苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。

2007-05-20 | 日録

中日新聞【社説】
高瀬舟の昔からの課題 週のはじめに考える
2007年5月20日

 「苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか」-森鴎外の短編「高瀬舟」のテーマは安楽死・尊厳死。ますます今日的問題となってきました。

 「妻が体のことを心配してくれるのはいい。いつまでも働いてもらいたいのだろうが、自分の最期ぐらいは自分で決めたい」。団塊世代の友人たちから、そんな切ない願望が聞こえるようになってきました。自分の最期をどのように迎えるのか、そんな決断をしなければならない時代になってきたともいえます。

臨終は病院になった
 死をめぐる最大の変化といえば、自宅から病院・診療所へと、臨終場所の変化でしょう。かつては近所の開業医に看取(みと)られながら自宅で死を迎える人が八割を超えましたが、一九七六年を境に逆転、現在では病院・診療所で臨終を迎える人が八割を超えるようになりました。

 厚生労働省の調査だと、今なお六割を超える人が自宅での死を願望していますが、希望を叶(かな)えることができるのはそのうちの一割、ほとんどの人が家族への気兼ねから病院での死を選ぶようになっています。

 亡くなる人が全国で百万人を突破したのは二〇〇三年、団塊世代の高齢化などによって毎年増え続け、三八年に百七十万人のピークに達すると見込まれています。

 臨終場所が治療施設が整った病院になったことで、いつ、どんな形で最期を迎えるべきか考えておくことは現代人にとって必須要件になったといえ、安楽死や尊厳死も身近な問題として浮上してきました。

 現代の延命医療は、意識を失い植物状態になったとしても、呼吸器の装着や栄養補給によって、半永久的に体は生きつづけさせることができます。そこまでして生かされたくないという自らの尊厳への思いや家族の心理的経済的負担を取り除くために、延命治療は望まないという人は少なくなく、生前に意思表示(リビングウイル)しておく人も増えました。

 日本尊厳死協会の会員も毎年二千-三千人ずつ増え、現在は十二万人。(1)無意味な延命措置を拒否する(2)苦痛を最大限に和らげる治療を(3)植物状態に陥った場合、生命維持措置をとりやめる-の生前の遺言書を発行しているとのことです。

 安楽死も尊厳死も医学的に助かる見込みのない状況下で延命治療の中止などで人為的に死を迎えさせることは同じですが、安楽死は患者本人に意識があり、尊厳死は患者本人の意識が失われたケースです。

死は安らかとはいえない
 安楽死・尊厳死問題が深刻な事態になるのは、現実の死がしばしば家族の思いを裏切るからだそうです。家族の願いとは裏腹に、死は必ずしも安らかでなく、家族たちの覚悟も吹き飛ばしてしまうことがあるようです。

 妻で作家の津村節子さんが明らかにした昨年七月三十一日未明の作家吉村昭氏の死の内容は衝撃でした。

 膵臓(すいぞう)がんで闘病中。点滴の管やカテーテルを自ら引き抜き延命治療を拒否した吉村氏の死は壮絶でしたが、津村さんは「自分の死を自分で決めることができたのは、彼にとっては良かったかもしれない」。その一方で「あまりにも勝手な人」の言葉を残しました。死は容易に受け入れられるものでなく歳月をかけて納得させていくべきものなのかもしれません。

 「高瀬舟」の京都町奉行配下の同心・羽田庄兵衛が「それが罪だろうか」と疑問を起こしたように医師が刑事責任を問われるケースも出てきました。昨年三月、入院患者七人の死亡が発覚した富山県・射水市民病院の事件では、担当医師の治療中止行為が殺人罪に問えるか、捜査が続けられています。

 羽田庄兵衛が「自分より上のものに判断を任す外ない」「オオトリエテ(権威)に従う外ない」と判断基準を求めたように、事件を契機に、国や日本救急医学会などによって終末期医療に関するガイドラインづくりが試みられています。

 東京高裁は、ことし二月の川崎協同病院事件の判決で「尊厳死の問題を抜本的に解決するには法律の制定かこれに代わるガイドラインの策定が必要」と呼びかけました。

 刑事責任追及に委縮する医師や医療現場を叱咤(しった)する意味もあったようです。

究極は医師の勇気と判断
 森鴎外が高瀬舟を雑誌に発表してからほぼ九十年。安楽死・尊厳と終末期医療についての指針づくりは、時代と社会の要請になりました。医師は刑事責任を問われることなく、患者、家族は安心して医師に任せられるガイドラインづくりです。

 しかし、指針はあくまで参考でしかないはずです。人それぞれに生と死があり、どんな治療がベストか決めるのは究極のところは医師の勇気ある判断でしょう。

 それに委ねることができる人間的にも信頼できる医師であってもらいたい。「喜助」の頭からゴウ光がさしたように。

----------------------------------------------------

 私の姑は本年3月17日に逝った。90歳だった。加齢による複合した病気があり、嚥下性肺炎もあって、管に繋がれた。ひと月以上、危篤の状態が続いた。肩を上下させて息をした。意識は無いので痛みも感じていないでしょう、と言われたが、私にはそんな風にはどうしても思えなかった。

 死に際し、「御母さん、『楽になった』って仰っているわ」と私が言うと、夫は深く頷いた。「楽になった」、これが母親を見送った直後の夫の気持ちを救った。

 昨年から、予断を許さない状態が続いていた。命の在り処である身体は小さく小さくなり、苦しみの源だけのように感じられることもあった。ただただ痛々しかった。

 そのような姑を目の前にして、これがいずれ私のゆく道だろうかと思ったとき、たじろがないわけにはゆかなかった。恐ろしかった。若く力に溢れる日を恵まれ与えられたのなら、老いて病を養う日をも甘受しなくてはならないのかもしれない。そうすることで、わかるものがあるのかもしれない。

 命の息を吹き込み、やがて取り去ってくださるのは、大いなる御方御一方のみであろう。そう思っても、恐怖が先に立つ。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。