検証・裁判員制度:判決100件を超えて/3 公判前整理手続き、証拠を厳選
◇弁護の武器?足かせ? 重み増す、裁判官の訴訟指揮
「今までの裁判官は起訴状を見たら有罪と思っている。それを早い段階で少しでもこちらに(被告に有利に)戻すのが、公判前整理手続きです」。11月14日、東京で開かれた法律家団体の集会で、村木一郎弁護士は、さいたま地裁の裁判員裁判の弁護人を務めた経験を踏まえて、強調した。
公判前整理手続きは初公判前に裁判官、検察官、弁護人が集まり、証拠や争点を絞り込む制度。裁判員裁判では、法律知識のない裁判員に限られた時間で理解してもらう立証が必要となり、05年11月施行の改正刑事訴訟法で導入された。
弁護側には「検察側は、被告に有利な証拠を隠す」と不信感が強かったが、同法に証拠開示の規定が設けられ、検察側の証拠が有利・不利を問わず、弁護側が入手しやすくなった。村木弁護士は「弁護人に武器が与えられた」と評価する。
しかし、逆に足かせもある。公判前整理手続きの終了後に、新たな証拠を裁判所へ提出しようとしても、「やむを得ない事由」がなければ、原則認められない。この制限も審理の迅速化のためだ。
これを巡っては法廷で分かりづらい運用もみられる。9月29日からの4日間、福島地裁郡山支部で審理された殺人事件の裁判員裁判。弁護側が男性被告による遺族へのわび状を新たに証拠採用するよう求めた。裁判長は認めなかったが、検察側が請求した前科を示す書面については採用した。いずれも裁判長は公判前ではなく審理が始まってから証拠提出する理由を法廷では尋ねなかった。
傍聴していた五十嵐二葉弁護士は、対応が分かれた訴訟指揮を不可解に感じた。「理由が分からない。(制度が)全く機能していない」と批判する。
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今月4日、奈良地裁で、強姦(ごうかん)致傷事件の公判前整理手続きが行われた。101号法廷の傍聴席には、被害者の女性の代理人を務める女性弁護士が座り、裁判官や検察官、弁護人らのやり取りに聴き入った。質問はできないが、裁判長から被害者の意向について尋ねられることもあり、「それで結構です」と受け答えしていた。
刑事裁判への被害者参加制度は、被害者や代理人の弁護士に、公判への出席を認めている。しかし、公判前整理手続きに出席できるという規定はない。あるベテラン弁護士は「東京地裁の裁判官から『出席は認めない』と言われた」と明かす。奈良地裁の措置は異例とも言える。
非公開の公判前整理手続きで争点から除外された事実関係は、公判段階で明らかにされることはなく、被害者からは「事件の全容を知ることができなくなるのでは」との声も上がる。今回公判前整理手続きに出席できた女性弁護士は「争点整理などの経緯がすべて分かり、十分理解した上で被害者に説明できる」と評価する。
しかし、慎重論も根強い。被害者参加制度の創設に向けた法制審議会刑事法部会では「(被告が否認し)被害者が重要な証人になるような時に証拠を見てもらっては困る」と公平性を懸念する意見が出された経緯もある。
今後、出席を希望する被害者代理人が増えることも予想され、運用や制度のあり方が問われる。=つづく
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◇被告本人の出席も可
公判前整理手続きは、裁判員法施行(5月21日)に先行して導入され、裁判員裁判の対象でない事件についても、裁判所が検察側や弁護側の意見を聞いた上で適用することができ、経済事件などでも用いられている。非公開で行われ、被告本人の出席も認められている。
◇被害者参加制度
刑事裁判への被害者参加制度は、08年12月の改正刑事訴訟法施行で導入された。対象事件は殺人や傷害致死、性的暴行、交通死傷事故などで、裁判員裁判の対象事件と重なるケースもある。被害者や遺族、代理人の弁護士が、検察官を通じて裁判所に参加の意向を伝える。許可されると、法廷では検察官の隣に座り、被告らに質問できるほか、検察官とは別に求刑を意見として述べることができる。 毎日新聞2009年12月21日 東京朝刊
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◇ 実は、新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです=安田好弘弁護士
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◇ 【『年報・死刑廃止2009』インパクト出版会2009年10月25日第1刷発行】より
そして被害者です。本当に被害者は気の毒だと思います。たとえばこの前の名古屋の事件でも、親子二人、お母さんと娘さんで暮らしてきて、それで娘さんが殺されるわけです。落ち度があるわけでもない、何をやったわけでもない。犯罪というのは本当に理不尽の凝縮の場所なんです。
それを見たときに、だれであろうと、これは死刑しかないということになりかねないわけです。というのは、私たち法曹の同僚を見ていても、そういう現場を、写真を見てしまうと、死刑しかないな、死刑が容認されるという発想にどうしてもなってしまう。裁判官であっても全く同じです。これが、裁判員であるからといって、変わることはないと思うんです。
池田 でも、そういうのと向き合っていかない限りだめなわけですよね。つまり裁判員制度を突破できないというのがあって。
安田 そうです。そこからすると弁護士の力量の弱さが目立ちます。被害者の訴えを超えて、裁判員を説得するだけの力量がないわけです。もちろん、検察官も裁判官も同じですけれど、被害者が何を言おうと自分の確信に基づいて求刑し、また判決を出すだけの力量がないわけです。被害者を制するとか説得するとかそういうことが、堂々とできる、それくらいの自信と能力と権威を持っている人たちがいないわけです。法曹全体の力量が、あまりにも弱すぎますね。
今、日本で死刑判決を受けている人たちが、あるいは死刑が確定している人たちがどれだけまともな裁判、まともな弁護を受ける機会があったかというと、ほとんどないに等しいと思いますよね。これはちょっと僕自身の思いこみかも知れないけれども。岩井さんはどうです?
