粟谷能の会
『楊貴妃』を演じて ー会者定離の響きー 粟谷明生
今年(十五年度)の喜多流自主公演では十一月に『楊貴妃』を勤めました。
『楊貴妃』は、『定家』『小原御幸』と並び、三婦人と呼ばれ、貴い女性を描く位の高い曲です。絶世の美女の波乱にとんだ生涯を、格調高い言葉で謳いあげた白楽天の「長恨歌」を題材にして、金春禅竹が創作したものとされています。観世栄夫氏は「禅竹は世阿弥の整った作品よりも一つ影がある、能の言葉としても暗い影、奥行きがあり、そこに惹かれる」と言われ、私自身も幽霊ではない死者という不思議な立場のシテを演じてみて、その心情の深みを感じとれたことが驚きでした。我が家の十代寿山公の伝書には「鈔云ク、一番ノ心持結構トモテナス事、楊貴妃二極リ多リ」と『楊貴妃』が女能の中で真の能であり、位の高い曲であることが書かれています。通常、能の演出は、死んだ人間(シテ)が現世に現れますが、『楊貴妃』は現世の人間(ワキ)が死者の国へ行くという逆の構造です。禅竹は世阿弥とは違った発想で、死者の内情、内面を生者の方が引き出す斬新な手法を『楊貴妃』に取り入れ成功しています。
・動きの少ない能・
『楊貴妃』の謡は長恨歌の原文を崩さずうまく導入された名文ですが、シテの型の動きは非常に少なく、謡の曲とも言えます。演能前に父や能夫が、「『楊貴妃』は謡の曲ということにつきる」と話していましたが、舞台を勤めながら「なるほどこのように謡うのか」と教えられました。しかし、動きの少ない曲は、どうしても観客は退屈してしまいます。こういう曲こそ、いかに観客の心をつかむかが大事だと思いますが、静止した時間の連続を飽きさせないようにするのは容易ではありません。それなりの工夫が必要ではないでしょうか。演者自身の舞台へのエネルギーのかけ方は当然のことながら、それ以外にも装束や面、作り物にもこだわりを持ち、できる限り退屈させないようにと考えました。
・装束の工夫・
装束は近年、他流では舞衣などを着用する時もあるようですが、室町後期の代表的な能伝書「八帖花伝書」には「女御・更衣・其の他公家・上臈の御風情信りたる能、いかにも気高く美しく華やかに、いろがさねに念をいれ、出立べし。まづ、上着ハ唐織を本とせり。<中略>楊貴妃、取分唐織本なり…」と、装束はやはり唐織であると書かれています。今回は、本家のお弟子様(宇都宮粟谷会の原田寛子氏)のご協力により、氏の所蔵される唐織を拝借させていただきました。萌黄と白の花筏市松段模様の唐織は歴史を感じさせるすばらしい逸品です。落ち着いた色合いながら、舞台に上がるとその華かさは輝きを増し浮かび上がるようだったと、ご覧になられた方の感想でした。時代を経た本物を着られることは、能楽師として無上の喜びであり、原田様に感謝しています。
・面の工夫・楊貴妃の生涯と容姿から・
面は上掛りでは増女や若女を使いますが、喜多流は小面が本来とされています。しかし楊貴妃の生涯を思うと可憐な小面で演じるには少し抵抗を感じます。
楊貴妃は十七歳で玄宗皇帝の息、寿王の妃となりますが、翌年皇帝の武恵妃が薨(みまか)ってしまいます。九年の月日が経ち、或者が皇子の妃、揚氏の容色が殊に勝れていることを皇帝に説いたので、皇帝は皇子には韋昭訓の女を授け、皇帝の貴妃として迎え入れてしまいます。楊貴妃は前夫の父親と再婚するという極めて異例なこととなります。帝六十歳(六十一、六十二歳とも)、楊貴妃二十七歳のときです。歌舞に長じ穎悟(えいご)の貴妃は皇帝の寵愛を一心に受け、揚家一門を悉く要職につけますが、皇帝の政はこの時分より疎かになるようです。その後、安禄山之乱が起こり、皇帝の家臣によって楊貴妃は馬嵬が原で殺され、三十八歳の生涯を閉じる運命となります。皇帝との幸せな時間を失った喪失感の深さ、会者定離の無常観がこの曲の主題といえるのではないでしょうか。これらを考えると可憐な乙女の小面では少し辛いように思うのですが。
