東野圭吾著『手紙』

2007-03-01 | 本/演劇…など

 発売いきなり130万部も売り上げたことも、本の内容も知らず、書店店頭で見かけて何気なく購入した本だけれど、最後を読んで、心の中で泣けた。

『手紙』p417~

 この手紙を読んだ時の衝撃をわかっていただけるでしょうか。弟に縁を切られたことがショックだったのではありません。長年にわたって私の存在が彼を苦しめ続けてきた、という事実に震撼したのです。また同時に、当然そういうことが予想できたのに、弟にこんな手紙を書かせるまでまるで気づかなかった自らの阿呆さ加減に、死にたくなるほどの自己嫌悪を覚えました。何のことはありません。私はこんなところにいながら、何ひとつ更生などしていなかったのです。

 弟のいうことはもっともです。私は手紙など書くべきではなかったのです。同時に気づきました。緒方さんへの手紙も、おそらく緒方さんにとっては犯人の自己満足にしか見えない不快極まりないものだったに違いないと。そのことをお詫びしたく、このような手紙を書きました。もちろん、これを最後にいたします。

p420~

 その男は深く項垂れていた。直貴の記憶にある姿よりも小さく見えた。

 彼の姿勢を見て、直貴は身体の奥から突然熱いものが押し寄せてくるのを感じた。男は胸の前で合掌していたのだ。詫びるように。そして祈るように。さらに彼の細かく震えている気配まで直貴には伝わってきた。

 兄貴ー直貴は胸の中で呼びかけた。

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 感動した箇所は、「祈り」があるところだ。悲しい祈り(愛)があった。人は、悲しい(愛しい)存在だと思う。それが、最近は、あまり悲しく(愛しく)なくなってきたように思う。愛するもののために祈る(死ぬ)ということが少なくなったような気がする。昔は親は愛する子のために自分の食べるものを譲ったりしたものだけれど、いま自分の命や欲望のために子供(邪魔をするもの)を排除する、そういうことさえも報道などで聞く昨今だ。我が家の庭に、これまで何家族も野良猫がきた。出産もした。私が上げた餌を子猫にやる。自分だって食べたいのに。母猫は、年寄りで、暮らしも悪かった(野良生活だ)から歯がボロボロ。その母猫が、どうしてもちょっとでも食べたかった物があった。それは、鶏のレバーの煮付けだった。これは、食べたかった。歯が弱かったので、柔らかいレバーは魅力だった。おいしそうに食べていた。こういう姿に、私は泣けた。「美しいもの」とは、「悲しいもの」ではないかと思う。


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