7月21日(祝・月)午後2時~4時30分(1時30分開場)
講演・綿井健陽(フリージャーナリスト)
「光市母子殺害事件~もうひとつの視点」
講演会会場:名古屋国際センター4F 第3研修室
講演会入場料500円(別途)
問合せ先:
DAYS JAPANサポーターズクラブ名古屋
e-mail: s_handa@mx5.mesh.ne.jp
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秋葉原で殺傷事件が起きた6月8日、僕はちょうど広島に行っていた。夕方になってから事件の第一報を聞いたとき、それを教えてくれた人は「この事件の弁護をやる人は大変だぞ」と言った。確かに。しかし、こうした第一報で世の中に衝撃を与えた事件だからこそ、その後の裁判の場において弁護人がやるべきことは多々ある。
いま裁判員制度が来年から始まるということで、メディアの中では「あなたがもし裁判員になったら…」という仮定での問いかけがよくされる。ある事件や裁判についてネットや電話アンケートを通じて、「これは死刑か、無期か」、「どんな量刑が適当か」を尋ねてその結果を集計するケースが増えている。
僕もついつい講演などでは冒頭に、「皆さんもこれから裁判員になる可能性がありますから…」とこれまで前置きしていることが多い。自分が裁判員になったらと想定させていることになる。
こうして誰かを裁く側へどんどん追い込んでいく。強迫観念のようにみんな裁く側の意識に迫られる。誰かを「処罰する」こと、そして自分は必ず「裁く側」に立つということを前提に、そこから物事を考える思考システムが、この裁判員制度の開始の前に着々と築かれているように見える。
先日、ある新聞記者の人と話すと、大学などで学生が模擬裁判をやると、裁判官や検察側を選ぶ人がほとんどで、弁護側を選ぶ人が極めて少ないという。
僕は最近思いつきだが、裁判員制度を導入するのであれば、同じく「弁護員」と「検察員」という立場を法廷で導入してみるのはどうかと、このところ話している。法廷の場で弁護人とともに弁護する側にも市民から誰かが選ばれ、一方で、検察側にはそれと逆の立場の人も市民から誰か選ばれるということだ。
刑事裁判における弁護人という立場がなければ、被告人の刑事責任を追及する検察と、罪を裁く側の裁判官だけになる。これでは裁判は成立しない。もうこれまでも起きているが、このままでは「悪者を擁護する悪い奴」「こんな奴に弁護は必要ない」とでも言わんばかりの非難やバッシングに、弁護人がさらされることになる。最近、行政訴訟などで被害者の側につく弁護士がメディアで紹介されるケースは多いと思う。が、加害者の側の弁護士に対しては、「こんな凶悪事件の弁護をする奴はいったい誰だ?」という興味だけが先走っている。
単に冤罪事件を防ぐということだけでなく、有罪事件の実行行為や動機など、複雑な事実や証拠を多角的に調べるためにも、そうした弁護するという立場からのアプローチは必要ないのか。裁く側だけでなく、被告人を弁護するという立場が法律で保障されているということに対して、社会の中で理解がなければ果たしてどうなるのだろうか。
「メディアを筆頭に日本国中が妙に道徳的になっている印象がある。自己満足感に浸りつつ非を唱えられる対象を、血眼になって探しているようにも見える」(芹沢一也氏・毎日新聞07年12月5日付掲載「ダブルクリック」から)