実質審理が終わった。次回公判は10月18日に検察側、12月4日に弁護側の最終弁論がある。来春早々の判決言い渡しだろう。
最高裁は2006年6月20日判決言い渡しの中で、次のように結んでいる。
“刑訴法411条2号により原判決を破棄し,本件において死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情があるかどうかにつき更に慎重な審理を尽くさせるため,同法413条本文により本件を原裁判所に差し戻すこととし・・・”
22人の弁護団結成により、事実関係に於ける、ある程度の見直しがなされたと思う。新たな証拠採用も、なされた。事件の真実、ひいては被告人の真実を知りたくて私は、『2006光市裁判』(インパクト出版)を読み、拙HPに転写upするという作業をした。HPを訪れてくださった多くの方が事件の真相に触れ、被告人の心の片鱗に出会ってくださったのではないかと思っている(拙HP及びブログへ、日々大量のアクセスがある)。
遺族本村氏は、意見陳述の中で次のように言う。
「そして、君の犯した罪は、万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない。
私は、事件当初のように心が怒りや憎しみだけで満たされるわけではありません。しかし、冷静になればなるほど、やはり妻と娘の命を殺めた罪は命をもって償うしかないという思いを深くしています。
人の命を身勝手にも奪ったものは、その命をもって償うしかないと思っています。それが、私の正義感であり、私の思う社会正義です。そして、司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義はないと思っています。
私は、妻と娘の命を奪った被告に対し、死刑を望みます。
そして、正義を実現するために、司法には死刑を科していただきたくお願い申し上げます。 」
>万死に値する
>自らの命をもって罪を償わなければならない
>命を殺めた罪は命をもって償うしかない
>その命をもって償うしかない
>死刑を望みます
>死刑を科していただきたくお願い申し上げます
私は法律家でもないので、永山基準等については触れない。また、既に故人となった死刑囚の姉という立場からも、述べない。裁判を傍観してきた一市民としての感想を、少しだけ述べることをお許し戴きたいと思う。
「命には命で」と言われれば、一見合理性があるように思う。一死を以って詫びるなら、それも意味のあることなのかもしれない。
が、しかし、命で以って償えるだろうか。償うとは、原状回復させることだ。喪われた命を再び取り戻すことだ。が、それだけでは、原状回復とは言えないのではないか。時間をも含めて環境一切を元に戻し、且つ現状をも併せ持つこと。人には、このような償いは、できぬ。人は、詫びることしかできない存在ではないだろうか。
「詫びることしか」と書いたが、心のすべて、存在のすべてを傾けて詫びること。これは価値あることだと思う。
本村氏の言葉に接し、寂しくてならない。
人は、愛のためならわが身を顧みず死ねる。子のため、友のため、つまり愛するものを守るためなら、人は死ねる。航空機の墜落が予感され自らの死が目前に迫ったときにも、後に遺る愛する人のために感謝の心をメモに綴った人がいた。自らの死を超えて、愛する人への思いに心を満たした。「償う」ことなどできない無力なものだけれど、人は、そのようなものでもある。
希望のためでもなく愛のためでもなく、喪わせた命のために自らの命を諦める・・・。私のような意気地のない者には、こんな荒涼とした風景は、侘しくて、切なくて、堪えられそうにない。
待ってあげてほしい。被告人が、愛のために死ねるようになるまで。被告人は絶えざる渇愛のなかに育った。いまだ愛を知らない。
悲しくてならない。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/8459f67318d2be5dbbe8fde7724fcd09
被告人も被害者ですね。今であれば保護されるべき児童だったのです。情状される点でしょう。
こうした事件では遺族は被告人に極刑を望みます。被告人の死を持ってしても遺族の哀しみは消えないでしょう。被告人も生きていれば、その罪から逃げる事なく向き合い続けなければなりません。
いつか社会に出てくる日がくるかもしれません。池田小事件後その為に医療観察法ができたのです。
この世論でこれ以上退しないことを願うばかりです。
真の反省というのでしょうか、心から詫びるということ、人の命の大切さを知るということ、それは人の愛というものを知らない限り無理だと思います。
死刑囚とは全く立場の異なる方々ですが、私は日々人の臨終に立ち会っております。死に接して人の心は様々です。運命を恨み尽くして死にゆく方、死が近づく程に穏やかになり私たちに希望をもたらして下さる方、しのび来る死を否認したまま亡くなる方、その心は様々です。そして万人はほとんどの場合自分の意志と無関係に、いつか必ず命絶えます。その点で「命を強制的に奪う」ということは本当に「詫びる」という点で意味のあることなのか疑問です。死刑が決まろうとも、罪と向き合えない方もいるでしょう。「死の恐怖を感じることに意味があるのだ」と話す方もいるかもしれません。でも、人は「いつか命を差し出す定めであること」を否認したまま、死の直前まで生き続けることも可能でしょう。
被告にとって本当の苦悩が始まり、心からのお詫びを言葉にすることができるのは、人の愛を知ってからだと思います。愛を知らずして、「愛する人の命を奪われた苦しみ」を真に理解できることはないのでしょうか。
私にもまだ小さい子供がいます。園で遊ぶ彼らの笑顔は、太陽のようです。この世に生を受けたその時、人は皆等しく天使のように清らかで、人生への希望に満ちていたはずなのに。
