日本語があぶない 2017/11/29

2017-11-29 | 日録

2017.11.29 05:03更新
【産経抄】日本語があぶない 11月29日
 将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が先週、公式戦通算50勝を達成した。そのときのテレビ映像が興味深い。「『せつもく』の数字となりました」。藤井四段のコメントに、報道陣から困惑の声が上がる。「『なにもく』ですか?」。「僥倖(ぎょうこう)」「醍醐味(だいごみ)」など、これまでも中学生らしからぬ言葉遣いが話題になってきた。「節目(ふしめ)」のこんな読み方は、小欄も知らなかった。
 ▼国語学者の大野晋さんの『日本語練習帳』によると、新聞や雑誌に使われている単語は年間約3万語である。昭和30年代の高校の上級生が、ほぼ同じ数の語彙(ごい)を持っていた。読書家の藤井四段もこのレベルかもしれない。
 ▼ただし「今は大学生でも1万5千から2万くらいに落ちている」。この記述は約20年前のものだから、現在の学生の平均的な国語力はもっと低いはずだ。それにしても、昨日の中高生の読解力についての記事には驚いた。
 ▼「幕府は、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」「ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」。2つの文について、中学生の43%、高校生の28%が同じ意味だと答えたという。
 ▼これでは、新聞はもちろん教科書の記述もほとんど理解できないのではないか。調査では、中高生が1カ月に読んだ本の数やスマートフォンの利用時間と読解力の相関はみられなかった。本当だろうか。
 ▼作家の丸谷才一さんは、あるエッセーで訴えていた。「読書の訓練、作文の訓練は、テレビ時代、さらには携帯電話時代になればなるほど重要なんです」「土曜日を休みにすることを廃止しても日本語教育に力をいれなきゃならない」。エッセーのタイトルはずばり、「日本語があぶない」である。

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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中3に英語テスト 19年度実施/「祖国とは国語だ」シオラン/「無機的な、からっぽな、経済大国」三島由紀夫 
 神戸新聞 2015/6/5 09:35
中3に英語テスト、19年度実施 読む・聞く・書く・話すを測定
 文部科学省は5日、中高生の英語力向上や英語教育改善を目指す「生徒の英語力向上推進プラン」を公表した。中3を対象にした「読む・聞く・書く・話す」の4技能を測定する全国的な学力テストを新たに実施することを盛り込んだ。学力テストは2019年度以降、複数年に1回、全員参加での実施を検討する。
 文科省は、英検など民間の資格・検定試験は受験料がかかることや、4技能をみる試験が少ないことから、生徒の英語力把握のためには、国が主導する学力テストの導入が必要と判断した。高校生についても、19年度開始予定の高校基礎学力テストなどで、4技能を測ることを検討する。
 ◎上記事の著作権は[神戸新聞NEXT]に帰属します 
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〈来栖の独白〉
 グローバルなどと云われる時代。英語ぐらいは日常会話で話せなければ国益を損ねる、ということか。
 私は趣味で能楽を鑑賞するが、普段に詞章を読んでいて痛感させられるのは、謡曲とは古典の教養がなければ到底理解できない、愉しめないということである。文学(古典)のみならず、歴史(日本、中国)にも通じていなければ理解できない(愉しめない)。また装束・面などについても、その決まり事や鑑賞眼が生半可では理解できない(愉しめない)。
 「能」を理解することは、日本・文化を深いところで理解することのようだ。かつて森喜朗元総理だったか、日本を指して「天皇を中心とする神の国」と言って愚弄されたが、謡曲に流れている精神風土は「天皇を中心とする神の国」といってもいい。「神」(初番目物=脇能)がいるから、「鬼」(五番目物=切能)もいる。このことの理解できる国民がどれくらいいるだろう。
 英語力向上は時代の要請であるのだろうが、自国の文化をろくに知らない人々が圧倒的に多いと思われる日本の現状を思う時、私は不安に駆られないわけにはいかない。国家、国民のアイデンティティとは「国語」、その国固有の文化であると考えるからだ。「祖国とは国語だ」とルーマニア出身の思想家シオランは云い、かつて三島由紀夫は「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と云った。
 国(文科省)には青少年が自国のことを知るための方策を出して戴きたいが、望めないことだろうか。知能は一級だろうけれど、知性・教養を兼ね備えた文科官僚が果たして幾人おられるのか。
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「祖国とは国語だ」…ルーマニア出身の思想家シオランの言葉である。 2006-04-14 
韓国 “知の崩壊”が進んでいる ハングル至上主義で漢字を忘れた韓国人は「大韓民國」が書けない 2013-07-27 
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【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】三島由紀夫…「からっぽ」な時代での孤独 先崎彰容
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『約束の日 安倍晋三試論』小川榮太郎著 幻冬舎文庫 平成25年7月20日 初版発行
 (抜粋)
p211~
 負けを承知で戦いに挑む真の勇者の「弱さ」、いわば高貴な「弱さ」である。
 おそらく、同質の「弱さ」を抱えながら、「どのような勇者もしり込みするような責務を引き受け」る首相として登場したのが、安倍だった。三島由紀夫の切腹は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって、文学者の狂熱から救われ、穏当で希望に満ちた政治言語化された。小林秀雄の『本居宣長』の静かな思索は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって、書斎から解き放たれ、初めて政治言語化された。江藤淳の「戦後の言語空間」批判は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって政治日程に乗り、初めて政治言語化された。
 安倍は、このように、日本を高い精神的位相で守ろうとした高貴な血脈に連なっている。平成の日本人には極めて稀な資質だ。政治家であれば尚更、例外中の例外だろう。安倍が、幹事長時代、小泉内閣メールマガジンの編集後記に次のように書いた時、それは、そうした自覚の宣言でもあったはずである。

