今回のマスコミの動きを見て、60年安保騒動の時とそっくりだと感じている。
 1958年(昭和33年)、安保条約の改定の話し合いが、岸信介首相、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使の間で始まった。岸首相は「日米関係の一層の緊密化は必要だが、吉田首相時代に見られたような対米従属の時代は終わった。対等の立場で協力し合うものでなければならない」と考えていた。その為には、まず「日本は基地を提供するが、日本防衛の義務はない」とする片務性を変え、双務的な相互防衛条約にし、米軍の日本防衛義務を明らかにしようとした。極めて正しい政治判断であった。
 ところが、「新安保によって日本が戦争に巻き込まれる」と、労働組合、全学連などが中心に大反対運動が起った。
 1960年、野党抜きでこの新安保条約を承認したが、国会周辺は連日10万人を超えるデモ隊で埋まった。「岸を倒せ」から「岸を殺せ」とシュプレヒコールはエキサイトしていった。警官隊との衝突で学生樺美智子さんが亡くなったのもこの頃であった。革命を起こせとの空前の騒ぎであった。
 アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせの為に来たハガチー氏は、羽田空港でデモ隊に囲まれヘリコプターで脱出するという事件もあった。
 その頃私は、全学連を批判する保守派の学生を集めて「全日本学生雄弁連盟」を組織し代表理事になり、全学連と対抗していた。ハガチー事件の時は、バス10台に学生を乗せ、羽田の弁天橋あたりで全学連の連中と乱闘したりしていた。
 やがてこの騒ぎも収まっていくのだが、その背景に、一般国民の「過激な行動への批判」「こんなことで民主主義と言えるのか」との声が高まったことがあった。
 猛烈な反対運動を展開した知識人や学生達も、条約が成立し、騒ぎが収まるとやがて次々と転向していった。反対運動の中心学習院教授の清水幾太郎氏などは国粋主義者になり、核武装すべきとまで言いだした。
 朝日新聞は「戦争に引きずり込まれる」と論陣を張ったが、安保改定以来、日本は平和の中で過ごすことが出来た。この新聞は今も同じことをやっている。まるでオオカミ少年だ、恥ずかしくないのだろうか。
 朝日ばかりで恐縮だが、2面ブチ抜きで「反対諦めぬ、戦中に戻すな」の大見出し、本当に呆れる。記事の中に「怒り列島を包む」で、「京都の市民団体が呼び掛けたデモに約120人」とあった。え!これっぽっちと、思わず数の間違いかと思った。安保の時は全国で連日500万人だったぜ・・・。
 賛成派はデモもしないし喚きもしない。岸さんは「声なき声、サイレント・マジョリテイを信じる」と言ったが、今同じことが言えるのではないか。
 但し、これから大事なことは運用の仕方を慎重にすべきだという点だ。国家の安泰を守りつつ、国民の基本的権利を侵さない、正しく運用されていく状況を、きちんと監視していくことも必要だと私は思っている。
*深谷司プロフィール
 浅草生まれ。終戦を満州で迎えた。一年後、引き揚げて長崎県佐世保市浦頭港に上陸。祖国日本の「土のあたたかさ」、迎えてくれた「日本人のやさしさ」に感動。その思いを胸に政治家を志した。  27歳で台東区議会議員に当選。33歳都議会議員を経て、37歳で衆議院議員となる。当選9回。  郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通産大臣(2回)、予算委員長、テロ対策特別委員長を歴任。自民党三役総務会長。東洋大学大学院客員教授。  現在は自民党東京都連最高顧問、TOKYO自民党政経塾塾長として、未来を担うリーダーの育成に務める。
 ◎上記事の著作権は[深谷司の言いたい放題]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖 
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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28 | 読書 
 (抜粋)
●序章  官邸デモの本当の敵
1960年安保闘争との違い
p13~
 60年安保闘争と現在の野田政権打倒デモは、反政府デモという意味では同じですが、中身はまったく異なります。
 60年安保闘争では、運動に参加している人たちは日米安保条約の条文など読んでおらず、冷戦下の世界情勢のなかでどのような意味をもつのかも理解していませんでした。運動は組織化され、学生は主催者が用意したバスに乗り込み、労働者は労働組合の一員として参加し、女子学生が亡くなったことで激化しました。
 安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、讀売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞7社共同宣言」を出すと、運動は一気に萎んでいったのです。

●第1章 岸信介と安保闘争の真相
  1.安保闘争神話の大ウソ
「岸信介=対米追随」の誤り
p21~
 しかし、これほどの反対運動にもかかわらず、5月20日未明に衆議員で強行採決された新安保条約案は、参議院の議決がないまま6月19日に自然成立し、批准を阻止することは出来ませんでした。
 一方で、この混乱の責任を取って岸信介内閣は7月15日に総辞職します。この運動は、もともとは日米安保改正阻止から始まりました。しかし、運動が盛り上がっていく過程で徐々に、A級戦犯として訴追されながら政界へ復帰し、“昭和の妖怪”とまで呼ばれた岸信介の政権を打倒することへ目的が変質していきました。そのため、岸内閣の退陣により、ある種の達成感が生まれ、急速に運動は萎んでいくのです。