岩井 状況としては、さっきも言いましたが、今、刑事裁判では法廷の中に、検察官だけではなくて、目の前に被害者の母親とその母親の代理人の弁護士がいる、それは圧倒的な一つの大きな存在としてあります。死刑事件のときに、どのような言葉で、どのような弁護をしていくのか、弁護人としては難しい問題を感じています。
安田 弁護人自体が被害者に気後れしてしまいますね。ましてや被告人が言えることといったら何だろうか。新しく行われているのは、裁判員裁判ではなく、裁判員プラス被害者参加裁判です。これを抜きにして、裁判員裁判だけを考えるのは、全くの間違いだと思いますね。
岩井 犯罪に対する適切な刑罰という議論以上に、感情に対してどうするかという、感情の問題があります。死というのは意味づけされるものです。美化され、非常に倫理的に語られる。それが法廷の中では、死刑という形で、死して責任を取るのか、生きて責任を取るのかという議論になってきたときに、犯罪に対する適切な刑罰としての議論とはかみあわなくなってきやすい。結局、死して責任を取るのが真の責任の取り方であり美徳として、日本の国家を支える責任原理として残っていく、そういう危険は確かに感じるんです。
高木 すでに2例あった裁判員裁判でも少し見えてきたかなというのはあると思うのですが、刑事裁判の大半は自白事件であって情状弁護でしかない。多くの死刑事件もそうですよね。そうなってみるとあとは量刑でしか争えませんから、量刑で検察官求刑よりも重い求刑を被害者、被害者代理人がするという状況になっていますから、これは大きく死刑の方向に引っ張られる可能性が高いわけで、裁判員も当然そっちのほうに流されざるをえない。これを弁護人が引っ張り戻すことができるのかといえば、安田さんが先ほどおっしゃられたように力として弱いわけです。当然、その裁判員自体は死に直面してそこでいろいろと考えざるをえないわけですけれども、その力の働き方についても、我々としては、こういう構造になっているんですよと見えやすい形で示していく必要があると思いますね。
池田 そうですね。それで岩井さんのお話をうかがっていて思い出したんですが、さっき言った、新聞で見ている限り、その躊躇の中に死刑判決を自分も下すのか、それはたまらないというのがあったけど、それはほとんどの文脈は冤罪に対する怖れなんですね。だからさっき安田さんがおっしゃったようなことが目の前に出たときに、そのためらいさえも飛んでしまうかもしれないですね。
岩井 最近、死刑についていろいろな立場の人が議論する会に参加する機会がありました。そこでは、凶悪な犯罪をしたのであれば死刑では足りない、餓死をさせるべきだという意見を言った人がいました。「餓死」という言葉を使ったんですね。犯罪者を餓死させるというのは、なかなか人前では、表だって出てこなかった言葉だったと思うんです。それが、何十人もいる前で自分の意見として話をする。それも冷静に「餓死」という言葉が出てくる。犯罪者に対しては、今まで暗黙のうちに言わないようにしておこうとという言葉でさえも決壊して、とめどもなく死刑という言葉にさらに意味づけをして、苦しんで死ぬべきなんだという言葉が、無造作に出てくる。インターネットなんかではよく見られる議論かもしれません。戦後直後の最高裁の死刑合憲判決では、さすがに、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでは残酷な刑罰と例示されていました。しかし、少し前のことになりますが、渋谷のハチ公の広場で、オウム真理教の指名手配者が提灯か何かに顔写真をはられて、頭上にその提灯が掲げられていたことを見たことがあります。まさにさらし首です。どんどん、残虐という言葉のリアリティが、決壊しているのではないか。
裁判員裁判のときに、目の前に被告人がいるというリアリティの中で死刑が言いにくくなるかというと、一方では、被害者遺族も法廷にいる中で、社会全体から裁判員としての自分が見られているという意識の中で、死刑に対して死をもって責任を取るという倫理的な形を示さないといけないと思われるのではないかと思います。
私は裁判員裁判のときには少なくとも全員一致制というものをきちんと導入しなおすべきだと思っています。人の命というものを過半数で決めていいのかという、その問いかけをしたいと思っているんです。
高木 それは両面あると思うんですね。結局、法廷というのは近代の産物といいますか、理性なり理論というものが支配していることになっているわけです。ところが被害者が参加することによって生の感情が剥き出しで露出されるようになってきた。当然一般市民も影響を受けますから、〈略〉
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