[確定死刑囚の処遇の実際と問題点]菊田幸一 (『年報 死刑廃止2010』)

2012-04-03 | 死刑/重刑/生命犯

『年報 死刑廃止2010』インパクト出版会

           

p132~
確定死刑囚の処遇の実際と問題点---新法制定5年後の見直しに向けて  明治大学名誉教授・弁護士 菊田幸一
 新法制定5年後(2011年)の見直しに向けて関係者からの情報が数多く寄せられている。筆者も、これまでに一般受刑者につき焦点を当てた詳細な報告をしているが、未決拘禁者をはじめ確定死刑囚の扱いについては特段の報告をしていない。本稿において確定死刑囚の扱いについて、新法制定とその後の実際について検討し、法見直しのための情報を提供する。
1 確定死刑囚の法的地位 
 確定死刑囚の法的地位に関しては、旧監獄法において、その第9条が「死刑の言渡しを受けたる者」は刑事被告人に適用する規定を準用する、としていた。監獄法の制定に参加した小河滋次郎は」、その著『監獄法講義』(95頁)において「死刑確定者は、その性質においても、未決被告人と同一の処遇をすべきであるとするのが文理に忠実である」、と述べている。事実、死刑確定者は、監獄法制定いらい、長年にわたり未決勾留者と同類の扱いを受けてきた。
 1963年に矯正局長通達「死刑確定者の接見及び信書の発受について」(以下「63年通達」)が出されたが、その後も死刑確定者は、未決勾留者なみの扱いを基本的には受けていた。
 ところが1970年代後半になって第1に、全共闘の闘士たちによる監獄改良運動、第2に、死刑確定者の再審無罪が相次ぎ、死刑制度に対する批判や疑問が多く出された、等の要因から63年通達が厳格に扱われるようになった。
 63年通達の骨子は、〔1〕本人の身柄の確保を阻害しまたは社会一般に不安の念を抱かせるおそれがある場合、〔2〕その他の施設の管理運営上支障を生ずる場合には、おおむね接見・信書の許可を与えないこと、としている。旧監獄法のもとにおいては、前述のように、監獄法第9条が別段の規定がなければ未決勾留者と同一の扱いをするものとし、死刑確定者について別段の規定がなかったので、「許可を与えない」ことが法理上有り得ないものとして批判されてきた。
 ところで、63年通達は、単に死刑囚の面会、通信の項目について、その制限を「身柄の確保」および「心情の安定」と結びつけて規定したものであるが、死刑囚の法的地位は、これらの課題だけで位置づけられるものではない。しかし旧監獄法において、確定死刑囚につき同法第9条以外に特段の規定があったわけではない。そこで新法制定の機にこれまでの、いわば法的不備の諸点を一挙に処理しようとしたかに思われる。
 しかし、法制定作業の過程は必ずしも納得できるものではなく、中身についても充分な論議を尽したものとは言えない。その根拠については後述するが、そもそも新法においても基本とされているのは、従前どおりの「身柄確保」と「心情の安定」であり、とりわけ抽象的用語である「心情の安定」が確定死刑囚処遇の基本原理となっている。その基本原理が抽象的であり原理にふさわしいか否かを含めて問題がありすぎる。そもそも「心情の安定」という情緒的用語が確定死刑囚の処遇の根拠とされていること自体が納得できるものではない。
 少なくとも旧監獄法下において「死刑囚の法的地位」は、「一種の受刑者ではあるが、行刑上の矯正の対象としてではなく、単に刑の執行を待つ者として在監中いわば高い法律的地位を認め、比較的自由な処遇を与える」(小野・朝倉『監獄法』86頁)という考えが一般的であった。
 ところが前述の63年通達において「罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるように配慮すべきであるので処遇に当たり、心情の安定を害するおそれとなる交通も制限される」とし、ここではじめて「心情の安定」たる用語が登場した。そして、この原理がその後の実務において確定死刑囚の処遇の制約の根拠とされてきた。
 これまでの、わが国の確定死刑囚の処遇が国際人権(自由権)規約第7条「非人道的なもしくは品位を傷つける取扱いの禁止」や第10条の「人間の固有の尊厳の尊重」に反するとする同委員会の勧告を再三にわたり受けてきたことは周知のところである。その根拠にあるものは、「心情の安定」からする死刑囚の扱いにある。