話はそれますが、楊貴妃はふっくらと豊満な肉体だったといわれています。茘枝(れいし、またライチー)が大好物は有名ですが、手羽先もまた好物だったようで、鳥のゼラチン質がふくよかな身体や、つるつるのお肌を維持するには最適らしく、それがまた皇帝のお好みでもあったようです。そういえば以前中国旅行で華清池に行ったとき、そこで見た楊貴妃の像も、上村松園の描いた楊貴妃もぽっちゃりとした豊満な姿です。
そのことと、皇帝と霓裳羽衣の曲を楽しんでいた時期を思えば、小面もしかりとは思うのですが、ロンギで謡う「我はまた何なかなかに三重の帯、廻り逢はんも知らぬ身に・・・」と、別れのつらさと恋慕の悲しい思いで帯が三重にも巻けるほどに痩せてしまった、ということですから喪失感の深さは並々ならぬものがあり、本来は増女の選択の方が似つかわしいとも思うのです。しかし、今回は自主公演という流儀の公式行事でもあるので、敢えて流儀の決まりを守り、我が家にある小面の中から少しでも艶を感じる面として「眉」の銘のついた小面を使ってみました。
・作り物の工夫・
作り物の宮は、普通四本柱に白帽子(しろぼうじ=さらし布)を巻くだけですが、先代の喜多実先生のころから、『楊貴妃』に限り赤帽子(ぼうじ)で巻くようになりました。今回は更に、赤帽子の上に紅段を螺旋状に巻きつけ柱の柄としてのイメージをより強調してみようと試みました。
小書「玉簾」は、宮の作り物の前方と左右に鬘帯を多数垂らし、帳や簾に見せ楊貴妃の姿をあらわにせず、また宮殿の豪華さを演出するものですが、今回は後面と左右に鬘帯を垂らしてみました。これは以前に故観世銕之亟先生がなされて、とても綺麗で舞台効果があったという能夫の助言からの試みです。この演出は引き回しを下ろしたときに、シテの姿が一段と栄えて見え、後方の囃子方との距離も置ける効果があります。作り物の宮は中国の蓬莱宮という未知の世界の宮殿という設定です。作り物は能楽界では簡素化された適応性の良さ、持ち運びの便利さが売りということはありますが、現況の舞台活動で日本と中国のものが同じでよいという気風は気になります。『大社』や『竹生島』に使用する宮と同じものが舞台に出てきては、観客は中国蓬莱宮を想像しにくいのではないでしょうか。私は中国らしさを少しでも出したいと思いました。従来の喜多流の引き回しの色は紫でしたが、近年萌黄や茶色のものも揃い、最近友枝家が緋色をお作りになりましたので、それを拝借することにしました。緋色を使うことで古代中国人の空想した仙界のイメージや華やかさが表現できたらと思いました。そして屋根にも蓬莱宮らしい工夫が施せないかと考え、今回特別に長絹の露(つゆ)を飾り結びにし、瓔珞をイメージして取り付けてみました。効果のほどは、いかがなものか、ご覧になられた方のご意見は様々のようです。
・シテ謡・
舞台の進行はまず、引き回しをかけた宮の作り物が大小前に据えられます。蓬莱宮と見立てられた作り物の中に、シテはじっと床几(鬘桶)に座って出を待ちます。ワキ(方士)の名乗り、楊貴妃の魂魄を訪ねる道行があり、ようやく蓬莱宮のある常世の国に着いたと説明します。アイに太真殿の場所を教わると脇座に着きます。ここまですでに三十分程の時間がかかります。
シテは作り物の中から「あら物凄の宮中やな。昔は驪山の春の園に共に眺めし花の色…」と謡います。ここはシテが最も気品をもって謡う聞かせどころですが、引き回しの中からの謡のため、か細い声では見所には届かず、馬鹿声をはりあげたのでは作品にふさわしくなく、難しく苦心する所です。
観世流、宝生流の上掛り(かみがかり)は「あら物凄の宮中やな」の謡はなく、「昔は驪山の春の園に・・・」から始まりますが、金春、金剛、喜多の三流の下掛り(しもがかり)は「あら物凄の宮中やな」と二回繰り返し謡い、「昔は驪山の・・・」と続けます。最近は観世流の方でも「いきなり、昔は驪山の・・・などとは謡えないね。あら物凄の・・・という導入があるほうが良いですよ」と言って謡われている方もいらっしゃるようです。
