出かけよう 日美旅 「日曜美術館」その舞台を巡る  第97回 横浜へ 原三溪の偉業を訪ねる旅 2019/8/25

2019-08-26 | 本/演劇…など

出かけよう 日美旅 「日曜美術館」その舞台を巡る
2019年8月18日 / 旅の紹介

第97回 横浜へ 原三溪の偉業を訪ねる旅

 古美術コレクターとして、若い画家たちへの支援者として、近代日本の美術界に多大な貢献を果たした実業家・原三溪(さんけい)。三溪が、美意識の粋を凝らして本牧の地に造成した三溪園を中心に、横浜を巡りました。

 横浜の中心地からバスで約35分。本牧三之谷の5万3千坪にもおよぶ谷あいに三溪園は広がっています。明治から昭和にかけて生糸の輸出で財を成した原三溪が、自邸と移築した古建築を広大な敷地に配するよう設計した日本庭園です。 明治末の1906年、「遊覧御随意三溪園」と書かれた看板を門柱に掲げ、三溪は庭園の一般公開を始めます。この前代未聞の出来事は、作品購入を通じた画家への支援など、公共的な貢献を人生のテーマとした三溪を象徴する偉業のひとつと言えます。

三溪園外苑・鶴翔閣
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 sankei_03.jpg 家族と生活するために建てられた鶴翔閣。大きなかやぶき屋根が田舎家の趣。
 外苑は1906年に一般公開されたエリアです。三溪の故郷である岐阜の田園をイメージしたとも言われます。 その外苑を特徴付ける建物のひとつが、大きなかやぶき屋根の鶴翔閣(かくしょうかく)です。 家族と暮らすための住まいとして1902年に建てられましたが、和辻哲郎や夏目漱石など、多彩な文化人が来訪し、安田靫彦(ゆきひこ)、小林古径、前田青邨(せいそん)ら新進気鋭の画家たちが古美術の鑑賞や勉強会に集いました。当時としては破格の高値と言える1万円で購入した平安時代の名宝《孔雀明王像》(国宝、東京国立博物館所蔵)が披露されたのもこの邸宅です。

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  家族の生活の場、茶の間棟。装飾が抑えられた明るい室内。

 三溪に画家たちを紹介したのは、横浜出身の美術史家・岡倉天心でした。天心の依頼を受け、三溪は「日本の画道のために世話をしたい」と、月6円で暮らせた時代に100円の研究費を支払うほど画家たちを手厚く援助しました。

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  奥にひかえる客間棟。横山大観らが滞在した(壁や机上の作品は横浜美術大学「三溪園と日本画の作家たち」展[※終了]のための展示)。

 客間棟には、横山大観らが滞在して制作した部屋が残されています。整然とした印象の一室ですが、当時、この棟の脇には使用人の控え室が軒を連ね、娯楽室ではビリヤードに興じることもできたとか。 鶴翔閣を建てた頃、三溪は富岡をはじめ全国4か所の製糸所を譲り受け、事業をまさに軌道に乗せた時代でした。この本邸の建築を皮切りに、由緒ある古建築を移築するなど、三溪園の造成を本格化させたのです。

※「三溪園と日本画の作家たち」展は終了しています。鶴翔閣は通常外観のみ見学可能です。

三溪園内苑・白雲邸

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   内苑に通じる御門。奥右手に、夫人との住まいとして新築した白雲邸玄関が続く。

「外苑のテーマが故郷岐阜への〈郷愁〉だとすると、三溪園公開後に造成を始めた内苑には三溪の〈憧憬〉が凝縮されています」(三溪園事業課・吉川利一さん)
 内苑の建物内部は通常非公開ですが、今回は特別に見学させていただきました。 なかでも、一線を退いた三溪が1920年に隠居所として新築した白雲邸は、簡素ながら選び抜かれた材料が用いられるなど、三溪の好みを伝える空間です。