 非人道的扱いの根拠とされる、法によらざる単なる通達での「心情の安定」を新法において「死刑確定者の処遇の原則」(第32条)に法として盛り込むに至った。自由権規約第7条および10条の理念に逆らう処遇を合法とする危険がある「心情の安定」が、新法の施行後において、いかにその実際の処遇に現れているかを、ここに検証しなければならない。
2 確定死刑囚処遇の原則
 新法は、〔死刑確定者の処遇の原則〕において、その第32条で「死刑確定者の処遇に当たっては、その者が心情の安定を得られるようにすることに留意するものとする」と規定した。この条項の新設については2つの問題がある。
 第1は、前述したごとく、受刑者(とりわけ未決拘禁者)一般とは区別して「死刑確定者の処遇」を法的に独立させた条項を設けた点、第2は、「その者が心情の安定を得られるようにすることに留意する」という、「心情の安定」への積極的関与を法的に位置づけたことにある。
 第1の点については、旧監獄法下での位置づけについて若干の指摘をした。問題は、少なくとも、「心情の安定」については、63年通達において「面会・通信」に関する制約であった。ところが新法32条は、「死刑確定者の処遇の原則」のなかに「心情の安定」を位置づけた。このことにより面会・信書はもとより運動・入浴・居室、その他、死刑確定者の処遇の態様すべてにおいて「心情の安定」が支配し、その法的根拠を与えることとなった。すなわち従来の「単に執行を待つ身分」としての法的位置付けから、とめどなく死刑確定者の内心に至るまで「心情の安定」を根拠に侵入し得る根拠を与えるものとなった。
 第2点の「心情の安定」への積極的関与の可能性に関しては、安易にかかる法規定を許した点を含めて、その経過について稿を改めて述べておかなくてはならない。
3 「心情の安定」の制定過程
 新法制定までの長年にわたる、いわゆる刑事施設法立案の経過のなかで、もっとも重要な法案は、1982年に国会に提出された「刑事施設法案」である。
 その基本となったのは、1976年の「監獄法の改正の構想」であり、これにより法制審議会監獄法改正部会が審議を開始し、1980年に「監獄法改正の骨子となる要綱案」が公にされた。その要綱を基本として法務省が作成したのが「刑事施設法案」である。
 これを死刑条項について対照するならば、まず構想の段階では、「死刑確定者の処遇」について、「(44)死刑確定者は勾留施設に収容し、その処遇は、面会及び信書については、受刑者に対する処遇とおおむね同様とするものとする」とした。受刑者と同様に面会・信書が許されるのは、①親族、その一身上、法律上又は業務用の重要な用務の処理のため必要と認められる者、である。ただし、これ以外の者との面会・信書の発受は「死刑確定者の身柄確保及び心情の安定を害するおそれがないことが明らかなとき」に許す(法務省矯正局編「続・資料・監獄法改正」構想細目、109頁)としている。
 要綱では、おおむねこの構想を踏襲したが、構想では「心情の安定を害するおそれがないことが明らかなときは」としているに対し、要綱では、単に「心情の安定を害するおそれがないとき」とし、「明らかな」を削除している。これは「心情の安定」による関与を幅ひろく解釈することを伏線としたものと解される。ところが刑事施設法案においては、構想および要綱になかった「処遇原則」にこの「心情の安定」を掲げた。その結果として当然ながら面会・信書の発受だけではなく、その他の死刑確定者の処遇一般に「心情の安定」による制約が拡大されるに至った。その表現も「明らかに心情の安定を害する」から「心情の安定を得られるようにする」(法案15条)、または「心情の安定に資するため」(同117条、118条)となり、より積極的に施設側が死刑囚の内心にまで立ち入ることを可能にする根拠を与えるものとなった。
 新法においては、この「心情の安定」をどのように位置づけているか。法32条は「心情の安定を得られるようにすることに留意するものとする」とある。この「留意する」の意味は、これまでの「得られるようにする」、「資するため」とは異なり、単純な「意向」にとどまるものではなく、法的義務としてより積極的に関与する根拠を鮮明にし「心情の安定」が「権利制限原理」として作用することを法的に義務付けたものである。かかる原理が「死刑に直面する者」の原理として国際的にも違法であることを改めて確認しなければならない。