小鼓の大倉源次郎さんは故観世銕之亟先生から「あら物凄の宮中やな」の謡のイメージについて「例えば、敦煌あたりの一面砂ばかりの広大な大地に、一陣の風がシューッと吹く、すると砂がむくむくと立ち上がって形を成していく。それは宮殿であったり、楊貴妃の体になったりする。そんな雰囲気を想像して謡ってはどうだろうか」と聞かされたそうです。このような話を沢山聞いた源次郎さんは「面白い銕之亟先生の発想だなー、能って面白いなあ」と刺激され、「こういうことを教えて下さったからこそ、今鼓打ちやっているのかもしれないなー」と私に明かしてくれました。すばらしい人の深みのある言葉によって、人は衝撃を受け、志や発想が生まれてくるのだと思いました。私自身も諸先輩にいろいろな話をしていただいたことが大変役に立っています。今回の話も、歴史の奥底に埋もれた未知の世界の蓬莱宮のイメージやそこに佇む楊貴妃の面影が幻想的に、私の脳裡に浮かび上がってきたから不思議です。
謡は、声の音量や高低、息の使い方など技術的なことは言うまでもありませんが、しかしそこだけに留まっていては作品や役柄の訴えかけが充分に伝えられないように思います。この曲は何を言いたいのか、主題が何であるかを演じる者自身が理解し体現するという、次の段階の作業に携わらなくては作者や作品に申し訳ない気がします。イメージを演者の体の中に埋め込んで謡えるかどうかで、謡は違ったものになるといわれます。敦煌の砂嵐をイメージしてという先人の言葉は貴重であり、大きな手がかりになりました。自分の中にイメージを広げ、言葉に感情が入って、謡が体に染み込んでくるようにと精進しているのですが、なかなか道は遠いようです。
・ ささめごと・
ワキの方士は蓬莱宮に行った証に、楊貴妃と会って来たしるしのものを所望します。シテは釵(喜多流では冠)を手渡しますが、方士はこの釵ならばどこにでもある品物、これでは帝が信用なさらないでしょう、あなたと帝が人知れず話し合ったお言葉を聞かせて下さい、そうすれば帝も納得なさるでしょうと言います。
ここからが、父がこだわる謡のポイントです。つまり、二人だけしか知らないささめごとのくだりです。同音の「天に在らば願わくは、比翼の鳥とならん、地に在らば願わくは連理の枝とならんと誓いしことを、密かに伝えよや、ささめごとなれども今漏れ初むる涙かな」、ここは心を込めて謡うのだと。ここを乱暴に謡うと、父はかならず「二人は抱きあっているんだ、ベットインだよ。やさしく、静かに、内緒話だろー」と、私が『楊貴妃』というと思い出す言葉なのです。
・シオリ、泣く動作・
この曲は動きの少ない曲ではありますが、シオリという泣く動作の型が頻繁に出てきます。
シオリ(シオル)は喜多流ではシテは左手にて二回、ツレは右手にて一回、下から額に向けて手をすくい上げる単純な動作として行います。『楊貴妃』のシテはこのシオリを六、七回します。
単純な動作ですが、これを無意識な型の複写というだけ、型をなぞるだけで行うと、世界に誇る日本演劇の能としては、ちょっといただけないことになるでしょう。能の演技としてのシオルには、心の作業が必要だと言われます。演者自身の身体の中に悲しさ、ブルーな気持ちになる動作が起こり、すると自然と体が前に倒れ始め、面の受けを曇らせ悲しい表情となる、涙腺が緩んで涙がこぼれ、思わずその涙をそっとぬぐうという一連の動作なのです。これを形だけ真似た所作では本当の強い表現とはならない、父や能夫がしきりにこだわる注意点です。私自身も意識し注意を受けながらも、シオリの大事さを感じました。この単純な型を行うために、能役者は大汗かきながら歯を食い縛って身体を支え、必死にやわらかい手の動きで表現しているのです。ご覧になられている皆さまは、そんなこととはお判りにはならないかもしれませんが、こういう表現方法こそが能独特な世界であると、演者が身体を張って泣いているとご覧いただきたいと思います。