そのかつての天使達が、なぜ人の命を奪うこととなるのか、なぜ人に命を奪われる運命となるのか、なぜ人の命が奪われることを激しく願わずにはいられなくなるのか。
私はこの事件に関しては単なる傍観者にすぎません。具体的に何ができるというわけでもないでしょう。ですが、いつか、本当の救いが両者に訪れることを願ってやみません。
「命の重さ」…これは言葉にしたところで、現実の人の命の前では、余りに空疎な響きなのかも知れません。それでも命の重さというものを語りたいと思う者です。
この世には、生きたくとも手の施しようも無く、若くして不治の病に亡くなる人々がいます。そこに無念というものがあると想像する時、私は、誰の手にも掛からねば生き続ける事の出来る健康体である人の命を奪う事は、いかに冒涜的であるだろうかと思うのです。犯罪で人の命を奪うのは勿論のこと、罰として人の命を奪うことも同様です。命の灯を、人の手によって無理やりに消すことは、すべてが命への冒涜であり、そう理解することが、真に命の重みを知ることであると私は考えています。
犯罪者に対しては、再犯の可能性を考えねばならぬ場合もあります。しかし、それを防ぐ手立ては、命を奪う事だけではありません。如何ようにも考えられるはずなのです。
今、まさに人を理不尽に殺めようとする者を制止する為に、それを避けることが出来ない場合はあるでしょう。しかし、その場合を除き、「人の手によって人の命が奪われる事のすべてが罪である」と考えない社会は、所詮、人の命の重さというものを履き違え続ける社会だと思うのです。
私は、重い罪を負うからこそ、その人には命のある限り生きて、本当の生きる喜びに出会って欲しいと思います。その時こそが、自分の罪の重さと、それによって幸せを奪われた人の悲しみが本当に解る時だと思うからです。勿論、その時は永遠に来ない事もあるでしょう。それでも、命ある限り生きて、少しでも人の愛情に出会おうとして欲しい。見つけられなければ、その事の苦しみを感じ続けて欲しい。感じる事が出来ないのなら、生きる事の一方にある虚しさと惨めさの道程を、命ある限り、身をもって社会に残して欲しいと願います。
コメント、ありがとうございます。
法的なことは別に、空しく感じてしまったことをエントリーにしました。
砂漠に慈雨のようなやさしいコメント、心に沁みました。
読んで戴いている事にも、深謝しています。
これからもよろしくお願いします。(書き直しました)
読んでいただいて、ありがとうございます。お心こもるコメントも、嬉しく拝見させていただきました。
この裁判、多くの人々にとって未だ真相への理解に至っていないように思いますが、騒ぎつくしたようにも感じます。そろそろ一人ひとりが別の切り口を持ち、考える時期ではないでしょうか。
何と“美しい”言葉でしょう.....。
想像ですが、本村さんは、現前の被告への憎悪を増幅させることで、奥様、お子様への愛情を現存の確固たるものとして確認されているように感じます。
少し前の記者会見で、「(妻子の)声や顔を忘れることがある...」と告白されていましたね。 あの掛け替えの無い、燦々たる幸せな日々が、心の中で、鮮烈を失い、色褪せ始めている、これを自覚してしまった時の、悲しみ、自戒の念は如何ほどだったでしょう。
妻子への愛を減衰させぬため、被告への憎悪を必要としている自身への嫌悪、情けなさも有るのではないでしょうか?
以前のコメントでも述べましたが、この社会は、世界は難しすぎます...。
>待ってあげてほしい。 被告人が、愛のために死ねるようになるまで<
何と“美しい”言葉でしょう.....。
想像するしかないのですが、本村さんは現前の被告への憎悪を増幅することにより、愛しい奥様、お子様への愛を現存のものとして再確認されているのではないでしょうか?
少し前の記者会見で、妻子の声、顔を想い出せない事が有る、と告白されていました。 その時の自責、自戒の念は如何ほどだったでしょう。 愛はこれっぽちも減衰していないのに、燦燦たる光の記憶は鮮烈なままなのに、顔が、声が想い出せない、神は何と残酷な刹那を用意するものか、と信仰を持たぬ私も言葉を失います。 被告は未だ、この酷薄のもたらす心の地獄を認識していない。
福田孝行の薄汚い欲望のためだけに、命を奪われた被害者には、何の感情も持たず、配慮もないとは、あなたは、すばらしい人格者ですね♪
ちなみに、「喪わせた命」ではなく、「自らの欲望の犠牲にした命」ですよね?
こちらこそ、ありがとうございました。ゆうこさんのメッセージ、しっかりと受け止めたいと思いました。
思えば私自身、この裁判に関して違和感を覚える報道があれば、ただ人の胸を借りては一方的に疑問をぶつけることばかり繰り返したものでした。
今しばらくは、自分に見極められる事、そして簡単には見ることのできない事というものを意識しつつ、少しでも落ち着いた気持ちで考える時を持ちたいと思います。
ところで、私のコメントを読み返してみて、表現力の稚拙さゆえに誤解を招き、人を傷つけてしまわないかと思われる箇所がありましたので、その旨、改めて今、書かせていただく事をどうかお許しください。
”誰の手にも掛からねば生き続ける事の出来る健康体である人の命を奪う事は”の部分。
「誰の手にも掛からねば生き続ける事の出来る筈の、今この時に有る命を奪う事は」とした方が、より適切に私の意を伝える事が出来たかと思います。
何だか、またしてもくどくどと成ってしまいました。それではこの辺りで失礼させていただきます。
恐縮です(汗!)
>表現力の稚拙さゆえに誤解を招き、人を傷つけてしまわないかと思われる
>何だか、またしてもくどくどと
いえいえ、とんでもないです。
書くことは、難しいことですね。エントリーは、書き直しが幾らでもできますけれど、コメントは、一旦書いて「投稿」をクリックしたら、もう手が出せないのです。気に入らなければ削除するしか変更の方法がありません。ちょっときついですね。でも、それに懲りずに、よろしく、です♪ ありがとう、です。