 このような新法における、いわば死刑条項の具体的法案作成がどのような経緯においてなされたかについて、筆者は不幸にして知らされていない。基本的には刑事施設法案を踏襲しているが、それ自体が法案審議会の検討を得たものではない。どのような経緯で法案が作成されたにせよ、これまでの死刑条項の法案作成の経緯から見て事実上、1980年らいの法案作成作業の積み重ねを無視したものであり、少なくても法制審議会の議を経ることなく作成された新法、とくに死刑条項は、手続き的にも問題がある。
4 新法における死刑確定者の問題点 (p135~)
 新法では、基本的には「被収容者の処遇原則」を死刑確定者にも適用する形式をとりつつも、死刑確定者につき別段の条項を設け、扱いを異にするという巧妙な法体系をとっている。というのは、一見するところ確定死刑囚も被収容者の範疇にあることを法体系のなかで位置づけながら、他方では、そのことごとくを「心情の安定」のもとに特殊扱いするものとしている。
 いわゆる被収容者一般については、すでに別稿で問題を提示したので、まず死刑確定者の特段の扱いに関する問題点について検討することとし、その後において被収容者としての条項の適用下にある死刑確定者が現に受けている異なる扱いの諸問題について検討することとする。
 確定死刑囚の扱いについて、差し当たり問題とすべき課題には、第1にこれまでに検討した「心情の安定」に関連する実務上の問題、第2に昼夜独居、第3に外部交通に関する面会・信書の扱い、第4に死刑囚の生活一般の問題、第5にその他に分けて、いずれも新法のもつ課題として検討されなくてはならない。実際的には、第1に、各拘置所などにおいて所長名の達示のもとに出している「死刑確定者処遇規定」(以下、処遇規則)あるいは「生活のしおり」等の文言の検討と、第2に、これら文言が現実の死刑確定者の日々の生活にどのように適用され、または適用されていないか、を検討しなくてはならない。
 ここで注目しておかなくてはならないのは、これら処遇規定なるものは、所長による単なる「達示」であり、法的根拠あるものではない。そこで処遇規定では、「確定者の処遇については、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律等の関係法令及び別に定めのある場合のほか、この規定に定めるところによる」として法によることを基本であるとしつつも、付随的に「この規定」によるものとしている。
 この点については、新法の「留意する」の文言の意味について前述したが、これら「処遇規定」は、法32条の「留意する」を現場の法的義務とするとともに、現場が制定した「処遇規定」が現場では最優先することを表明したものである。確定死刑囚の日常生活において、まず直接作用するものは、この所長達示等であることは、受刑者一般を含む日本行刑の基本であるところからもうなずけるものである。
5 「心情の安定」にかかわる課題
 新法における「心情の安定を得られることに留意するものとする」(32条)文言が実務においてどのように適用されているかであるが、手元にある札幌、宮城、東京、名古屋、大阪、福岡の各拘置所等の「死刑確定者処遇規定」によると、「収容の確保と心情の安定を図り、適切な処遇を行うことを目的とする」(札幌、東京、名古屋、福岡等)を骨子とし、あるいは、「心情の安定を得られるようにすることに留意し・・・」(大阪、広島等)とし、いずれも新法32条を基本にしている。
 しかし、これら「処遇規定」でが、「心情の安定」を根拠に、面会、信書の発受等に許否を判断することを規定する一方では、「心情の安定に資するため希望者には、居室内において映画等のビデオまたはテレビを視聴させることができる」(宮城、第5条ー4)、としつつも「確定者が購入する書籍、新聞紙等の購入手続及び居室内における同時所持冊数については、未決被収容者に準ずるものとする。ただし、心情の安定のため必要と認められる場合は、この限りでない」(同第八条)とし、「心情の安定」から、いかようにも制限することが可能であるとしている。