・舞う時期・
「八帖花伝書」には先程の続きに興味ある言葉が書かれています。「太夫三十のうち苦しからず。年よりたるシテはこれを斟酌(しんしゃく)すべし。その子細は年よりぬれば、つまはづれ、身入、身なり、姿かかりまで、若きときに違い、いやしき物なり…」とあります。若々しい肉体の持ち主でなければ楊貴妃の能は見られたものではない、年よりは姿がみっともなくて下品だから遠慮すべきであると、まあこういう意味で書かれています。(雑誌観世、研究十月往来142 小田幸子氏より引用)
華であったあのころを思い起こして霓裳羽衣の曲を舞う楊貴妃、若く美しい女性像を描くという意味ではこの条件もわからないではありません。しかし、役者の人間的な厚みを重要視する現代の能に照らし合わせてみると若く美しければいいという、三十歳以前の演能条件には少し違和感を覚えます。楊貴妃の素性はクセで語られています。「上界の諸仙たるが・・・仮に人界 に生れ来て」と謡われるように、能の中では仙女として描かれています。もともと天上界にいらしたが、縁あって人間界に下りて楊家に育てられた。死後も、蓬莱宮という天界の島に戻り昔を思い悲しく日々を送っている」と。この作品はシテは死んでいるので現在物とは言えず、また幽霊ではないので夢幻能ともいえない不思議なジャンルの曲です。執心に苦しみ、地獄の責め苦にあうといった酷さはなく、あくまでも上品で優雅な旧懐思慕と哀傷の世界です。
しかし一方で、『楊貴妃』を演じるとは、喪失感の深さ、会者定離の無常観を、役者がどれだけ魂を注ぎ謡い、少ない動きの中にも心を動かすという作業ができるかということでしょう。そうでなければ、この作品を生かすことはできないだろうと思います。
会者定離。この悲しい言葉の響きがなんとなく心に染みる年になった自分が、ある程度人生経験を積み、かといってそう年老いてもいないこの時期に、『楊貴妃』という美しくも哀しい曲を勤めることができたということは幸せなことだったと、今思うのです。 (平成十五年 十二月 記)
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能 楊貴妃
■物語
唐の玄宗皇帝は、こよなく愛する楊貴妃を失い、悲しみの余り、魂の在り処を探させます。命を受けた方士(仙界の術を身につけた者)は、天上界はもとより黄泉の国まで訪ね歩き、ついに蓬莱の島で、楊貴妃の魂と出会います。その姿は在りし日と変わることもなく、たとえようもない美しさでした。確かに出会えたしるしにと、かんざしを差し出す楊貴妃に、方士は玄宗皇帝と誓い合った言葉を聞かせて欲しいと頼むのでした。
-天に在らば願わくは比翼の鳥とならん 地に在らば願わくは連理の枝とならん
それは、七夕の夜に変わることのない愛を誓い合った言葉でした。
もともと天上界の仙女であつた楊貴妃は、仮に人間の世界に生まれ、皇帝に見出されますが、誓いの言葉もむなしく、会者定離のさだめのまま、死後はこの蓬莱の島に住む身の上となります。昔を懐かしみつつ舞う楊貴妃。都に帰っていく方士をいつまでも見送り、また悲しみに沈むのでした。
■舞台展開
まず囃子方が着座すると、後見が「引廻し」という布で覆われた作物を、舞台正面の奥(大小前)に据えます。これは蓬莱国の太真殿といって楊貴妃の魂の住まいを表しています。
〈次第〉の囃子で方士(ワキ)が登場し、勅命によって楊貴妃の魂を訪ねて、蓬莱国に向かう由を述べます。
やがて到着した方士は、蓬莱国の者(間狂言)に太真殿に教えられます。
作物の中から、昔を懐かしむ楊貴妃(シテ)の声が聞こえ、方士は勅命によって来たことを告げると、地謡の内に、後見が引廻を静かに下ろします。シテは天冠を戴き、唐織を壺織に着て、緋色の大口(袴)姿にと、方士に手渡します。
かんざしは他にもあるもの。楊貴妃と皇帝しか知らない秘密の誓いの言葉を教えます。