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   三溪が書斎とした部屋。この簡素な書院の右手奥には、夫人のための奥書院が。

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  絵画などをしつらえて楽しんだ食堂兼談話室。三溪自らの構想で作った椅子。
 三溪がデザインした椅子を食堂兼談話室で見せていただきました。和の空間になじむ来客用の家具を求め、三溪は自ら図面を引いて螺鈿(らでん)装飾が美しいこの椅子を作らせたようです。
 すっきりとした白雲邸の空間からは、「美術品や調度品を飾って楽しむための建物はあえて簡素に」という三溪のこだわりが伝わってくるかのようでした。

三溪園内苑・臨春閣

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  京都・高台寺の観月台を参考に作ったとされる橋・亭榭(ていしゃ、左側)と臨春閣(右手)。
 上質な丸材を多用し、檜皮(ひわだ)でふいた白雲邸にあふれる「数寄(すき)」の趣向。 そこで垣間見られる桃山時代の様式は、隣に移築した臨春館を意識してのことだったようです。三溪園に移築される前は大阪の豪商の会所として使用されていたこの「御殿」は、元は紀州徳川家の別荘だったといわれていますが、三溪が移築した当時は、豊臣秀吉の聚楽第の一部と考えられていました。

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  臨春閣、浪華の間から住之江の間(左奥)をのぞく。
 部屋ごとに異なる欄間など、数寄の意匠が随所にうかがえる建物です。 長男・善一郎の婚礼に間に合わせて移築を完了させたそうですが、使用人たちも腰元の衣装をまとい、ろうそくの灯りで客人を招いた披露宴は、絵巻物さながらだったことでしょう。

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  臨春閣2階。村雨の間から三重塔を眺める。

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  天楽の間。欄間に使われた赤漆は女性の部屋であったことを物語る。
 臨春閣の内部は通常非公開ですが、1階の部分は外から見学が可能です。現在、改修工事のため見ることができるのは天楽の間のみですが、狩野安信らによる障壁画(複製)や、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器がそのまま装飾に使われた赤漆の欄間など、この一室だけでもみやびな見どころがあります。

三溪園内苑・蓮華院

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  竹林の中にたたずむ蓮華院。生涯最も多くの茶会を催した。
 近代における茶の湯の世界にも、大きな足跡を残した三溪。 三溪自身が構想し、初めて本格的に行った1917年の茶会に使われたのが蓮華院です。 東大寺三月堂の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)が手にしていた蓮華を飾っていたことから、蓮華院の名で呼ばれるようになりました。

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 古寺由来の円柱や露盤が配置され、古材の強い存在感がある土間。
 特別に、土間を見せていただきました。平等院鳳凰堂と伝わる円柱や格子、石の露盤(ろばん)など、古材が集められているのは、荒れた古寺のような趣きを求めたからだと言われます。 三溪はしきたりにとらわれず、茶席に大胆に仏教美術を取り入れたことで知られます。 時には、三溪自身が僧侶の姿で登場することもあったそうです。

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 三溪記念館の一角では下村観山の「筍」(左)、「老松」(右)が展示されていた。
 内苑にある三溪記念館では、三溪が最も厚く支援した下村観山をはじめ、近代日本画家たちの作品が展示されていました(※現在は終了しています)。 三溪園の梅の木をモデルに代表作「弱法師」(東京国立博物館所蔵)を描いた観山は、筆が立つことに加えて、実直な性格で知られました。そんな人となりも三溪が共感できるところだったのかもしれません。

三溪園外苑

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  寒霞橋と横笛庵(左)。平家物語の悲恋のエピソードが伝わる小庵。