 このように「心情の安定」は確定死刑囚の基本生活のすみずみまで支配している。その判断基準は物理的に設定できる性格のものでないことは、これまでに縷々検討した。これが実務においてどのように実施されているかについては項を改めて紹介するが、「心情の安定」はつとに「内心」の問題であり、他人により判断される問題ではない。その意味で合理性のない「心情の安定」を基本とする新法32条は憲法19条に違反しているし、かかる「処遇規定」なるものは基本法の理念そのものを越えるものであり、特別権力関係の存在を明らかにしている点で見逃してはならない問題である。
 東京地裁平成6年12月13日判決では、「心情の安定を図る必要性については、拘置所長が死刑確定者の身柄確保の必要性又は拘禁施設の正常な管理運営、規律及び秩序の維持という拘禁目的を達成するために死刑確定者との外部交通の許否を判断する際の一要素となるに止まるものであって、それ自体が死刑確定者に贖罪観念を起こさせ、死を安らかに迎え入れる心境に至らしめることなどの積極的な拘禁目的を形成するものであってはならないことはいうまでもないことである」と判示している。
 これらを踏まえ、平成18年4月14日(衆議院法務委員会)、同年6月1日(参議院法務委員会)は、「刑事施設及び受刑者の処遇に関する法律の一部を改正する法律案に対する附帯決議」において、政府は、本法の施行に当たり、「死刑確定者処遇の原則に定められている『心情の安定』は、死刑に直面する者に対する配慮のための原理であり、これを死刑確定者の権利を制限する原理であると考えてはならないこと(を徹底すること)としていた。
 同年4月14日の衆議院法務委員会で参考人として出席した、当時の法務省矯正局長・小貫芳信氏は、「心情の安定は、こちらが主体的な確定者の思いに援助をしていく、ということで考えておりまして、これを制限根拠規定にしようというような考えはございません」と答弁している。
 ところで日弁連関係の資料(「日本における死刑制度--その問題点と改善の提言」資料11、46頁)によると(日弁連死刑執行停止法制定等提言・決議実現委員会、2008年3月25日第6回全治会議・資料)、「・・・『心情の安定』という文言は、従来とは全く異なり、、死刑確定者に対する配慮・援助のための文言として再定義されたうえで、新法に組み込まれた」と述べ、「心情の安定」が「権利制限原理」とは無関係な用語であるかの表現をし、法務省当局への無節制な迎合をしている。
 果たしてそうであるか。先にあげた法務委員会での矯正局長の発言から1年も経たない平成19年5月30日付「依命通達」では「死刑確定者の心情に与える影響等を考慮し・・・」とし、「心情の安定」を死刑確定者の権利制限の原理とすることを明らかとしている現実を知るべきであろう。
 一歩を譲り「心情の安定」が、たとえ「主体的な確定者の思いを援助する」ものであるとしても、かかる「心情の安定」を理由として確定者の内心に立ち入ることは、これを拒否する。なぜなら「心情の安定」は法による世界とは異なるからである。
 「心情の安定」が死刑確定者の日常生活にいかに支配しているかを、さらに検討する。
(一)昼夜独居
 法は、36条2項において「死刑確定者の居室は、単独室とする」としつつも、居室外で行うことの可能性についても規定している(第36条1項)。そこで、たとえば、宮城刑務所、東京拘置所では、処遇規定において、「確定者の居室は、居室外において行うことが適当と認める場合を除き、昼夜、居室において行う」とし、一応は例外のあることを示唆はしている。ところが、いずれの拘置所でも、「確定者は、単独室に収容」とし(札幌、東京、名古屋市、大阪)、あるいは「死刑確定者の居室は、少なくとも4月(或いは6月、東京、名古屋)毎に1回は転室を行わなければならない」(福岡、第5条)とし、夜独居を前提としている。
 法36条の居室外での処遇が事実上はあり得ない現状からは、単独室に限定していることを法的に問題とすることもないと言えようが、法そのものが、居室外での処遇を「心情の安定」により縛りをつけていること自体が巧妙な法逸脱防衛策である。
