昭和天皇 二・二六「特別な日」 腹心殺され、慎み(小林忍侍従日記)  共産党志位和夫委員長、昭和天皇を批判

2018-08-25 | 雲上

2018年8月24日 朝刊 ①面
昭和天皇の日記存在か 侍従日記に定説覆す記述
 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏(一九二三~二〇〇六年)の「小林忍侍従日記」で、昭和天皇が「日記らしきものをおつけになっておられた」との記載があり、天皇自身が生前に日記を付けていた可能性が浮上した。
 記載があるのは一九七六年の元日。皇居・吹上御所で新年早朝の祭祀(さいし)を昭和天皇に代わり側近が済ませたことを、小林氏が居間で待機していた昭和天皇に報告しに行ったところ「お上(かみ)はお机に向い日記らしきものをおつけになっておられた」とつづっている。
 昭和天皇の記録としては、戦後すぐに回想を側近が聞き取った「昭和天皇独白録」や「拝聴録」、昭和天皇が亡くなった後、宮内庁が二十四年余りをかけて編集した「昭和天皇実録」などがあるが、自ら筆を執った日記類の存在は確認されず、存在しないというのが定説だった。
 ただ、思わせぶりな記述は、これまでの史料にもあった。「卜部亮吾侍従日記」には、香淳皇后が亡くなった後の二〇〇〇年六月二十四日「女官長に例の『お日記』お忘れものとして副葬品にお入れいただくようお預けする」と書かれている。昭和天皇の日記が形見として“埋葬”されてしまったとも解釈できる内容だ。
 一方、「拝聴録」は入江相政(すけまさ)侍従長が昭和天皇から聞き取った記録で、見つかったり、不明になったりを繰り返した。
 卜部日記の八八年五月二十三日の記述には、入江氏の後任の徳川義寛侍従長と「(皇居・宮殿の)表御服所に赴き、入江侍従長の『拝聴録』を探索す。断念しかけたが最後にキャビネット最下段から発見。内容確認しリストを作り元の場所に収納」とある。
 その後また行方が分からなくなったが、卜部日記によると、二〇〇一年二月七日に再発見された。現在は再び不明となっている。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
--------------------------------------------
昭和天皇二・二六「特別な日」故小林侍従日記 腹心殺され慎み
 中日新聞 朝刊 2018/8/24(金)
 陸軍将校らによる反乱だった1936年の「2・26事件」を巡っては50年近く経っても、最晩年の昭和天皇がこの日を特別な「痛みの日」として外出を控えていたことが、「小林侍従日記」で分かった。=①面参照
 事件では、青年将校らが天皇親政による国家改造を目指し、約千四百人の兵を率いて政府中枢の各所を襲撃し占拠。内大臣の斎藤実や蔵相の高橋是清らが暗殺された。終戦時の首相で侍従長の鈴木貫太郎も襲われ、重傷を負った。三日後に反乱は鎮圧された。
 日記には「2・26事件の当日に当たるので宮殿にお出ましなし」(76年)、「2・26事件の日のため、午前中宮殿へのお出ましなし」(85年)との記述が続く。
 事件8年前の28年、張作霖爆殺事件への対応を巡り首相の田中義一を叱責して内閣総辞職に追い込んで以来、天皇は政府の方針に不満があっても口を挟まないようになっていたとされる。
 その例外が2・26事件だった。宮内庁がまとめた昭和天皇実録によると、天皇は当時「自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にてわが首を絞めるに等しい行為である」と激しい言葉で事件を非難した。
 側近で内大臣を務めた木戸幸一や他の側近らの日記にも「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり」「速やかに暴徒を鎮圧せよ」などの記述があり、昭和天皇が自ら兵を率いて鎮圧する強い意思を示したことがうかがえる。
 ただ、海軍将校らが犬養毅首相を射殺した32年の「五・一五事件」を「慎みの日」として触れた記載はない。それだけに、慎みを繰り返す日記の記述からは、2・26事件への強い思いが感じ取れる。
 一方、現在の天皇陛下にとっての「慎みの日」は「忘れてはならない四つの日」がある。「沖縄慰霊の日」「広島原爆」「長崎原爆」「終戦」の四つの日を大事にされていることはよく知られている。「国民にも戦争の記憶を継承してほしいという思いが強いからだ」と陛下の側近は明かす。
 昭和天皇がこうした日に対しても慎みの気持を持ち、外出などを控えていたことも「長崎原爆の日につきお出ましなし」(85年8月9日)などの記述からうかがえる。日記を通読したノンフィクション作家の保阪正康氏は「2・26事件は昭和天皇にとって、自分の股肱の臣を殺されたクーデター未遂事件で終生忘れられない重い出来事の一つ。5・15事件は一種のテロとみていたのではないか」と指摘。「反乱将校たちを死ぬまで許していないことがよく分かる。今の陛下とは違う『大事な日』の感覚だ」と強調する。(日記の引用部分は基本的に原文のまま)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
――――――――――――――――――――――――
2018.8.25 05:00更新
【産経抄】8月25日
 自らのイデオロギーや独特の歴史観を端的に示している。共産党の志位和夫委員長は23日、ツイッターで昭和天皇を批判した。「中国侵略でも対米英開戦決定でも、(中略)侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した」「戦争末期の45年(昭和20年)に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた」。
 ▼志位氏は「歴史の事実だ」とも記すが、果たしてそうか。実際は、昭和天皇は日米開戦には非常に消極的だった。開戦も辞さないと決めた16年9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(ぎょせい)を詠じて平和を望む思いを訴えた。「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」。
 ▼同年10月17日、東条英機を首班とする組閣の際には「白紙還元の御諚(ごじょう)」を発し、9月6日の決定を白紙状態から考え直すよう求めている。20年6月には、軍部の本土決戦の方針を見直すよう「異例の干渉」(現代史家の秦郁彦氏)もした。
 ▼当時、天皇への上奏には「拝謁」と「書類」とがあった。元大本営陸軍部参謀の故瀬島龍三氏からは、日頃の昭和天皇の振るまい方についてこんな話も聞いた。「書類上奏で裁可が下りなくても、軍部は何度も同じ書類を出した。すると、立憲君主であろうとした陛下は最後は裁可された」。
 ▼登山家の野口健氏は、志位発言について「どのように解釈したら…」とあきれていた。ただ共産党の姿勢に関してはこうも指摘している。「『天皇制の打倒』『人民共和政府の樹立』を掲げた経緯からして、今更ながらこのような発言に特段の驚きはありません」。
 ▼共産党の綱領はこう明記している。「天皇制の存続を認めた(憲法の)天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」。この政党の異質さを感じる。

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
――――――――――――――――――――――――
昭和天皇「細く長く生きても仕方がない」戦争に苦悩し、側近の前で涙 故小林忍侍従の日記
...........


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。