岩瀬仁紀 中日ドラゴンズ投手「クローザーの心得」/ 一度だけ、マウンド上で足が震えた~落合 オレ流采配

2012-03-25 | 相撲・野球・・・など

セーブ王は逃げない岩瀬仁紀中日ドラゴンズ・投手「クローザーの心得」
現代ビジネス2012年03月24日(土)週刊現代 二宮清純レポート
 敵からすれば「死の宣告」のようなものだ。男はいつも最終回に現れる。そして一球一球、対峙する者の戦意を摘み取っていく。今日も明日も明後日も。そんな毎日を10年近くも続けてきた男がここにいる。
■振り返るのはまだ早い
  同じアウトでも初回の3つと最終回の3つとでは、まるで意味合いが異なる。とりわけゲームの幕を引く27個目のアウトは緞帳のように重い。
  クローザー、すなわち幕引き屋。岩瀬仁紀がこの稼業を本格的に始めて9年目のシーズンに入る。
  タイトロープを渡り切った先には監督のねぎらいの握手が待っているが、渡り損ねれば、そこは地獄の谷底だ。信頼を失うのは一瞬だが、それを築くには長い歳月がかかる。まさにクローザーは一日にして成らず---。
  数々の修羅場を乗り越えてきた通算セーブの元日本記録保持者・江夏豊は、クローザーという仕事を独特の表現で説明している。
 〈先発は完投したら、勝ったら、次の日は精神的にも解放されますけど、反対に抑えの場合、ほんとうにホッとできるのは、一日のうちにわずか十五秒か二十秒でしょう。
  つまり、最後のバッターを打ち取って、マウンドからベンチに帰って、監督、コーチ、先発ピッチャーと握手をする。「ご苦労さん」と言われる。それまでのあいだだけですからね。そして次の瞬間、明日の試合が待っている。これはもう、抑えの宿命です〉(自著『エースの資格』PHP新書)
  心地良い解放感に浸れるのは1日のうち、わずか15秒か20秒。一仕事終われば、もう次の仕事への準備。心の休まる日など、1日もない。それがクローザーだと江夏は語る。
  37歳の守護神は、滞積するストレスを、どのように克服しているのか。
 「この仕事は結果が良かれ悪かれ、ストレスはたまるものです。だから2月から11月までは、とにかく我慢、我慢。解放されるのはオフになってからで十分。ストレスから逃げるのではなく、当たり前だと考えなくちゃ、この仕事はできません」
  なるほど、できる男はストレスすらも飼い馴らし、明日への活力に変える術を持っているということか。
 「いい思いも悪い思いも、たくさんしてきました。一喜一憂していたら、前には進めませんよ」
 野球人生を振り返るのは、まだ早い。物静かな男は、そう考えているようだ。
  沈着冷静で鳴る男が、一度だけ、マウンド上で足が震えたことがある。'07年の日本シリーズだ。
  3勝1敗と中日が日本一に王手をかけて迎えた第5戦、中日の先発・山井大介は一世一代の快投を演じていた。北海道日本ハムを相手に、8回までひとりの走者も許していなかったのだ。
  得点は1対0。完全試合まで、あとアウト3つ。日本プロ野球史上、日本シリーズでの完全試合は、これまで一度もない。
  山井は試合中盤にマメをつぶしていたが、逆にそれが集中力を生み、前年のチャンピオンチームに付け入るスキを与えなかった。
  岩瀬は8回からブルペンで準備をしていた。「ひとりでもランナーが出たら、その時点で行くからな」。バッテリーチーフコーチの森繁和からは、そんな指示が出ていた。
  だが山井はひとりの走者も許さない。8回が終わった段階で86球と球数も少ない。「ここまできたら完全試合が見たいな・・・・・・」
  そんな思いが頭をよぎった矢先だ。監督の落合博満がピッチャー交代を告げた。
 「岩瀬!」
  山井コール一色のナゴヤドームが一瞬にしてどよめきに包まれた。まばらな拍手は「エーッ!」という驚きの声にかき消された。
■背水の13球
 「正直、あれはものすごくやり辛かった」
  振り返って岩瀬は言う。
 「これまで勝っている場面で〝エーッ!〟という声を聞いたことがなかったものですから。まるで何度か(救援に)失敗した後のマウンドのようでした」
  晴れの舞台になるはずのマウンドが、針のムシロになろうとは・・・・・・。地元のファンに祝福されてマウンドに上がりたい。できればスタンディング・オベーションを背に受けて。誰だって、そう思う。
  ところが、この日の岩瀬は〝招かれざる客〟だった。複雑な心境だったのは言うまでもない。
 「オレを信用していないのか・・・」
 ピッチャーはプライドの高い生き物である。ゲームのトリを飾るクローザーとなれば、なおさらだ。長きにわたってチームの終盤を支えてきたのはオレだとの自負が頭をもたげる。
  だが、想定外の修羅場で感傷に浸っているヒマはない。いつものように岩瀬は表情を消し、冷静に自らに言い聞かせた。
 「とにかく3人で終わらそう」
  先頭の金子誠に対してはスライダーで空振り三振を奪った。続く代打の高橋信二(現オリックス)には、これまたスライダーでレフトフライ、そして27人目の小谷野栄一はストレートでセカンドゴロに打ち取った。
  背番号の数字同様、わずか13球で3つのアウトを奪った。山井と二人で完全試合を達成した。タイトロープを渡り切った先に、中日の53年ぶりの日本一があった。
  言葉少なに岩瀬は語る。
 「日本一になった、やった!というよりもホッとしたというのが正直な気持ちでしたね」後日、岩瀬の顔を見るなり、落合はボソッとつぶやいた。