 ただし、その法施策自体が司法判断の視点からは違法であることをも免れない。先に引用した東京地裁判決の判示する「心情の安定」なるものが死刑囚の内心を支配するための口実とされることは違法であるからである。他の死刑囚との接触が「心情の安定」を害するとの施策は、それ自体が人間の内心を支配するものであり、そのことは確定死刑囚を人として扱うことを否定したものである。こんにちの確定死刑囚への昼夜独居の扱いは国際基準を持ち出すまでもなく非人道的であり即時廃止されるべきである。
(二)面会
 法120条1項では、①死刑確定者の親族、②婚姻関係の調整、訴訟遂行、事業の維持等での用務の処理に必要な者との面会を「許すものとする」としている。しかし実際には親族でも面会が無条件に許可されているわけではない。親族でも未決中に縁組した者との面会や内縁の妻にはきびしい制限があり、原則不許可である。友人についても条件がきびしいが、友人のない死刑囚は、死刑確定後だれ1人とも面会がなく、「どうせ死ぬのだから好きな人を会わせて欲しい」と記載している者もいる。
 同条2項では、「前項各号に掲げる者以外の者」、友人らとの面会については、「施設の規律及び秩序を害する結果を生ずるおそれがないと認められるとき」との条件付き「許すことができる」としている。
 この「規律秩序の維持」については、受刑者と同様の規定となっているが、受刑者についてはこれを根拠に多くの場合において友人等との面会を不許可にしている。つまり「規律秩序を害することなく、矯正教育に支障を生じさせない場合」でも不許可に出来るというものであり、法規定の持つ意味がない状況となっている。
 ところで確定死刑囚についても、法による「規律秩序の維持」の他に拘置所によっては「死刑確定者処遇規定」において、「死刑確定者の心情の安定に資すると認められる者」を付加している(例・名古屋、大阪拘置所)。このことから、たとえ法120条2項の「これを許すことができる」を「これを許すものとする」と改めるにしても、「心情の安定」から「許さない」ことが実務上の扱いとなるであろうから、法改正のみでは不十分である。かくして日本における行刑は、いぜんとして法以前の特殊権力関係論が優先していることを認めざるを得ない。
 とくに弁護士には面会を許す保障がなされるべきである。施設によっては弁護人になろうとする者との接見を不許可としている。その理由は告げられていない。筆者の経験でも東京拘置所において、これまでに許可していた確定死刑囚について、突然「本人が接見を希望していない」として不許可にしている。その本人の意思は確認できる性格のものではない。事実上の「管理運営上」の都合が最優先している(この処置は死刑囚の家族に対してもとられたことがある)。
 弁護人の面会については、新法下においては基本的には職員の立会いのない処置(法112条、弁護士法3条1項)がとられていると思われるが、受刑者については、施設内の処遇に関連する訴訟準備のための弁護人の面会に職員が立ち会うことも、新法下で行われている。確定死刑囚についてもことは同様である。そもそも本人と面会しなければ訴訟提起の検討ができないのであるから、訴訟提起後だけに無立会いを限定することには意味がない。法による規定が必要である。
 再審請求弁護人は法第111条1項2号および120条1項2号(法律上または業務上の面会)により接見しているが、接見時の立会については施設長の裁量に委ねられている(112条、121条)。その実際は、必ずしも無立会が保障されているわけではない。
 弁護士の再審準備のため等の面会について、弁護人、弁護人になろうとする者に、その秘密接見が法的に保障されなければならないが、新法では、そのような規定がない。
 面会時間については、受刑者と同じく1回の面会時間が5~8分が多い。最低でも30分を遵守すべきである。なお長期化する死刑囚の面会には、家族の都合も考慮し、土、日に面会を許可する検討がなされるべきである。
(三)信書
 信書に関しても面会と同じく法139条で「規律秩序の維持」という同類の枠組みを設定している点で同じ問題を擁している。同じく拘置所によっては信書の発受も「死刑確定者の心情の安定に資すると認められる者」に限定している。(例・名古屋拘置所)。つまり当局が「認められない者」と判断することで信書の発信を不許可とすることができる。面会と同じく、その客観的基準はない。たとえば最近の例として、手紙の最後に「・・・さんによろしく、お伝えください」と書いたら「それは、この手紙の内容の伝言を依頼していると考えられるから、発信不許可だ」とされた。親族を通じての友人への伝言もできない。