p34~
 岸は安保改定の交渉を進めるため、まずマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と会談し、次のような考えを述べます。
 「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を、日本に返還することなども提案した。
 さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った」(『岸信介証言録』)
 在日米軍の削減だけでなく、沖縄・小笠原諸島の返還にまで踏み込んでいるのです。
 同年6月には訪米し、ダレス国務長官に次の点を主張します。
 「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」(同前)
 岸の強い態度に今度は逃げられないと思ったのでしょうか。ダレスは「旧安保条約を新しい観点から再検討すること」に同意します。
p40~
 もう一つの謎は、財界のトップから資金が出ていることです。なぜ学生運動に財界が手を貸したのでしょうか。
 実際に財界から資金提供を受けたと証言しているのが元全学連中央執行委員の篠原浩一郎で、『60年安保 6人の証言』でこう述べています。
 「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、今里広記・日本精工会長さんたちが、とにかく岸さんではダメだということで岸を降ろすという勢いになっていたんですね。(略)」
 財界は、学生たちの純粋な情熱を、“岸降ろし”に利用したということです。
p41~
 ここで私が注目するのは、中山素平と今里広記の2人です。彼らは経済同友会の創設当初からの中心メンバーですが、(略)
 経済同友会といえば池田勇人の首相時代を支えた財界四天王のひとり、フジテレビ初代社長の水野成夫も経済同友会で幹事を担っていました。池田勇人は大蔵官僚出身で石橋政権時代から岸内閣でも大蔵相だったこともあり、財界とは密接な関係を築いていました。
 国際政治という視点から見れば、CIAが他国の学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供して、反米政権を転覆させるのはよくあることです。“工作”の基本と言ってもよく、大規模デモではまずCIAの関与を疑ってみる必要があります。
 1979年のイラン革命、2000年ごろから旧共産圏で起きたカラー革命、アメリカから生まれたソーシャルメディアを利用したつい最近のアラブの春など、アメリカの関与を疑わざるを得ない例はいくらでもあります。
岸政権打倒のシナリオ
p42~
 確証がある訳ではありませんが、私が考えた1番ありうるシナリオは、次のものです。
1、岸首相の自主自立路線に気づき、危惧した米軍およびCIA関係者が、政界工作を行って岸政権を倒そうとした。
2、ところが、岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3、そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモ後押しの手法を使った。
p43~
4、ところが、6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しも立ったこともあり、翌16日からはデモを抑え込む方向で動いた。

 安保闘争がピークに達した6月17日に、一斉に「暴力を排し議会主義を守れ」と「7社共同宣言」を出した新聞7社も、当然のことながらアメリカの支配下にあったことは疑いようがありません。(略)
 岸が軽く見ていた60年安保闘争は、外部からの資金供給によって予想以上の盛り上がりを見せ、岸はそれに足をすくわれることになりました。
 岸の望んだ形ではなかったかもしれませんが、それでもこの時締結された新安保条約は、旧安保条約に比べて優れている点がいくつかあります。
p44~
 一方で、安保条約と同時に、日米行政協定は日米地位協定へと名称を変えて締結されましたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態は、ほとんど変わっていません。岸が本当に手をつけたかった行政協定には、ほとんど切り込めず、しかもその後50年にわたって放置されてきたのです。
 いわば60年安安保闘争は、岸ら自主路線の政治家が、吉田茂の流れを汲む対米追随路線の政治家とアメリカの反政府デモ拡大工作によって失脚させられ、占領時代と大差ない対米従属の体制がその後の日本の歴史にセットされた事件だったといえるのではないでしょうか。
 しかし、岸は改定された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項をしっかりと組み込んでいました。
p45~
 60年安保改定で、安保条約は10年を過ぎれば、1年間の事前通告で一方的に破棄できるようになったのです。自動継続を絶ち、一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄されることになります。おそらくここには自主路線の外務官僚も一枚かんでいたのでしょう。必要であれば、再交渉して新たな日米安保条約を締結し直せばいいわけです。(略)
 岸はこう述べています。
 「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(『岸信介証言録』)
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