 「オレが批判されるのはいい。それよりも、オマエが3人で抑えることの難しさを、なんで分かってくれないんだろうな」
  その一言で岩瀬は救われた思いがした。背水の13球は幕引き屋の意地の結晶だった。
  愛知県西尾市で生まれた岩瀬は高校(西尾東高)時代から西三河では評判のサウスポーだった。
  しかし'76年創立の歴史の浅い県立校ゆえ、甲子園へのハードルは高かった。
  高校時代の監督・渡会芳久には「とにかく真面目な子だった」との印象が強い。
 「目立つタイプではなかったが、野球に取り組む姿勢が素晴らしかった。こちらが黙っていても、よく練習するし、黙々と走っていた。私のほうから注意したり、怒った記憶はありません」
  その一方で、負けず嫌いな一面もあった。
 「打っても投げても岩瀬が中心。しかし、彼ひとりの力ではなかなか勝てない。ある試合、三塁に進んだ岩瀬は何と強引に本盗を試みた。アウトにこそなりましたが、そこまでしても勝ちたかったのでしょう。
  ピッチャーとしては3年夏の県大会2回戦でノーヒットノーランを達成しています。バッターがバスターで揺さぶるなど、いろいろと対策を練ってきても、全く相手にしませんでした」
 卒業後は地元の愛知大へ。渡会によれば、東京の強豪校からの誘いもあったが、ひとり息子ということもあって地元の大学を選んだという。
■伝家の宝刀
  ピッチングも良かったが、バッティングはもっと目立っていた。入部するなり、外野のレギュラーになった。2年の夏には外野手として日米大学野球の日本代表メンバーに選出され、3年秋には中南米遠征のメンバーにも加わった。同世代の左バッターには稲葉篤紀(法大-ヤクルト-日本ハム)や高橋由伸(慶大-巨人)らがいた。
  大学時代の監督・桜井智章には次のような印象が残っている。
 「打撃は引っ張り専門で初球からどんどん振る。ボールを待つなんてとんでもないというスタイル。当時は相手から警戒され、ボール球を振らされることが多かった」
  愛知では向かうところ敵なしの強打者が殊勝な面持ちで桜井にこう告げたのは、中南米遠征から帰国した直後のことだった。
 「バッターでは勝てません。ピッチャーをやらせてください」
  21歳の岩瀬に、いったいどんな心境の変化があったのか。桜井は次のように推察する。
 「岩瀬本人もプロ志望でしたが、代表で集まってきた選手のバッティングを見て、〝こういう人間がプロに行くんだ〟と分かったんじゃないでしょうか。
  それからですよ、バッティングのスタイルが変わったのは。ボール球を振らず、逆らわないバッティングをするようになりました。外野を守っていても、単に強肩を見せつけるだけでなく、捕球しやすいボールを返すようになりました。一流選手と一緒に行動したことで野球観が大きく変わったんだろうと思います」
  3年春には愛知学院大戦で1試合3本塁打を記録した。1本目がレフト、2本目がセンター、3本目がライト。この頃には広角に打ち分ける技術も習得していた。
  4年時はエースで4番。通算124安打は愛知大学リーグ史上2位。リーグ記録に、あと1本届かなかった。
 「記録を塗り替えていたら、そのままバッターで勝負していたかもしれません」
  だが、記録を破れなかったことが、結果的には幸いした。岩瀬はバットを置き、以後はピッチャー一本で行く覚悟を固める。
  社会人野球は、これまた地元のNTT東海へ。ここで岩瀬は運命的な出会いを果たす。
  先輩に森昌彦というアトランタ五輪にも出場した社会人球界を代表する好投手がいた。森の武器はバッターをして「振りに行ったら急に曲がる」と言わしめた高速スライダー。この伝家の宝刀を森は後輩に伝授したのだ。
 森の回想。
 「当時の岩瀬はスラーブみたいな曲がりの大きな変化球を投げていました。しかし本当の持ち味はナチュラルにスライドするボール。バッターからすれば大きな変化より、手許で小さく変化するボールの方が打ちにくい。そこで投げ方をアドバイスしたんです。
  実は彼はテイクバックが独特なんです。腕が頭の後ろにきて、そこからサイド気味に出てくる。これはスライダーに適した投げ方なんです。
  それでちょっと〝縫い目をズラして投げてみろ〟と。何球か投げているうちにシュッ、シュッとボールが切れてきた。このボールをマスターするには、なるべく前でボールを放さなければならない。まずは軸足でしっかり立ち、次に体重移動。彼の場合、前の肩が早く開くクセがあった。
  そこでグラブを絞って肩が開かないようにしました。こうすることで自ずと腕も振れてきた。社会人2年目には、ほとんどあのスライダーは打たれていないはずです」
 ■無事是名馬
  名を成したクローザーには、代名詞とでも呼ぶべきウイニングショットが必ずある。たとえば日米通算381セーブの佐々木主浩にはフォークボール、日米韓台通算347セーブの高津臣吾(BCリーグ・新潟)にはシンカー。岩瀬の場合は「打者の手許で加速する」と言われるスライダーだ。
  '99年に逆指名で中日に入団した岩瀬はセットアッパーからスタートした。新人王こそ20勝(4敗)をあげた巨人・上原浩治(現レンジャーズ)に譲ったものの、65試合に登板し、10勝2敗1セーブ、防御率1・57という数字は見事の一語である。
  この岩瀬を大の苦手にしていたのが、元ヤクルトの古田敦也だ。頭脳派捕手兼好打者の目に岩瀬のボールはどう映っていたのだろう。