 親族、友人等からの着信があっても、だれからの手紙であるかも知らされない。むろん許可された相手への発信も検閲を受け、抹消しなければ許可されないことが一般化している。弁護士への発信もその必要性を説明しなくては発信させないことがある。
 また着信の内容が「死刑確定者が心情の安定の陥るようなおそれがある記述があるとき」(名古屋拘置所処遇規定第23条3項)に「その部分を抹消若しくは削除し、又はその信書の交付を許さないことができる」(同条4項)としている。法139条が「発受により死刑確定者の心情の安定に資すると認められる信書」を許すとしているのであるから、「心情の安定の陥るような」信書を削除等ができる、とするのは合理的根拠があると言えそうであるが、法141条は「信書の内容による差し止め等」を具体的に規定しているのであるから、それ以外に「心情の安定」から、抹消もしくは削除できるとする達示は法を超えたものである。
 とこrで、法140条は、「死刑確定者が発受する信書については、検査を行わせるものとする」としているが、受刑者と同じく、弁護士との間で発受する信書については「確認の限度」にとどめている。ただし、その例外は、「規律秩序」からの制約を満たしていることが条件である(これ自体が問題だが)。ところが先に紹介した名古屋拘置所の処遇規定では、「心情の安定」からの抹消、削除を可能にしている。このことは基本法そのものを拡大したものであって、法によらざる執行が優先した典型であるといえよう。
 この扱い規定からすれば、弁護士による再審準備もことごとく制約が可能となる。これらの問題は、法の不備というより執行機関の独走とも解されるが、基本には「規律秩序の維持」「心情の安定」の基本原理を柱とする法そのものに問題があることはいうまでもない。
6 確定死刑囚--昼夜独居
 確定死刑囚は、新法において「死刑の言渡しを受けて拘置される者」(法3条1項4号)とはいえ、「被収容者の処遇」(法第2編)のもとにある。その確定死刑囚の生活は、当然ながら法の下での「人間の尊厳の存在」を基本とするものであることはいうまでもない。死刑確定者の生活の実態については、これまでにも若干の報告がある。
 死刑確定者の生活においてとくに問題があるのは、昼夜独居の実態である。
 法的には、昼夜独居以外の可能性を規定していることは前述したが、現状はすべての確定死刑囚は昼夜独居を強いられている。東京拘置所を例にとると、独居房の広さは、3畳に1畳の板の間にトイレ、流し台がついている。窓の大きさは縦150センチ×横120センチほどで穴あき鉄板がついていて外は見えない。この舎房内で朝7時の起床から9時の消灯時間まで過ごす。この間の食事も舎房内でするが、1日のうち約30分の戸外運動では房外に出るが、単独の運動(週2日くらいともいわれる)である。その他、入浴(1週間に2回)、面会、宗教教誨のとき以外は居房の外に出ることはない。その間の他の死刑囚との接触はいっさいない。
 しかも一部の自殺のおそれあると判断される死刑確定者は自殺防止房と呼ばれる特殊な房に収容されている。最近では、処遇上問題があると思われる死刑囚もこの特殊房に収容されているとの報告がある。この独房には一切の突起物がなく、水道の蛇口は壁に埋め込まれ、水道の栓は押しボタン、窓には穴あき鉄板が貼られ通風や採光がまったくない。この舎房内には24時間看視できるテレビカメラが作動している。自殺防止とはいえ、これを名目に特殊房に収容しているとの報告が絶えない。
 1998年に「死刑廃止フォーラム」が実施した死刑囚へのアンケートでは、東京拘置所の6名の特殊房に収容されている確定死刑囚から回答を得ている。そのうちの1人は「死ぬまでに1度は夜間照明のない部屋で眠りたい」と記していた。すべての舎房では夜間も10ワット程度の蛍光灯が24時間ついている。24時間を看守の監視のもとにおかれ、つねに居室の指定された場所にいなくてはならない。横になることは許されない。ちなみに韓国では、確定死刑囚も他の受刑者との雑居が許されている(胸に札をつけて区別しているが)。それどころか外部の複数のボランティアが寿司を持参し、楽器を奏でて1日の慰労を過ごす。その良し悪しはともかう、わが国でも、たとえば帝銀事件の平沢貞道死刑囚は支援者が死刑囚の居房を訪れ、彼が制作したテンペラ絵を販売する手助けをしていた。また免田栄元死刑囚は、死刑囚同士で野球をしたり花壇の手入れをしていた。