都に帰ろうとする方士を引き止めて、再びかんざしを付けて昔を懐かしみつつ舞う楊貴妃。やがて別れの時が来て、またかんざしを携えて方士は帰って行きます。楊貴妃は見送り、作物の中へ入り、悲しみに沈む様子で静かに座り、シオリ(泣く型)をします。
■鑑賞
能では幽霊が仮の姿で、又は在りし日の姿で現世に現れるという曲が多い中で、蓬莱国(常世の国)に魂を訪ねて行くというところが、不思議な雰囲気を醸しだしている曲です。
大切な人が亡くなってしまうと、残された人は、誰しも魂が何処かに存在し続けていると願って生きているものです。また永遠に変わることのないものへの憧れ。この曲にはそのような心情がこめられた趣き深い曲です。
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柴田稔blog[2008年02月16日]
能「楊貴妃」について
古い中国では、この世の人間が死者の国に行き来できるという、特殊な能力を持った人がいるとされていたようです。
このような人を仙術士とか、道士、方士と名づけています。
「楊貴妃」ではこの仙術士が大切な役割を果たし、死後の国にいる楊貴妃の心の揺れ動きをうまく引き出しているのです。
ふつうの能では死者が現世に幽霊として現れ、過去の物語を語るという形式をとっていますが、「楊貴妃」では現世から死後の世界へと、まったく逆になっています。
それはあたかも現在能のようで、楊貴妃の心の想いが細かに語られてゆきます。
「楊貴妃」は、「定家」、「大原御幸」と並んで三婦人と呼ばれ、高貴な女性の、気品と優艶さを兼ね備えた鬘物の代表作品とされています。
能「楊貴妃」は玄宗皇帝と楊貴妃の悲しい恋の物語だけに焦点を絞り、楊貴妃の歴史的事実には触れられていないようにみえます。
が、じつは能作者はテキストの中にキーワードとなることばをおり込み、楊貴妃の歴史的事実を匂わしているのです。
ここからはまったくの独断と偏見による、柴田流解釈です。あしからず・・・(笑)
舞台ではまず、方士が死後の国・蓬莱宮にたどり着き楊貴妃を訪ねるのですが、そのような者は此処にはいない、しかし昔恋しいやと泣いてばかりいる玉妃が大真殿と書かれた宮にいると教えられます。
「大真」とは皇帝が息子・寿王の妃だった楊貴妃を手に入れるため、道教の尼として出家させた、そのときの名前が「大真」だったのです。
ですからこの「大真」という言葉から、皇帝の息子・寿王の妃としての楊貴妃が浮かび上がるわけです。(この大真という言葉は、能「楊貴妃」だけではなく、もとの「長恨歌」にもでてくるのですが)
また作品の半ば頃に、「その身は馬嵬(ばがい)にとどまり、魂は仙宮に至りつつ・・・」という文章が出てきます。
皇帝は三千人いる妃の中で、楊貴妃だけを寵愛した結果、それを面白く思わないものによって反乱がおきてします。その主導者は安禄山という人物で、皇帝は都・長安を離れ、蜀に逃げてゆくのですが、途中の馬嵬で反乱の責任を取らされ楊貴妃は処刑されてしまいます(38歳)。
この安禄山とは楊貴妃が皇帝の妃になる前、情交があったとされているのです。皇帝60歳、楊貴妃27歳、安禄山42歳。
「馬嵬」という言葉によって、楊貴妃の死と、あとひとつ、かつての恋人だった安禄山という人物が浮かび上がってきます。
曲のおしまい部分、序の舞が終わったあとの詞章で、
「羽衣(うい)の曲、稀(まれ)にぞ返す少女子(おとめこ)が。 袖うち振れる、心しるしや、心しるしや。 恋しき昔の物語・・・」
これは源氏物語「紅葉賀」に光源氏が父・桐壷の帝とその妻・藤壺の宮の前で青海波の舞を舞うのですが、実はこのとき源氏は藤壺の宮を妊娠させていたのです。父の妻、自分の義母にあたる人です。禁断の過ちを犯してしまったわけです。
舞い終わったあと、源氏が藤壺の宮に贈ったうたが、
「もの思うに、立ち舞うべくもあらぬ身の 袖うち振りし心知りきや」
先ほど挙げた能の詞章はこのときの源氏の歌が引用されています。