 「岩瀬のボールは両サイドに滑るんです。右バッターには〝真っスラ〟気味のスライダー。これはインコースに食い込んでくる。そしてアウトコースには逃げていくシュート。落ちるボールはないのですが、僕は全く手が出なかった。
  岩瀬のスライダーの特徴は、途中まで真っすぐに見えること。打者の手許で食い込んでくるから、バットに当たってもヒットにならない。ほとんどが詰まった内野ゴロです。
  彼はこのスライダーをバックドアとして使うこともある。アウトサイドの遠いところからストライクゾーンぎりぎりに入れてくる。しかもコントロールがいいから、こちらはバットに当てるのが精一杯。もう、全く打てる気がしなかったですね。
  オールスターで岩瀬のボールを受けてみると、滑り加減が半端じゃない。〝やっぱり、こりゃ打てん!〟と諦めました(笑)」
 '03年オフのことだ。あるテレビ番組で現役選手が監督になったつもりで12球団の支配下選手をドラフト指名し、最強チームを結成するという企画があった。
  この番組に出演した古田は投手のイの一番で岩瀬を〝指名〟した。その理由がふるっていた。
 「敵からすると、彼が出てきた時点で試合が決まるんです。7回と8回、勝負どころをピシャッと抑えるんですから。しかも右バッターも左バッターも関係ない。
  監督の立場になれば、こういう選手がいればラクです。彼を中心にゲームが組み立てられますから。彼さえいれば、あとはそこそこのピッチャーがいれば勝てますよ」
  13年間、セットアッパー、そしてクローザーとして激務に耐えながら、大きな故障は一度もなし。「無事是名馬」とは、まさに彼のためにあるような言葉だ。
  語気を強めて岩瀬は言う。「丈夫な体に生んでくれた両親に感謝ですね」
■監督が代わって
  8年間で4度のリーグ優勝を達成した名将・落合博満がチームを去り、今季から中日はOBの高木守道が指揮を執る。
  投手部門を担当するコーチの権藤博は就任早々、浅尾拓也とのダブルクローザー構想を打ち出した。
 「二人でクローザーをやったら共倒れになる。せっかく時間をかけて確立してきたものが崩れてしまう」
  キャンプで会った際、岩瀬は権藤案に難色を示していた。クローザーとは本来、専門職である。持ち回りでやるような仕事ではない。岩瀬もセットアッパーとして経験を積み、ベンチの信頼を勝ち得てクローザーに昇格した。その自負が孤独なマウンドを支えている。
  もっともダブルクローザー構想の背景には権藤なりの親心があったようだ。
 「まず浅尾ですが、昨年も一昨年も70試合以上投げている。ヨソが落ちてきたから優勝できたけど、あの使い方はいかんでしょう。僕はアイツを70試合以上使うつもりはない。〝イニングまたぎ〟もやらせない。無理させるとすれば残り30ゲームを切ってからですよ。
  抑えの岩瀬も大切に使いたい。一番後ろで投げるヤツというのは、ものすごいプレッシャーがかかるんです。失敗すればチームの勝利も勝ち投手の権利も一瞬にして潰してしまうわけですから。岩瀬にも原則として〝イニングまたぎ〟はさせない。これだけは守らなきゃいかんと考えています」
  権藤がピッチャーの酷使に批判的なのは、短命に終わった自らの投手人生とも関係がある。社会人のブリヂストンタイヤを経て中日に入団した1年目、69試合に登板し35勝(19敗)を記録した。翌年も61試合に登板して30勝(17敗)をあげて2年連続最多勝に輝いた。
「権藤、権藤、雨、権藤・・・・・・」
  当時は、馬車馬のように酷使される権藤を評し、こんな流行語まで生まれた。だが、投げ過ぎがたたって権藤は肩を痛め、投手寿命は4年で潰える。まさに〝太く短く〟を地で行くようなプロ野球人生だった。
  その権藤、岩瀬を評してこう語った。
 「去年の後半、アイツ、良くなかったでしょう。〝サイドから投げているのか?〟というほどヒジの位置が下がっていた。
  でも今年、実際にブルペンで見るとね。〝オーバースローか!?〟と思うくらいヒジが上がっていた。しかもボールがよく動く。本来、真っすぐとスライダーしかないはずなのに、それが4種類にも5種類にも見える。だから三振がとれなくても、彼は勝てるんですよ。やはり抑えは岩瀬しかいない。それが僕の本音ですよ」
  ここまで小石を重ねるように丹念に積み上げたセーブ数は313。「抑えには似たような状況はあっても、ひとつとして同じ状況はない。決まっていない条件の中で投げるのがおもしろいんです」と岩瀬は語る。
  自らが持つ通算セーブの日本記録はどこまで伸びるのか。幕引きのマエストロが立ち続けるマウンドは賽の河原ではない。
 「週刊現代」2012年3月24日号より
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関連;
落合監督と選手たちとの8年/先発ピッチャー、川崎/情の采配を捨てた理由/物言わぬ指揮官、沈黙のわけ 2011-11-16 | 野球・・・など 
 落合監督と選手たちとの8年
鈴木忠平●文text by Suzuki Tadahira/photo by Nikkan sports 
 [2011年11月11日(金)]
【プロ野球】落合監督と選手たちとの8年(1)『絆~衝撃退任から始まった奇跡』
 監督の落合博満は選手たちをじっと見守っていた。CSファイナルステージ、明日なき覚悟でぶつかってくるヤクルトとの死闘は5戦目までもつれ込んだ。それでも、ベンチの指揮官は確信したように戦いを見つめていた。そして、勝った。2年連続日本シリーズ進出。今季限りで退任する指揮官へ向けて、選手たちがつくってくれた花道は、日本最高の舞台まで続くことになった。
