どんなことをしても許される、人を殺した者でも救われるか。五木寛之氏の『親鸞』から

2009-04-24 | 仏教・・・

五木寛之氏の『親鸞』より
「念仏はたた一度でよい、一度きりの念仏で往生がさだまるのだから、あとはいっさい念仏をとなえる必要はないという話も広がっております。あれは、なんという説ですか」
「一念義、というそうな。法然さまの教えにそむく説だ」
「さらに、十悪五逆の悪人でもすくわれるのなら、なにをしても許される、どんな悪いことをしても阿弥陀さまが助けてくださるのだから、と、堂々と悪行をすすめる者たちもでてきました」
「知っている。念仏だけでよいという易行の教えには、必ずそのような誤りがつきまとうのだ」
 綽空は唇をかんでうなずいた。(略)
「念仏さえすれば、どんなことをしても許される、それをためらうのは信心が浅いからだと説かれるお坊さまもいらっしゃるとか。(略)善いことを心がけてするなどというのは、自力の信心で、なんの役にもたたない、念仏の力の前には、いかなる行為もさえぎるものなしと信ぜよと-----」
「それは、ちがう。法然さまのおっしゃる専修念仏というのは、そういうことではない」
「法然さまのお話によりますと、人を殺した者でも往生できる、とか」
「そうだ」
「殺生を仕事にする者、人をだまして商いをする者、博打打や遊女でも救われる、とか」
「そうだ」
「ありのまま、ということを教えておられるそうですね。ありのままの暮らしのなかで、卑下せず念仏をもうせ、と」
「そう教えておられる」
「では、念仏さえすれば、どんな悪いことをしてもいよい、ということに自然なりませぬか」
「いや、そうではあるまい」
「なぜでしょう」
 サヨがきいた。適当な答えでは許さないという、真剣な口調だった。犬麻呂も綽空をみつめて、その答えを待った。
 綽空は目を閉じて、なにか心のなかで念じている様子だった。犬麻呂は、綽空がすぐになにかを答えてくれることを望んではいなかった。綽空自身がその問いを何千回、何万回と自分につきつけながら生きていることが感じられていたからである。
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 〈来栖のつぶやき〉
 綽空(後の「親鸞」)は「悩みの達人」だった、と五木寛之氏は云われる。親鸞に並べて書くのはあまりに卑小で辛すぎるが、私も、よく悩む。考え込んでしまう、考え詰める。その対象は、多くは、罪の問題であったり救いの問題であったり・・・社会に小さくされた人たちのことであったりする。飽きもせず、毎日毎日、考える。そんなにしながら春秋を重ねてしまった。だから、 “綽空自身がその問いを何千回、何万回と自分につきつけながら生きている” との一節に深い共感、親しみを覚えた。
 考え詰めて生きるのは、たやすいことではない。けれど、その思索の果てに、或いは思索の途上で、思いがけない閃きに出会うことがある。胸にすとんと落ちて、たまらなく爽快である。清孝のことで聖書に激しく問い、考えあぐねていたとき、また光市事件をじっと考えていたときにも、確かにそういう瞬間があった。
 本題に入って-----
 “十悪五逆の悪人でもすくわれるのなら、なにをしても許される”のか。どんなに多くの悪事を働いても救われるのか、とサヨと犬麻呂は問う。
 イエスも、「罪人が優先して救われる」と説いた。穢れた存在と位置づけられた女も、徴税人も、救われる、と。神の愛は、我々の犯した罪より遙かに大きい、と。
 梅原猛氏の『法然の哀しみ』に、以下のようなくだりがある。煩悩に悩み苦しむ親鸞に
“行者 宿報ありて、もし女犯せんに
 われ玉女の身となりて犯され
 一生の間 能く荘厳して
 臨終には引導して極楽に生ぜしめん”
 「おまえが煩悩が強くてどうしても女身なしには念仏ができないとしたならば、私が女身となっておまえの人生を荘厳にしてやろう」
 と、救世観音が告げたというのである。悩みの果てに現れた一条の光のようだ。これだから、悩むこと、考えることは、やめられない。
 答えも、救いも、自分の中にあるのではない。上からのものである。いや、砕いて言うなら、私は「人との出会いのなかから」答えが降ってくる、と思っている。この思いを幾度も経験した。出会いが人を育てる。問いかけ、答えを降らせてくれる。十分に悩むとよい。生きとし生けるものへの愛を湛えて悩むとよい。
 そんな意味から、私は死刑には反対である。人は、アップデートされてゆくものだ。道半ばにある。断ってはならない。


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