父、義母、父の妻を犯した源氏、よこしまな関係があります。
これを能「楊貴妃に」にあてて考えてみると、
かつて、霓裳羽衣(げいしょう うい)の曲を玄宗皇帝の笛の演奏で舞った舞を、方士の前で舞って見せたわけですが、光源氏の歌をここに引用したということは、歌の性格からして、楊貴妃と玄宗皇帝、楊貴妃と皇帝の息子寿王、楊貴妃と安禄山これらの関係が浮かんできます。
方士の前で見せた比翼連理の想いで舞った霓裳羽衣(げいしょう うい)の舞は、実は生きていたときの総括としての舞だったのかもしれません。
さて実際に舞台で「楊貴妃」を演じる場合、面は何を使うかという問題が生じます。観世流の謡本では、若女、増、小面、また古くは、深井、というのも型付けにはあります。深井で「楊貴妃」はかんがえられませんねぇ!先日の稽古能では、楊貴妃のことをあれこれ考えて、増の面のつもりで舞いました。
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能 野守
■物語
大和国・御蓋山の麓に広がる春日野。鏡のように美しい池水に、旅の山伏もしばし足を止めて見とれていると、春日野の番人の老人が現れます。山伏がこの池水の謂れを尋ねると、老人は「私のような野守が朝に夕に姿を映すので、この水を“野守の鏡”と呼びますが、真の野守の鏡というものは、昔、この野に住む鬼が持っていた鏡のことです」と教えます。さらに昔、御狩の折に、鷹の行方が判らなくなった時、野守が指し示したこの池水に鷹の姿が映ったという歌物語をします。山伏は一層興味を示し、「是非本物の野守の鏡を見たいもの」と言うと、老人は「鬼神の持つ鏡を見れば、恐ろしいことでしょうから、この水鏡をご覧なさい」と言って、鬼が住んでいたという塚に姿を消します。(中入)
山伏が塚に向かって一心に祈ると、鬼神が鏡を持って現れ、天界から地獄の底まで隈なく映して見せ、大地を踏み破って、再び地獄の底にと帰って行きます。
■舞台展開
まず舞台・大小前に鬼神の住む塚の作り物が置かれます。榊の枝を付け、引廻しをかけてあります。
〈一声〉の囃子で、野守の翁(シテ)が杖を突きつつ登場します。老人といっても、強さを内に秘め毅然とした姿です。春日野の風情を讃えます。山伏に野守の鏡の謂れを語る老人。続いて帝の御狩の時、見失った鷹が水鏡に映ったという和歌の物語の場面は、何といってもテンポのある囃子と謡、型が一体となった前段の見所です。やがて老人は塚の中に姿を消します。(中入)
山伏が塚に向かって一心に祈ると、鬼神が鏡を携えて現れます。唐冠に赤頭を着け、面は〈小べしみ〉、法被(広袖の衣)と半切(袴)に、大きな円鏡を持った鬼神は、威容を示す力強い動き〈舞働〉の後、天界から地獄まで鏡に映して見せます。
■鑑賞
奈良の御蓋山の麓、春日大社・興福寺の近くに広がる春日野・飛火野は、万葉の昔、貴族たちが鷹狩りを楽しみ、今も春日大社の神使の鹿が群れ遊ぶ長閑な所です。古、野守の翁が姿を映したであろう池水や、見失った鷹がその水底に映ったという井戸(“鷹の井”と呼ばれる)が今も残ります。
昔より鏡は、不思議な力を宿すものとして大切にされてきました。人の心はもとより、すべてを映すことの出来る特大の鏡を持って現れる鬼神は、“鬼”とはいえ、獄卒のような暗いイメージではなく、世阿弥が「巌に花の咲かんが如し」と言ったように、力強い美しさを持った神に近い存在です。
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鑑賞の手引き 野守(のもり)
世阿弥作 時:初春 所:大和国春日野、とある沼のほとり
※ 能舞台の前方には、沼があることになっています。
(まず、舞台上に古塚の作リ物が出される)
【前場】
始めに、能登国(石川県)から旅して来た山伏(ワキ)が登場し、辺りの名所などについて尋ねようと、着座して在所の人が通りかかるのを待つ。