「オレは何もしていないよ。見ていただけだ。強かったな。選手たちはすばらしい」
 勝利の後、落合は言った。就任以来、指揮官がこれほど選手を信頼し、褒めたことはなかった。今、落合竜は特別なテンションで走り続けている。
 落合と選手たちの花道。始まったのは、ペナントレース終盤の9月22日だった。4.5ゲーム差で迎えた首位ヤクルトとの直接対決4連戦。その大一番の開始3時間前、球団が落合の今季限りでの退任と、次期監督に高木守道氏が就任することを発表したのだ。
「なぜ、今なんだ!」
 異例とも言える発表のタイミングと、球団首脳の対応に、現場からは怒りの声が上がった。ただ、普通のチームならば失速してもおかしくない状況で、選手たちは怒りを意地に変え、激情をエネルギーに変えて、目の前の勝負に没頭した。
 そして、2日後の9月24日、ヤクルト戦、チームは谷繁元信のサヨナラ打で劇的勝利を飾った。退任発表からの3連勝で球団史上初の連覇を完全に射程圏にとらえた。監督退任という衝撃をも乗り越え、自分の仕事を全うした選手たちを見て、落合の胸にはこみ上げるものがあった。試合後、そんな選手たちへの思いを異例の行動で表現した。ベンチに戻ってきた谷繁の頭をなでまわした。その目は涙でぬれていた。
「オレはここにきた時、あいつらに言ったんだよ。『お前ら、球団のために野球やるな。自分のために野球やれ。オレは勝つことだけを考える。勝つことに徹する。だから好き嫌いはしない。いい者を使う。勝敗の責任はオレが取る。だから、自分の成績の責任は自分で取れ』ってな。あの日、ヤクルト戦を見て、『ああ、あいつら、やっとオレの言ったことがわかったのかな』って」
 落合が8年間、選手たちに求めたもの。それはただひとつ「プロフェッショナル」だった。そのために、選手との間に一切の「情」を排除した。個人的に選手と食事に出かけたことはない。頑張れと言ったことも、期待していると言ったこともない。その代わり、技術を認めれば、グラウンドに送り出した。
 理想の野球とはどんなものか。落合に聞いたことがある。
「オレの理想の野球って何か。みんなわかっていないよ。1点を守るとか、足を使うとかではない。競争を勝ち抜いた奴らで戦うことだ。お前ら(チーム内で)白黒つけたんだから、今度は相手と白黒つけてこいって。そうすれば、監督は何もしなくていいんだ」
 守りの野球はあくまで勝つための方法論だった。激しい競争を勝ち抜き、指揮官の助けすら必要としないプロフェッショナルを9人、送り出すこと。それこそが、落合の理想の野球だった。だから“9・22”の退任発表以後、「監督のために」などと期待する気持ちはさらさらなかった。それより、選手たちが異常な状況の中でも、自分のために戦う姿が落合にはうれしかった。谷繁に見せた異例の行動は、指揮官が初めて選手たちを認めた証だった。成熟したプロ集団の象徴として、40歳にして頭をなでられた谷繁も誇らしげだった。
「監督が泣いているのは知っていたよ。オレはあの時、ああ、落合博満という人に認められたんだなと思った。だって今までそういうことをしなかったし、そういうことをする人じゃないから」
 それ以降、落合はただ、選手を見守っていた。何も言う必要がなかったからだ。10月18日の横浜戦、監督として5度目の優勝を決めた。連覇も、10ゲーム差の逆転優勝も球団初の快挙だった。そして、11月6日、CSファイナルステージで最後まで食らいついてきたヤクルトを振り切り、2年連続日本シリーズ進出を決めた。落合が確信した通り、もう選手たちに指揮官の言葉は必要なかった。
 ふたつの戦いを制した夜、ともに落合は6度、宙に舞った。印象的だったのは手を差し伸べる選手たちの目にも、歓喜の空を見上げる落合の目にも熱いものが光っていたことだ。 8年間、両者の間に「情」など存在しなかったはずだった。あったのは、チーム内競争に勝つための、そして相手球団に勝つための戦いのみ。だが、そんな両者の間にいつしか熱いものが生まれていた。それは「絆」ではないだろうか。好き、嫌いの感情を超えた男同士の絆。飽くなき戦いによってのみ生まれるプロ同士の絆だったのはないだろうか。
「こういう選手たちに恵まれて、オレは幸せだよ」
 8年間がすべて報われるような花道の道中。落合は幸せそうに笑っている。(つづく
 [2011年11月12日(土)]
【プロ野球】落合監督と選手たちとの8年(2)『改革~オレ流の常識は球界の非常識』

        
*落合監督就任1年目の2004年、開幕投手を任されたのは3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎だった
「本日の先発ピッチャーは、ドラゴンズ、川崎」
 2004年、中日対広島の開幕戦、試合前のアナウンスにスタンドがどよめいた。その衝撃は瞬(またた)く間に全国へと広がっていった。新監督・落合博満が3年間も登板のない川崎憲次郎を開幕投手に抜てきした。「オレ流」。現役時代からの型破りなイメージを指揮官としても決定づけた。当の落合はそんな周囲の反応をどこか、楽しむかのように、また、真意を胸に秘めるかのようにベンチで含み笑いを浮かべていた。
 開幕・川崎の衝撃から遡(さかのぼ)ること数カ月、まだ、吐く息が白い季節に落合は中日ドラゴンズの白井文吾オーナーと契約を交わした。5年間、優勝から遠ざかっていた球団を根本的に建て直すため、グループ総帥は指導者経験のない一匹狼に白羽の矢を立てたのだ。
