「こころのよくてころさぬにはあらず」(歎異抄)と『イエスの涙』

2009-10-31 | 仏教・・・

〈来栖の独白〉
 過日、ある若いご婦人からお手紙を戴いた。家庭の問題で、苦しんでいらっしゃる。御夫君が厳しい方で、郵便物全般から買い物の詳細に至るまで検閲なさる。郵便物については差出人が異性であるというだけで立腹するし、買い物も余分なお金は持たせてもらえず、買ったものは夫君のチェックが終わるまでレシートを捨てることが出来ない、そういったことが綴られていた。一日一日がどんなにお辛いことだろう。このようなご夫君のもとでは、奥様は、何一つお出来になれない。ご自分の考え・判断で行動することができない。お子さんがまだ幼いそうだが、成長に伴って養育の問題が生じるだろう。夫婦でも価値観や人生観、理想が異なることは、当然のように有る。
 幸い、私は心広く優しい夫に恵まれ、悪名高い死刑囚と養子縁組してしまうほど気儘に生きることが出来た。死刑囚勝田清孝が入籍した藤原家の、私は一人っ子であった。これがもし、私に兄や弟でもいて、彼(ら)が実家に世帯を構えていたなら、清孝を入籍させることなどできなかったろう。その程度のことは、養子縁組時にも、気付いていた。
 しかし、上述のご婦人からの書簡により、根本から考えさせられた。親鸞は『歎異抄』のなかで次のように言う。
 「こころのよくてころさぬにはあらず」
 人の心が善いから殺さないのではない。それは「業縁」のなせるわざである、と。
 五木寛之氏は「人間というものが、状況と行動のはざまにおいて、常にぐらぐらと不安定な、おそるべき存在である」と言われる。換言するなら、人は状況次第でどのような悪行でも行える、と言われるのである。更に突き詰めて極論するなら、人間はすべて悪人である、悪を抱えている、そういう存在である、と。
 私が人を殺さなかったのも、心が善かったからではなく、たまたまそういう状況に立ち至らなかったからにすぎない。また、死刑囚を弟に迎えたのも、私が何か働きかけたり頑張ったりしたゆえではなく、たまたまそういう環境に身をおいていたからにすぎない。上述のご婦人の家庭環境であったなら、死刑囚と手紙の遣り取りすら不可能だったのだ。
 ことほどさように、自らの力によってどうこうできることは、実は皆無である。そう思い至ったとき、歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悲苦の深いものから救われる)の弥陀の本願が無上に有難く感じられたのである。判断基準は、行いの「善」「悪」ではない。悲しみ・苦しみの深さである。悲苦に悩む人をこそ、弥陀は憐れんで救ってくださる・・・。

  

 ところで、『イエスの涙』を読み終えたのは2009年10月21日Wed.である。この本を購入するに至ったのは中日新聞下段のコマーシャルを見たのがきっかけだった。「自らの意思に反して、十字架を見ると吐き気を催す修道女。世界中で起りはじめた十字架嫌悪シンドローム。日本人のシスターと神父、そしてローマ教皇が(略)」とあって、思わずネットで注文した。すぐに「なんだ、これ、フィクションじゃないか」と気付き、後悔した。届いたときには読む気は失せていたが、「1900円+消費税」という価格が癪で、読んだ。何日も置くと読む気が失せると心配して、直ぐに読みにかかった。予想に反して面白くて、読めた。それなりに完成度も高い。
 以下、抜粋。

p74~
 「神はなぜ、自分にこのような苦しみを与えられるのだろう?」
 忠一には、キリスト教を学び、それを信じて努力してきた日々が、まるで無駄であったかのように感じられた。
 そんな気持をある日、彼を見舞いに来てくれた南田神父に正直に打ち明けてみた。神父は目に涙を浮かべながら、何も言わず、忠一の話をだたじっと聞いてくれた。そして去り際に一言だけ語った。
 「私でさえ、あなたのことを思えば心が痛く、つらく、そして悲しいのです。ましてイエス様なら、私よりもずっとあなたの苦しみをご存知です。そして心を痛め、悲しんでおられます」

 この一節は、私自身悩んだ日々を思い返させた。勝田清孝との日々、勝田からの苦しい問いかけ(彼は問い掛けたのではなく自分の気持ちを披瀝してみせたにすぎないのだろうけれど、私には何れも重い問題提起のような事柄だった)に、切実に悩み、考え込んだ。例えば、彼の40回目の誕生日に際し、彼にどのように対すればよいのか、私は悩んだ。勝田という存在の故に八人の命が喪われていたし、命は拾ったものの後遺症に悩む被害者、破壊された家庭があった。悩んだ末に、私は以下のような手紙を勝田に送った。 

 勝田様が、四〇年まえに生まれられたということ、そして今日生きておられるということ。それが神のご意志であると信じますゆえに、私には尊い、尊いのです。私のように小さな、塵のような人間が、これほどに勝田様を思い、御身を案じているのなら、四〇年まえ勝田様を造り、今日一瞬一瞬を生かし保っておられる御方は、どれほどに勝田様を心に掛けておられることかしれません。

 (本日、ここまで。追記するかもしれない)


2 コメント

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Re:マリアの涙 (ゆうこ)
2011-02-24 21:50:27
nokoさま
 コメント、感謝です。
 ペルゴレージの「スターバト・マーテル」、悲劇的で美しい曲です。マタイパッションやモーツアルトのレクイエム・・・そのような曲に出会うために私は生まれた、この世に生まれる意義はそういうところにあるのではないか、と思うことがあります。それら(神からの賜物)は飛翔して既に音楽ではなくなり、我々を天上へ誘ってくれる、そんな気がします。
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マリアの涙 (noko)
2011-02-23 21:06:27
はじめまして。

 以前、ブログを拝見して、「イエスの涙」ピーター・シャビエル著を読みました。心に沁みこむ文章が多々ありました。

 昨年、インテルとマガジンハウスのコラボによる「あなたを作家にするプロジェクト」で、応募総数8442点から選ばれた最優秀作品!「マリアの涙」を読みました。

 ペルゴレージ作曲のスターバト・マーテル(悲しみの聖母)の詩が胸をつきました。
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