 先週この欄で取り上げた吉田松陰が処刑されたのは旧暦で10月27日、新暦でいえば11月25日です。
 この日を選んだかどうかは議論のあるところですが、同じ日に三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決しました。彼はその年の7月7日付の産経新聞に『私の中の25年』という論文を寄せ、将来の日本の姿を次のように予言しています。
 「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」
 31年経った今、この予言があたっていたかどうかではなく、21世紀の日本をどうするか議論して行きたいと思います。(「小泉内閣メールマガジン」平成13〈2001〉年11月29日号)

 安倍が引用しているのは、「果たし得ていない約束---私の中の25年」の有名な一節だ。「私の中の25年」とは、言うまでもなく戦後の25年間を指すが、三島はこの論文で、その25年を全面否定している。

 25年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透(p213~)してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
(略)
 気にかかるのは、私が果して「約束」を果して来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められているのである。

 そして、11月25日こそが、正にその「約束」の日となる。安倍が言及しているように、三島の「約束」の日(旧暦でいえば10月27日)は、松陰の命日でもあった。
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2 コメント

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古典 (あやか)
2017-11-30 09:05:16
日本の言葉と文化は、正しく受け継いでいきたいと、つくづく思います。
宥子様は、『お能』についても、たいへん詳しいと拝察します。
私のいえでも、祖父や曾祖父は、能の謡曲(うたい)を趣味にしていました。
昔の日本人は、みんなたいてい謡曲は歌えたらしいです。足利将軍や織田信長が保護したからでしょう。
もっとも私は、残念ながら、あんな、おなかからふりしぼるような声はでません。

高校の古典の教科書に、お能の『隅田川』という物語が掲載されてました。誘拐された我が子『梅若丸』を探して放浪する
母親の物語です。
たしか、イギリス人の音楽家が、この物語に感激して西欧化したオペラを作曲した、とか聞いたことがあります。
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Re:古典 (ゆうこ)
2017-11-30 10:41:39
 嬉しいコメント、感謝です。
『隅田川』、胸に迫りますね。狂い笹を持って・・・。
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