「このチームを変えたい。勝てるチームにしてほしい」
「わかりました」
「改革」と「勝利」。契約書にも記されたこのふたつの使命を請け負った。すでに落合の頭には幾つかの「策」が渦巻いていた。それらを、水面下で静かに実行に移していった。
 1月2日、正月を和歌山県内にある落合記念館の別荘で迎えた落合は、リビングから1本の電話をかけた。
「開幕はお前で行こうと思っている。そのつもりで準備してくれ。もし、だめなら、1週間前までに言ってこい」
 電話の先にいたのは川崎だった。2000年オフにヤクルトから4年総額10億円でFA移籍した右腕は右肩痛で、3年間、一軍のマウンドに上がれていなかった。限界説もささやかれていた。大金をはたいた末の補強失敗と批判もあった。落合はそんな、チームの最も暗く、沈んだ部分に目をつけたのだ。
 一方、2月の沖縄キャンプが近づくにつれ、名古屋でオフを過ごす中日の選手たちからはこんな声が聞こえてきた。
「本当にやるの?」
「無茶でしょう」
「オレたち、壊れちゃうよ」
 どうやら、新監督はキャンプ初日から紅白戦をやるつもりらしい……。第1クールは8勤、その後は6勤が続くらしい……。そんな情報が漏れ伝わっていた。
 そして、迎えた2月1日、他の11球団がジョギングからキャンプをスタートする中、落合竜の北谷(ちゃたん)球場には季節外れの「プレイボール」が響いた。前年、右肩痛でほとんど投げられなかったエース川上憲伸が148キロの剛速球を投げ、立浪和義、福留孝介ら主力打者がフルスイングした。「オレの予想を超えていたよ」。その姿を見た落合は満足そうに言った。そして、予告通り、翌日から8勤、6勤、6勤、6勤のハードキャンプを敢行した。あまりの過酷さに故障者は20人に上った。それでも平然と選手たちの動きを見つめていた。
 落合は今、当時の真意をこう語る。
「最初にこのチームを見て『ああ、練習してないな』って思った。だから、8勤、6勤、6勤でいった。みんな大変だったと思う。でも、シーズンに入ったら週に6日間試合やるのに、なんでキャンプだけ4日やって休みなんだ。そう考えれば、当たり前なんだ」
 当時、キャンプと言えば3勤か、4勤1休だった。第1クールは体づくりから入り、徐々に実戦練習をしていくのが普通だった。落合はこの常識を真っ向から否定した。だが、ロッテ、中日、巨人、日本ハムと現役時代の落合博満に、およそ猛練習のイメージはない。なかなかバットを握らず、バットを持ったかと思えばエアーテントにこもっての秘密練習というオレ流調整ばかりが思い浮かぶ。だが、じつは、落合には現役時代から抱いていたキャンプに対する疑問があった。
「オレが現役の頃は、バッティングをしないと練習していないと見なされた。でも、オレは2時間も3時間もノックを受けていた。下半身ができないうちにバットは振らないという持論があったから。でも、あの当時の人たちは、そこは見てくれなかった。『打撃=練習』だった。打撃しないと、ああ、あいつは練習してないなって思われたんだ」
 試合をやるためには、投げなければならない。打たなければならない。そのためにはどんな準備をしなければならないか。2・1紅白戦も、6勤1休も、プロ野球選手として、当たり前の「土台づくり」を意識させるための手段だった。2月1日に試合をやることより、1月の自主トレから下半身をつくらせることが狙いだった。6勤という猛練習をすることより、シーズンの基本となる6連戦に体を慣れさせることが狙いだった。球界では「非常識」と言われたオレ流キャンプは、じつは落合の中では「常識」だった。それを選手に理解させるためには、言葉で説明するより実践あるのみ。数々のサプライズは、選手、スタッフの意識を改革するためだった。そして、その仕上げが「開幕投手・川崎」だった。
 2004年4月2日、川崎は2回途中5失点でKOされた。だが、チームはその後、広島のエース・黒田博樹から逆転勝ち。開幕3連勝を飾ると、リーグ優勝へと突っ走った。落合は大方の予想を覆して、就任1年目で優勝を果たした。「非常識」と批判された落合流の手法は一転して、称賛の的となった。
 8年間、最も印象に残っている勝利を問うと、落合はこう言う。
「最初がなければ、次もない。そういう意味で言えば2004年の最初の試合だろうな。まわりは奇襲とか言うけど、オレにはまったくそんなつもりはなかった。あのチームは補強なし、全員横一線で始まった。川崎が投げることで『オレたちもやれる』って思わせる必要があった。それに1、2戦で連敗しても3つめは(川上)憲伸で勝って1勝2敗にはできるかなって。最悪の3連敗を避けることも考えた。そしたら5点差をひっくり返して勝つんだもんな(笑)。もし、あの年に負けたら、選手はどうせ練習しても勝てないと思っただろう。やったことに成果が出たから、オレの練習が普通になっていったんだ」
 8年間、すべてAクラス、リーグ優勝5度。自らの使命である常勝軍団をつくり上げた。ただ、それらは2004年に断行した意識改革と、それに伴った結果がなければ成し得なかったという。確かに、もし、負けていれば、2・1紅白戦も、6勤1休も受け入れられなかっただろう。落合の「常識」は球界の「非常識」として葬り去られただろう。だからこそ、落合は監督として最初の勝利を忘れない。落合改革の象徴となった、あの1勝を忘れないのだ。(つづく
 [2011年11月13日(日)]