 ここまで内苑の建物を中心に紹介してきましたが、三溪園にはまだまだ見どころが尽きません。 隠れ里のような雰囲気を求めて造成されたという、外苑の奥地もぜひ散策してください。 当時、この界わいは「白露の里」と呼ばれました。寒霞橋(かんかきょう)のたもとに建つ小さな庵、横笛(よこぶえ)庵には、「平家物語」に登場する悲恋のヒロインである横笛の像が安置されていました。 像は戦時中に失われましたが、大正期には恋愛成就を祈る女性たちの間で、パワースポット的な人気を集めたそうです。

三溪園外苑・旧矢箆原家住宅

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  現存の合掌造りでは最大規模の旧矢箆原家住宅。

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  真夏でも虫を防ぐためにいろりに薪がくべられる。飛騨地方の民具も展示されている。

外苑最奥で必見の建物のひとつが合掌造りの民家、旧矢箆原(やのはら)家住宅です。 移築されたのは三溪の死後である1960年ですが、岐阜県大野郡荘川村(白川郷)のダムに沈んだ地域にかつて存在した豪農の住宅ほぼ全室が公開されています。広大な客間や屋敷の構えは壮観です。

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  現在も受け継がれる三溪が考案したオリジナル料理。
 広大な園内を見学しておなかが減ったら、「三溪麺(そば)」をどうぞ。 めんの上に中華風のあんをかけ、錦糸卵やハムなどをトッピングした三溪園の名物は、茶会で晴れ着をツユで汚さないために、三溪自身が考案した料理が元になっています。 和風かつ中華風な独特のバランスに横浜らしさを感じました。

横浜市開港記念会館

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  ジャックの塔の愛称で親しまれる横浜市開港記念会館。

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  横浜市開港記念会館脇にたつ岡倉天心生誕之地碑。

三溪園を後に、横浜港方面へと向かいました。 本町にある横浜市開港記念会館の脇には岡倉天心生誕之地碑がたっています。 天心の父は福井藩に仕え、この場所で生糸などを商う店を開いていました。 1923年の関東大震災で、横浜市開港記念会館(当時は開港記念横浜会館)は一部を残して大破しますが、4年後に復旧しました。

関東大震災で壊滅的な被害を受けた横浜を目の当たりにし、三溪は生き方を大きく変えます。 5000点以上にも及んだ美術品収集活動を大幅に縮小させたのです。 横浜市復興会会長に就任し、復興をけん引し続けました。

横浜開港資料館

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 横浜開港資料館。英国総領事館だった建物。

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  横浜開港資料館中庭のたまくす(タブ)の木。関東大震災で焼失したが根元から新しい枝が伸びた。

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震災で燃えたたまくすの木を使った壁掛。裏面(下、複製)には三溪による感謝の言葉が記されている。

 震災後の三溪の足跡が、横浜開港資料館に残されています。 震災で焼けたたまくす(タブ)の木で作った「黒船壁掛」。その裏面には、震災復興に貢献した当時の渡辺勝三郎市長への感謝の言葉が三溪によって記されています。 ペリーが横浜に上陸した幕末の1854年からこの場所に生えていたたまくすは、関東大震災で焼失しました。 しかし、焼けあとから伸びた新芽が、現在では横浜開港資料館の中庭に復興の象徴として大きく茂っています。

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  山下公園のインド水塔(中央)。被災したインド人が市民からの援助に感謝して寄贈した。三溪はインド商人の保護にもあたった。

 幕末に生まれた新しい町である横浜には「3日暮らせばだれでも浜っ子」という言葉があるそうです。 三溪があますことなく三溪園に理想を実現できたのは、伝統やしがらみのない横浜だったからなのかもしれません。 横浜への恩義について、三溪は「余は横浜に住み、横浜に生存の恩を荷へり、左レバ横浜に必要なる事件に精力を集注し横浜に対する生活の恩共同生活の恩に万一を報ぜんと決せり」(「随感録」)と記しています。 横浜に寄り添った三溪がこの町に残した偉業の数々をぜひ訪ねてください。

 ◎上記事は[出かけよう 日美旅]からの転載・引用です


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