昭和天皇「細く長く生きても仕方がない」戦争に苦悩し、側近の前で涙 故小林忍侍従の日記

2018-08-25 | 雲上

2018年8月23日 朝刊 ①面
昭和天皇、85歳の心情記す 故小林侍従の日記

  
  画像:1987年4月7日の「小林忍侍従日記」。行事軽減を巡り「細く長く生きても仕方がない」と、昭和天皇が吐露した心情が記されている
  昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。二十二歳年下の小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
 既に公表されている先輩侍従の故卜部亮吾(うらべりょうご)氏の日記にも、同じ四月七日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述の趣旨と符合する。
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、八六年三月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。
 八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
 昭和天皇は、八七年四月二十九日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、八九年一月七日に亡くなった。
 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、ほぼ毎日日記をつづった。
 共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。(日記の引用部分の表記は基本的に原文のまま)
■すごい言葉だ 作家・半藤一利
 <作家の半藤一利さんの話> 昭和天皇の「細く長く生きても仕方がない。(中略)戦争責任のことをいわれる」というのは、すごい言葉だ。昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があったのだとうかがわせる。
 小林忍さんは昭和天皇との距離が(比較的)遠い。その代わり、この日記が面白いのは、あからさまに書いてあること。天皇の病状の悪化以降、日記が光彩を帯びてくる。他の人の日記には出てこない。
 昭和天皇の周辺の人々や宮中で何が起きているかについて、官僚の目でクールに見ている。若かったこともあるが、現人神としての天皇から脱却している。天皇、皇后、皇太子夫妻に対しても畏れ多いという気持ちがあまりない。リアリスティックに昭和天皇の日常を書いたという意味では、大変面白く貴重だ。

  
  画像;つくば科学万博視察のため、上野駅発の特別列車に向かう昭和天皇。後に続く入江相政侍従長、小林忍侍従(いずれも当時)=1985年6月25日

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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2018年8月23日 朝刊 ㉔面
昭和天皇の姿 侍従日記に克明 戦争に苦悩 側近の前で涙
 昭和天皇の肉声を伝える「小林忍侍従日記」が見つかった。懸命に励ます側近トップの侍従長と涙を流す天皇ー。戦争への思いと現実とのはざまで苦悩する昭和天皇の姿が、はっきりと描かれている。=①面参照
■訪米
 「天皇の涙」の記述があるのは1975年11月。入江相政侍従長から聞いた話として「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさって」いると書いている。 昭和天皇はこの年の9~10月、米国を初訪問した。3年前にニクソン米大統領から招請を受けたが、日米関係改善を狙う田中角栄内閣に対し、宮内庁の宇佐美毅長官が「天皇の政治利用だ」と反対し、拒否したいきさつがあった。
 それ以前、戦後初の外遊となった71年の欧州訪問では、現地で戦争責任に関連して抗議行動に遭った経験もある。それだけに、神経をとがらせた末の歴史的訪米となった。歓迎晩餐会では「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」との表現で、戦争への遺憾の気持を表明した。大規模な抗議行動はなく、好意的な反応も多かった。
 ところが、帰国後の10月、記者会見で戦争責任について問われ「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えてしまい、責任逃れだと批判を浴びた。
 小林日記によると、訪米の成果にも自信を失っていた天皇に、入江侍従長が「(米国での)素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚異的にもりあげた」と話したところ「涙をお流しになっておききになっていた」。人間としての天皇の苦悩や、側近との心の交流がストレートに伝わる記述だ。
 「入江相政日記」はこの間のいきさつについて、訪米発表時には米国の新聞が全然取り上げなかったのに「ああまで変わった」と表現。「一重にお上のお徳によるものと申し上げ自信をおつけする。お涙を流してお喜びだった」とつづられている。
■同情
 小林日記には、宮内庁幹部と意向が一致せず、天皇が押し切られる様子も書かれている。
 80年5月27日には、来日中の中国の華国鋒首相との引見と宮中晩餐会があったが、日記は「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部長官は今更ということで反対の意向とか」と記述。
 小林氏は天皇に同情を寄せ「国際的に重要な意味をもつことに右翼が反対しているから、止めた方がよいというのでは余りになさけない。かまわずお考えどおり御発言なさったらいい」「大変よいことではないか」とまで記している。
 しかし、天皇の思いは生かされることなく、晩餐会でのお言葉は次のようなものに終わった。
 「この意義ある御来訪にによって、日中交流の歴史は、新たな一頁を開くことになると確信したします。貴国と我が国が、今後末永く相携え、世界の平和と繁栄のために、貢献してゆくことを、願ってやみません」
 ノンフィクション作家の保阪正康氏は今回の日記を「帝王が人間へと変わっていく過程が描かれている」とみている。戦争に苦悩し、人前で涙を流す昭和天皇。その姿を浮かび上がらせる貴重な資料が、平成最後の夏に見つかった。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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昭和天皇 二・二六「特別な日」 腹心殺され、慎み(小林忍侍従日記)  共産党志位和夫委員長、昭和天皇を批判
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2 コメント

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感想 (あやか)
2018-08-25 21:23:04
私は昭和天皇様はたいへん立派なかただったと思います。
(優しいおじいさんと、いったタイプのかただったようですね)
昭和天皇は、非常に尊敬に価する人格者だったにちがいありません。
 ただ天皇陛下といえども人間ですから、さまざまな苦悩や葛藤、お心の迷いも有ったことでしょう。
その昭和天皇にお仕えになられた『小林忍侍従』も、また立派な方だったと思います。
たえず天皇陛下を励まされ、ときには率直な御忠告・助言をされた事には頭がさがります。
 今の天皇陛下には、そういう立派な侍従がいないことが、お気の毒でなりません。

それにしても、共産党の態度は、一体何なのでしょうね。
最近は、あまりあからさまには天皇制批判はしなくなったかなあ、と思ってましたが、やはり本性は変わりませんね。
もう、共産党はつぶすしかないですね。もっとも、今の若者で共産党支持者はほとんどいませんけど。、、、、

それと、昔、長崎市長をやってた本島等もひどい人ですね。
昭和天皇が御危篤だったときに『天皇の戦争責任』のことを言ったそうじゃありませんか。
非常識にもほどがあります。
 しかも、あの本島等は、その後、『広島・長崎に原爆が落とされたのは軍国主義日本に対する当然の報いである』と言うことまで言ったそうです。
 原爆の犠牲者を侮辱する冒涜行為と言うほかありません。
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あやか様 コメントありがとうございます。 (ゆうこ)
2018-08-25 21:56:12
>今の若者で共産党支持者はほとんどいませんけど
 野党は、「支持されていない」現実を見つめなくてはね。与党になれない原因を真剣に考えたことはないでしょう。
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