【プロ野球】落合監督と選手たちとの8年(3)『勝利~三冠王がたどり着いた守りの野球』
「改革」と「勝利」。ふたつの使命を負った落合はまず、意識改革に着手した。2・1紅白戦、6勤1休キャンプ、そして開幕投手・川崎憲次郎……。懐疑の目で見られながらも、徐々に選手たちの心に変革を起こしていった。球界の常識を覆(くつがえ)していった。ただ、その改革を本当に成功させるためには結果が必要だった。では、いかにして勝つか。この点で、落合は就任当初からまったく迷いがなかった。
「オレは今でもホームランさえ狙わなければ4割打てたと思うよ。ボールに負けないようにと思うから、余分な力が入ってずれるんだ。でもな、打者ってのはどれだけ打っても4割までなんだ。でも、守りなら10割が可能なんだ」
 投手を中心とした守りの野球――これは落合が野球人生を通じて到達した「勝利の鉄則」だった。打撃を極めた三冠王が監督になった。豪快に打ち勝つ野球を見たいと思うのがファン心理だろう。だが、落合は打撃を極めたがゆえに、その限界を知っていた。そして、何よりも確率(数字)を重視した。
 落合は”数学者”でもある。とにかく数字に強い。現役時代、首位打者を争っている最中は日々、自分の打率、ライバルの打率を計算しながら何カ月も先を見越して、タイトル獲得の戦略を立てていたという。
「月にこれだけ打てば、こうなるだろう。だったら、きょう何本も打ったから、明日は打てなくても大丈夫だなって。そう考えれば余裕ができるんだ。今の選手は数字に弱いな。オレなんか究極のことを考えていたよ。たとえば開幕の最初の1打席、ヒット打って、あとは全部四球を選べば、打率10割だろ? 首位打者だろ? そう考えなければ、数字なんて残せやしないよ」
 打者は日々、上下動する打率を意識しない傾向が強いが、落合は真っ向から数字と向き合う。グラウンド外でもそうだ。オフに税理士が自宅に集まって報告をした際、落合は明細書をひと目見て指摘した。「これ、二重で振り込まれているぞ」。税理士が慌てて調べたら、その通りだったという。4割より、10割。数学者・落合が勝つための手段として「守り」を選択したのは当然だった。
 守りの野球の中心は絶対的に投手だった。落合は沖縄でのキャンプ。そのほとんどの時間をブルペンで過ごした。グラウンドに出なくても、ブルペンにいかないことはない。それほど投手を重視した。
「野球は投手がボールを投げないと始まらない。誤解されているけど、野球で攻めることができるのは投手だけなんだ。打者はいつも受け身なんだよ」
 キャンプ地のブルペンを倍の広さに改造した。他球団からトレードの申し込みが舞い込んでも、投手に対するものは、ほとんどすべて断った。毎年、チームには必ず計算できる先発投手が12人はいた。通常、ローテーション投手は6人だが、落合とヘッドコーチの森繁和はその倍の人数を揃えていた。落合竜が、近年、ずっと投手王国と呼ばれていたのは必然だった。
 そして、落合は投手をバックアップする守備陣にも一切、妥協しなかった。守ることへの執念。その最たるものは、2009年、当時、6年連続ゴールデングラブ賞受賞中だった荒木雅博と井端弘和の二遊間コンビの入れ替えを明言したことだろう(実際に断行されたのは2010年から)。おそらく、このコンバートを正解だと思っていたのは球界で落合だけではないだろうか。それほど周囲からは批判を受けた。特に、肩に不安のある荒木を遊撃で起用することにチーム内からも異論が出た。コーチ陣が撤回を求めて直談判したこともあった。ただ、落合は頑として耳を貸さなかった。
「オレの評価と周りの評価は違うんだ。他のだれでもない。オレができるって言っているんだから、できるんだ!」
 一般的に守備力はボールを捕った後、いかに処理するかで判断される傾向がある。捕球から送球までを華麗にさばけば「名手」と言われることも少なくない。だが、落合はむしろ、その前の段階を重視する。キャンプでもシーズン中でも、落合は同じ場所から選手の動きをじっと見ている。この「定点観測」によって選手の綻(ほころ)びを見つけるのだ。同じ場所に飛んだ打球にどの選手が追いつけて、どの選手が追いつけないか。また、昔は追いつけた打球に、今は追いつけているのか。落合の目には、一目瞭然だった。
 アラ・イバのコンバートに次いで衝撃度があったのは2006年の「立浪外し」だ。その年のシーズン中盤、主力打者で、精神的支柱でもあったミスター・ドラゴンズ立浪和義をスタメンから外した。立浪が2失策した試合、途中でベンチに下げた。そして、翌日にはスタメン表に名前を書かなかった。理由は明確だった。
「三遊間を打球が抜けていくんだよ。その範囲が年々、広がってきた。オレが座っているところからは、それがよく見えるんだ」
 試合中、一塁側ベンチの左端に座っている落合の正面には三遊間が見える。そこへ打球が飛ぶ。立浪の横を抜けていく。その範囲が年々、拡大していくのを見て、落合は断を下したのだ。立浪を外すことは、チーム内に影響を与えるだけでなく、地元メディアや、評論家などに批判される恐れもあった。だが、落合野球には“聖域”など存在しなかった。いくら打てても、守れなければ試合には使わなかった。1本のヒットを打つことより、1本のヒットを防ぐことを重んじた。レギュラーには「打者」である前に「野手」であることを要求した。それこそ「10割」を追求する落合野球だった。