 新法そのものが果たして「人間の尊厳」を基本理念としているか否かについて残念ながら疑問をもたざるを得ない。ただし、法それ自体を動かすものは人である。新法が「人権を尊重しつつ、これらの者の状況に応じた適切な処遇を行う」(法第1条)ことを目的とするにおいては、法そのものに「人間」を反映させなくてはならない。ところが世界的にも類をみない非人道的扱いが日本における確定死刑囚の実態である。
7 確定死刑囚・今後の課題
 死刑に関する国際基準としては「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する国連決議」(1989年12月)をはじめ、「「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(1966)、(以下自由権規約、日本は1979年6月批准)、「被拘禁者処遇最低基準規則」(1957)、「形態を問わず拘留または拘禁されている者の保護に関する原則」(1988)、「被拘禁者処遇原則」(1990)等がある。
 このうちの「自由権規約」は、批准した国の国民を拘束する条約であり、それに違反することは国内法と同一の効力を有する。同規約の第4回規約人権委員会は、日本における死刑確定者のおかれている状況について、とくに面会、通信の過度な制限、死刑囚官房における状況について「人道的に改善すること」を勧告している。規約第7条は、「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」としている。
 あらゆる日本における死刑確定者の扱いは、面会、通信、日常生活のすべてにおいて人道的扱いを受けていない。本稿では述べなかった不服申立においても人としての扱いを受けていない。
 とくに新法では、死刑確定者に関する条項が被収容者の条項に包括され、それなりに意味あることではあるが、本稿で指摘したように、一方では、「心情の安定」のもとで現実を制約している。その最先端での役割が各拘置所での「処遇規定」である。
 その「処遇規定」自体が個別的な規定をおくことなく、基本的には「施設の秩序維持」で裁量権の支配するものとなっている。たとえば弁護士への発信に関する検閲についてすら規定することなく事務での裁量で検閲している。まさに法によらざる行刑執行が優先している。
 かかる「処遇規定」なるものが実務の根拠として可能であるのは、言うまでもなく法そのものの基本原理のありようにある。しかし一歩を譲り、仮に「心情の安定」が当局の認識しているとされる「処遇規定」に立ち入らない原理であるとするならば、その原理を越える実務が現に優先することを可能にしている事実をどうとらえればよいのかが課題となる。
 この問題について詳細を論じることは、ここでは差し控えるが、結論から言えば、立法者の意図とは関係なく法は「一人歩きする存在」である。とりわけ日本の行刑はいぜんとして旧来の特別権力関係から脱却できていない。そこで法のあり方は、ここで課題にしている「心情の安定」それ自体が特別権力関係論と親和性ある存在である。
 基本的には、法手続き的にも問題があり、国際準則にも違法の疑いがある新法の死刑条項は、全面的に見直しされるべきである。石塚伸一教授が提唱している「死刑確定者処遇法」(仮称)の独立立法に賛同する。後述するようにアメリカでは、各州がこの種の処遇法を制定している。
 さりとて、ここでこの独立立法を提唱するだけで結論とすることは実際的でない。実は、本稿の主たる目的はそこにある。すなわち、これまでに指摘してきた個別的な条項について、解釈においていずれにも可能な法用語を極力排除することである。これまでに指摘した例として「許すことができる」ではなく、「許すものとする」の類である。とりわけ確定死刑囚の実務を根拠づける法規は(個人的には不本意ではあるが)、解釈を許さない直接・具体的条項でなくてはならない。
