佐藤愛子著『九十歳。何がめでたい』・・・大阪寝屋川・中1殺害事件

2018-01-07 | 本/演劇…など

〈来栖の独白2018.1.7 Sun〉
 昨年、新聞の読書欄で、ベストセラー本の1位を走り続けた『九十歳。何がめでたい』。私は佐藤愛子さんは大好きな作家なのだが、ベストセラー第1位という側面に圧倒されて、読まずにいた。
 が、先日、本屋さんで手に取ってみたところ、やっぱり面白い。そこが店頭であることも忘れ、ついつい何頁も読んでしまった。何やら店員さんに申し訳なくなり、『九十歳。何がめでたい』と、もう1冊、佐藤さんの本を買った。衝動買いみたいなものだが、後悔はしないと思う。

 店頭で、思わず読んでしまったのは「心配性の述懐」である。私事だが、昨年だったか、長男から「お母さんは、心配性だから」と云われ、そう云われれば、そうだなと認めた。最近、ストレスが掛かっているのか、体の不調が多い。心配性も原因しているのではないか。案じてみたところで、人生、どうなるものでもない。以下、「老いの夢」と併せて、共感した部分から抜粋。


『九十歳。何がめでたい』佐藤愛子著 2016年8月6日 初版第1刷発行 2017年12月2日 第23刷発行 小学館発行

 老いの夢
p22~
 いつ頃からのことか思い出せないが、私がテレビを見ていると娘がやって来て、苦々しい顔でいうようになった。
「なんでこんな大音量にするの!」
 普通の音量でも聞えないということはないのだが、何となくしっくりこない。じっくり、落ち着いた気持ちで聞こうとすると音量を大きくしたくなるのだった。
 思えばあれが始まりだった。
 そのうちテレビの若い女性のおしゃべりが聞き取りにくくなってきた。何をいっているのか身を乗り出して一心に集中しないとさっぱりわからない。小鳥の囀りか(p23~)小川のせせらぎのように耳を通り過ぎて行く。
 これは、若い女性のタレントがアナウンサーのように発声、滑舌の修練を積んでいないためだろう、と思った。NHKにはこういう囀り派はいない。(略)
「声が腹から出ていないからこういうことになる。男ならもっとハキハキしろ!」
 と毒づいたりしているうちに、気がついた。これはどうやら私の耳に問題があるのではないか?
p24~
 そう思うようになってお医者さんへ行くとあっさりいわれた。
「二十代の人の半分しか聞えていませんな」(略)
p25~
 聞えなくなった耳はもう戻らない。それは病気ではなく「老化」だからだ。(略)
p27~
「アハハハ」
 とお医者さんは笑う。私も笑う。(略)
 この笑いに籠もるいうにいえぬ悲哀を誰が知る。
 今は死への序曲なのである。
 若者は夢と未来に向かって前進する。
 老人の前進は死に向かう。(略)

 私の今日この頃
p211~
 「女性セブン」でこの連載を始めたのは1年前の4月からである。その3回目に私は「老いの夢」と題して、私の耳が「20代の人の半分しか聞えていない」とお医者さん(p212~)に言われたことを書いている。それから約1年経ったこの頃は、「20代の半分」どころか、7・8割は聞えていないという状態になっていることは、わざわざお医者さんに診てもらわなくてもわかるのである。(略)
p214~
 ああ、長生きするということは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止らない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳みそも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている。
「まったく、しつこいねェ」(略)
p215~
 ものいわぬ婆ァとなりて 春暮るる

 心配性の述懐
p72~
 今日は遠い昔のことをしみじみと思い出した。私が子どもの頃(昭和の初め)はどこの母親もみな心配性だったことを。子どもが遊びに出て日が暮れても帰ってこないとひどく心配し、心配のあまり怒りだしさえした。それが怖くて私たち子供は、日暮れ前に必ず家へ帰ったものだ。
 遊びに出る時、おとなたちは決まってこういった。
「電気が点ったら帰って来るのやで」
 その頃、電力会社からの送電は昼間は停止されていて、夕方の5時(夏は6時)になると漸く送電されて電燈がつくのであった。(略)
 日が暮れているのにまだ外にいる子供がいると、通りかかった見知らぬおとなが声をかけた。
「早う帰らにゃお母はんに叱られるで」
 そんなことを思い出したのは、大阪の寝屋川市で中学1年の少年少女がわけもなく殺害されるというむごたらしい事件を知ったからである。初めのうちテレビは、深夜の商店街を行きつ戻りつしている少年と少女の姿を捉えた防犯カメラの映像を頻りに流していた。そしてその説明をこう述べていた。
 その夜9時頃、少年は少女からのラインを受け取り、少女の家へ遊びに行くといって家を出た。
 そしてその後2人が商店街を行きつ戻りつしている姿が防犯カメラに映っている(p74~)がことがわかったのである。説明を聞いた途端に思わず私はいった。
「---夜の9時に、中学1年生が遊びに出るとは・・・」
 私などの年代の者には考えられないことである。(略)
 だが今はそんなことは珍しくも何ともないらしい。私があまりに驚くのを見て、娘はいった。塾へ勉強に行っている子供は、9時10時に夜道を帰って来るのだ、と。親の方だって勤め先の都合で深夜に帰ることもある。昔の子供と違って今の子供は自立している。親がいなくてもコンビニで自分の夕食を買って食べるだけの才覚があるのだ。お母さんが帰らないようといって泣く子供なんか今は1人もいない。時代が違うのよ、時代が・・・。(略)
p77~
 現代の街の夜はいつまでも明るい。コンビニは深夜まで営業している。今の子供は小遣いに不自由していない。ガラケーとかスマホとかは必ず持っていて、ことが(p78~)あればすぐに連絡できる。いざとなればパトカーが走ってくるし救急車も飛んでくる。子供は自立している。何の心配もない。だから夜の9時に子供が遊びに出ることを止める親はいない。深夜子供がうろうろしているのを見かけても、心配する人はいない。
 深夜になってから少年は友達に「泊めてほしい」というラインを送った。だが友達は断った。親に相談して断ったのか、自分の一存でしたのかはわからないが、中学1年の友達が深夜になって泊めてくれといってきたことを、何ごとかと心配する気持はなかったらしい。心配すれば親に相談し、親は直ちに少年の親に連絡を入れる筈である。もしそうしていれば2人が殺されることもなかったであろう。
 といってその人たちが悪いというのではない。「心配」の量と質は現代に至って半減した。人の情が文明の進歩と共に変質するのは自然の成り行きだと考えるべきかもしれない。しかしその変質を「進歩」と呼ぶべきかどうか、私は迷う。
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