 8年間で、優勝4度、Aクラスから外れたことは1度もなかった。通算勝率5割6分2厘。確率論から、守りの野球を選択した落合の判断は正しかった。改革と勝利。落合は今、自分に課せられたこのふたつの使命を果たしたと自負している。(つづく
 [2011年11月14日(月)]
【プロ野球】落合監督と選手たちとの8年(4)『非情~情の采配を捨てた理由』
「非情」と「冷徹」。どちらも監督・落合を表現する言葉だろう。表情や言葉が少ないだけにもともと情が薄いと受け取られやすい。ただ、このイメージが決定的になったのは、中日を半世紀ぶりの日本一へと導いた2007年の日本シリーズだった。
 11月1日、日本ハムを本拠地に迎えた第5戦、中日が日本一へ王手をかけたこの試合で先発を務めた山井大介は驚くべき快投を見せた。ストレート、スライダーとも抜群に切れていた。まったく相手を寄せつけず、8回までひとりの走者も許さなかった。日本シリーズで初めて完全試合が達成されるのか。イニングが進んでいくにつれ、すべての視線が山井に注がれていった。
 そして、敵も、味方も、球場全体がプロ野球史上初の快挙を待ち望んでいた9回表、落合は日本中を驚かせる決断を下した。ゆっくりとベンチを出ると、無表情で審判に告げたのだった。

  
「ピッチャー、岩瀬」
 その瞬間、スタンドからは悲鳴が聞こえた。ざわめき、どよめきが、怒号に変わった。やがて、球場全体が山井コールに包まれた。
「ヤ・マ・イ! ヤ・マ・イ! ヤ・マ・イ! ヤ・マ・イ!」
 指揮官の采配に向けられたアンチテーゼ。鳴り止まない山井コールを、落合は表情ひとつ変えず、聞いていた。結果的に岩瀬仁紀が3人で抑え、完全リレーによる日本一は成った。だが、世間は落合中日の快挙を称えるよりも、山井交代への賛否であふれた。野球界を飛び越え、日本中の議論となった。
「野球への冒涜(ぼうとく)だ」
「もう、野球なんて見ない」
 評論家や、ファンからの痛烈な批判があったかと思えば、石原慎太郎・東京都知事は『三国志』から出た故事成語を引用して、こうコメントした。
「これは情実の問題でね。トップのね、つまり、球団の経営というか実績というものを知っている球団のCEOとしてはね、私はやっぱり落合というのは見事だと思う。本当に。泣いて馬謖(ばしょく)を切ったんですよ。私はやっぱり落合のやったことは絶対に正しかったと思う。本当のリーダーってなもんですな」
 賛否は真っ二つに割れた。ただ、山井交代の賛否を今さら論じても意味がない。いずれにしても、この試合こそ「非情」が落合の代名詞になった瞬間だったのだ。
 ただ、そんな落合が、じつは自らを「情」の指揮官だと認識していたことは意外と知られていない。象徴的なのが過去2度の日本シリーズだ。2004年、落合は就任1年目でリーグ優勝を果たし、西武との日本シリーズに臨んだ。分岐点となったのは1勝1敗で迎えた敵地での第3戦だった。6―4とリードした7回一死二塁、落合はマウンドの岡本真也に交代を告げに向かった。この時、立浪和義、谷繁元信ら主力選手が言った。
「岡本でここまで来たんですから、岡本でいかせてください」
 リーグ優勝に貢献したセットアッパーに対し、落合にも同様の感情があった。交代を撤回してベンチへ。だが、その後、岡本は逆転弾を浴びて敗れた。結局、4勝3敗と1勝差で日本一を逃しただけに、悔やんでも、悔やみきれない1敗となった。
 雪辱の機会は2年後、2006年にめぐってきた。相手は日本ハムだった。リーグを圧倒的に制したこの年、落合には自信があった。荒木雅博、井端弘和の1、2番コンビが出塁し、3番福留孝介、4番ウッズ、5番アレックスの主軸が待ち構える。投手陣ではエース川上憲伸、守護神・岩瀬がいた。攻守ともに完成度の高い、このチームを落合は8年間で「最強」と評する。そして、そう自負するがゆえ、ペナントレースとまったく同じオーダーで望んだ。だが、シリーズになった途端、別のチームになった。あれほど頼りになった福留、ウッズをはじめ主力が揃って不振に陥った。1勝4敗。惨敗だった。同じ過ちを2度繰り返すことを嫌う。そんな落合が短期決戦で2連敗した。心中はいかほどだったろうか。この屈辱が「情」の落合を「非情」に変えたのは間違いない。
 山井を交代させたあの日、落合は最初、右手のマメがつぶれていたことを理由に挙げたが、本当の理由は違うと思う。日本一の歓喜と、非情采配への賛否が渦巻くドームを去る間際に、落合はこう漏らしていたからだ。
「今年はオレが情を捨てたんだ。こっちはどうしてもシーズンで頑張った選手をシリーズでも使いたくなる。でも、それじゃだめなんだ。監督というのは選手、スタッフ、その家族、みんなを幸せにしないといけない。ひとりの選手にこだわっていてはいけない」
 特定の選手に期待し、こだわった結果、チーム全員が目的地までたどり着けなかった。日本シリーズで過去2度、犯した過ちが落合の胸には残っていた。「山井交代」の裏には指揮官としての激しい自戒の念があった。
 非情――初めて日本シリーズを制したあの日以来、落合はこう表現されることを恐れない。なぜなら、それは勝利への必須条件だからだ。人間として自然に湧き出てくる情を封じ込め、指揮官としての非情を貫くことができた。あの瞬間から、落合は本当の意味で常勝監督になったのかもしれない。(つづく
 [2011年11月15日(火)]
【プロ野球】落合監督と選手たちとの8年(5)『逆風~物言わぬ指揮官、沈黙のわけ』