 たとえば筆者の手許にあるINMATEHANDBOOK FOR NEW JERSEY STATEPRISPON, CAPITAL SENTENCE UNIT, DEPT. CORRECTIONS.1990(A4、全47頁、これを紹介したものとして、菊田「JCCD」68頁参照)を参照すると、この規定は、むろん州法として成立したものであるが、たとえば部外者との接触には、信書、面会、電話による方法がある。これら家族や友人との関係を保つことを当局は推奨するが、それには、遵守事項を守る義務があり、これに違反した者には希望を満たすことはできない、とし詳細な規定をしている。つまり権利を与えるが、それに見合った義務を守らない場合は、その権利を与えない、との方針で一貫している。立法精神の本質からは当然のところである(なお、ニュージャージーは現在は死刑廃止州)。
 新法制定後の5年目のこの機会にせめてこの程度の部分改正を求めねばならない。同時に、かかる国際準則にも違法の疑いがある法および実務の扱いについて裁判を通じて問題提起をし続けなくてはならない。
 最後に筆者が強調しておきたいことは、かかる「非人道的扱い」の実態は、単に死刑確定者に限定されたものではなく、日本における刑務所での受刑者一般での課題であるということである。死に直面する日本の確定死刑囚の扱いが国際的にも非難される恥辱的状況にあることは、同時に日本の受刑者すべてが恥辱的状況であることを示している。確定死刑囚の扱いが「法による支配」に向かっていないならば、日本の刑務所にいるすべての受刑者の処遇に法的改善の方向を見つけることは困難である。
 聞くところによると法務省は、2011年に予定されている新法5年目の見直しについては、そのいっさいの部分改正も予定外であるといわれている。
 筆者は、前述したように、この数年をかけて新法5年目の見直しに向けて、受刑者と今回の確定死刑囚のそれぞれについて、可能な問題点の指摘のための作業をしてきた。当局に新法改正の意図がないとしても、そのこととは関係なく、日本の犯罪者処遇が現状のまま放置されるような環境でないことを早晩気付かざるを得ない状況に至るものと確信する。
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63年法務省矯正局長通達
法務省矯正甲第96号
昭和38年3月15日
死刑確定者の接見及び信書の発受について
 接見及び信書に関する監獄法第9章の規定は、在監者一般につき接見及び信書の発受の許されることを認めているが、これは在監者の接見及び信書の発受を無制限に許すことを認めた趣旨ではなく、条理上各種の在監者につきそれぞれその拘禁の目的に応じてその制限の行われるべきことを基本的な趣旨としているものと解すべきである。
 ところで、死刑確定者には監獄法上被告人に関する特別の規定が存する場合、その準用があるものとされているものの接見又は信書の発受については、同法上被告人に関する特別の規定は存在せず、かつ、この点に関する限り、刑事訴訟法上、当事者たる地位を有する被告人とは全くその性格を異にするものというべきであるから、その制限は専らこれを監獄に拘置する目的に照らして行われるべきものと考えられる。
 いうまでもなく、死刑確定者は死刑判決の確定力の効果として、その執行を確保するために拘置され、一般社会とは厳に隔離されるべきものであり、拘置所等における身柄の確保及び社会不安の防止等の見地からする交通の制約は、その当然に受忍すべき義務であるとしなければならない。更に拘置中、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請であるから、その処遇に当たり、心情の安定を害するおそれのある交通も、また、制約されなければならないところである。
 よって、死刑確定者の接見及び信書の発受につきその許否を判断するに当たって、左記に該当する場合は、概ね許可を与えないことが相当と思料されるので、右趣旨に則り自今その取扱いに遺憾なきを期せられたい。
    記
一、本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合
二、本人の心情の安定を害するおそれのある場合
三、その他施設の管理運営上支障を生ずる場合
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