「言葉が足りない」――今年9月、落合の今季限りでの退任が発表された。7年間で4度も優勝した監督がなぜ、事実上の解雇となったのか。その原因としてよく指摘されたのがこの部分だった。采配や、故障情報など内部情報をメディアや球団に説明することはほとんどない。それが内外からの批判につながったというのだ。

         
 だが、落合はじつは雄弁家だ。今でも価値観を共有する野球人との話は夜を徹して続くことがある。言葉が足りないのではない。意図的に黙しているのだ。今シーズン、試合後の3秒会見が話題になった。「動けているから、いいんじゃないか」。日々、ひと言だけ残して去っていく。その理由をこう話していた。
「オレがなんか言ったら言葉尻だけとらえられて、書かれる。だったら、何も言わない方がいいじゃないか。オレの言葉を理解するやつは何人かいるかもしれない。でも、理解しないやつの方が多いんだ。昔から散々、そういう目に遭ってきたから、わかるんだ」
 自分の言葉は誤解を生む。現役時代、筆談でしか取材を受け付けなかったこともある落合は、おそらく昔から、それを知っていた。落合は秋田の和菓子職人の家に生まれた。祖父の職人としての仕事を見ていた。職人は余計なことは言わない。愛想も振りまかない。ただ、その仕事でのみ、己を語る。そんな気質はそのまま今、監督・落合にも当てはまる。
「オレは嫌われたっていいよ。だれか、オレを嫌いだという奴がいても、オレはそいつを知らない。だから、建前は言わない。建前を言うのは政治家に任せておけばいい」
 落合は政治家が嫌いだ。建前が嫌いだ。だから、その口から出るのはオブラートなしの、むき出しの言葉となる。建前は時として自分の身を守ってくれるが、本音は他人も、自分も傷つける。落合はそれを百も承知だからこそ、誤解や批判は恐れない。
 2008年、落合に「WBCボイコット騒動」が降りかかった。第2回WBCの日本代表候補に選ばれていた中日の4選手が全員辞退した。日本代表・原辰徳監督は不快感を示した。
「1球団だけ協力的でないところがあった。非常に残念です」
 これを発端に中日と、落合は猛烈な批判にさらされた。「落合中日、WBCボイコット」、「非国民球団」。これを受けた落合は、翌日、冷静に反論した。
「選手は一個人事業主だし、生活権もある。ケガしたら誰が保証するの? 行きたくない奴(やつ)を無理に行かせてケガしたら責任を取れない。出たい奴は出ればいい。ウチは4人の意思を確認し、それを尊重しただけだ」
 岩瀬仁紀は背中と首筋、森野将彦は左ふくらはぎ、若い高橋聡文と浅尾拓也は肩の故障でシーズン中に二軍落ちしていた。選ばれた4人の意思を確認した結果、揃って辞退することになったという。さらに落合は上原浩治(巨人)、宮本慎也(ヤクルト)の”代表引退”が認められていたことも指摘した。
「なぜ一部の選手は配慮されて、ウチだけ悪ものにされるのか。非協力的ってのは筋違い。NPBの人間でも、代表監督でも言いたいことがあったら来ればいい。説明してやるよ」
 この反論の後、日本代表側からは何の反応もなかった。どちらが正しいのか、決着はつかないまま、論争は終わった。ただ、世間のイメージだけは完全に決まった。落合には”悪役”という看板だけが残った。
「あんたは普段から言葉が足りないよ。なんで、もっと、説明しないの?」
 信子夫人に言われたことがある。落合は笑みを浮かべてこう言った。
「オレのやってきたことはオレが死んだ後、世間に認められるんだろうな。そういうもんだ。だから、今は何を言われても胸を張っていればいいんだ」
 ただ、外からは批判を招きやすい、落合の言葉も、こと野球に関しては強力な武器となる。落合は選手を褒める時も、叱る時も、やはり純度100%の言葉を浴びせる。遠慮も、情もない、混じりっけなしの言葉は、そのまま監督・落合からの評価だ。それが選手にとって己の力量を計る指標となる。
「お前、このままだと今年で引退だな」
 今季から加入したベテラン佐伯貴弘は、落合からこう言われ続けてきたという。実績のある選手ならば、腹を立てそうなものだが、佐伯はグラウンドでも、ベンチでも、落合の言葉を求めて、耳をそばだてる。
「落合監督の言葉っていうのはそのまま受け取ればいいと思う。いいものはいい、だめなものはだめ、と言ってくれる人だから。おかげで、サビを落とせたよ」
 中日から戦力外通告を受けた佐伯は、今、現役続行を心に決めている。地球の裏側に行ってでも、やろうと決めている。落合の言葉がベテランの心に、火をつけたのだ。
 また、この8年間、落合から最も叱咤(しった)されたであろう荒木雅博はこう言う。
「監督から『頑張れ』なんて言われたことはない。どこがいいか、どこが悪いか。そこを指摘される。あの人がいいと言ったらそれは本当にいいんだと思うし、だめと言ったら本当にだめなんだなと思える」
 本音むき出しの言葉だからこそ、選手からは信頼される。技術を追求するプロ同士の間には建前など邪魔なだけなのだ。外に向ければ「毒」となる落合の言葉は、内に向けては「薬」となる。職人の言葉は、職人にしか理解できないということなのだろうか。
 曲解されるくらいなら沈黙を選ぶ。自分を曲げるくらいなら孤独を選ぶ。そのスタイルが正しいとは思わない。ただ、確実に言えるのは、落合は今後もスタイルを変えないということだ。これからも、誤解や、批判や、論争とともに歩んでいくだろう。建前なんて似合わない。それでこそ、落合博満なのだ。
(完)


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