そこへ老人(前シテ)が現れ、自分はこの春日野に長年暮らす野守(野原を見張る番人)だと名乗り、当地の興福寺・春日神社の尊さと春ののどかな景色を讃える。
山伏が正面にある由緒有りげな沼の名を尋ねると、老人は「これこそ野守の鏡と申す水」と言い、自分のような野守が朝夕水面に姿を映したことによる名だと教える。また、「まことの野守の鏡は、昔鬼神の持ちたる鏡」だとも言う。
山伏が訳を聞くと、老人は、昔この野には鬼がいて、昼は人と化して野を守り、夜は鬼となって塚に住んだことを語り、野を守った鬼が持っていたから「野守の鏡」というのだと教える。そして舞台正面先に出、沼に自分の老いた姿を映して過去を懐かしむが、昔を慕っても甲斐がないし、鬼の野守が鏡を持っていたという話も遠い時代の伝説だと思い直す。
次に山伏が古歌
はし鷹の 野守の鏡 得てしがな 思ひ思はず よそながら見む
〔ハシタカの居所を映したという野守の鏡を手に入れたいものだ。恋人が自分を思ってくれているかどうかを、それに映して見ることができるだろうから〕に出てくる「はし鷹の野守の鏡」について聞くと、次のような由来が語られる。
昔この野で帝(雄略または天智天皇)の鷹狩があったとき、鷹の行方を見失い、来合わせた野守の老人に尋ねたところ、「ここの沼の底におります」と答えるので、狩人が水面を覗くと、確かに水底に鷹の姿が見えた。よく見ると、それは木の枝に止まった鷹の姿が水鏡に映ったものだった。(老人、狩人が沼を覗き込み梢を見上げる動作を表す)
由来を語り終わると、老人は、かつて帝の威徳の盛んな時代に、賤しいわが身が天皇の心に止まったことを懐かしみ涙を抑える。
山伏が本物の野守の鏡を見たいと請うと、老人は、鬼の持つ鏡なので、見れば恐れをなすだろう、沼の水鏡で満足しなさいと言って、塚の中へ消え失せる。
[里の者が通りかかり、山伏に請われて「野守の鏡」の由来や故事を語り、先の老人こそ野守の鬼の化身だろうと言って、ここで勤行することを勧め退場する]
【後場】 ※同じ日、同じ場所の夜半過ぎ
勤行しながら待ち受けていると、塚の中から声が轟き、鬼神が鏡を手にして現れる。山伏がその眼光を恐れたので鬼神は塚に戻ろうとするが、数珠を押し揉んで祈祷するのに引き止められる。
そして鏡を天地四方にかざし、天界から地獄、亡者の罪の軽重や呵責(かしゃく)の有様まであらゆるものを映し出して見せ、この鏡は鬼神が横道を正す宝の明鏡なのだと示し、奈落の底に飛び入って消え失せる。
◎上記事の著作権は[喜多流 大島能楽堂]に帰属します
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狂言ストーリーズ 善竹富太郎
<18>鏡男(かがみおとこ)
松の山家の者は都に訴訟の用があって長い間在京していましたが、訴訟も思い通りになったので郷里に帰ることにしました。
男は妻への土産に都で売られている鏡を購入し、帰りの道中、鏡のいわれや鏡の便利さなどをしゃべりながら、また自分の顔を映しながら歩いていると、やがて自分の家に着きました。妻が出迎えてくれたので訴訟がうまくいったことなどを話し、土産の鏡を渡しました。妻は鏡など見たこともなかったので、鏡に映った自分の姿を夫の浮気相手だと思い込み、鏡を壊そうとします。それなら他の人あげようと男は妻から鏡を取り上げて逃げてゆきます。
◎上記事の著作権は[善竹富太郎]に帰属します
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公演案内 第9回 若鯱能
2015年6月13日 第9回 若鯱能
(公社)能楽協会名古屋支部に所属する若手能楽師の研鑽と、次世代への普及を兼ねた公演です。地元若手楽師の活動を是非ご支援ください。
*会場 名古屋能楽堂 13時開演 16時半ころ終演予定
*演目 能「楊貴妃」(喜多) 長田 郷/橋本 宰/今枝 郁雄 ほか
*狂言「鏡 男」 藤波 徹/伴野 俊彦/伊藤 泰
*舞囃子「天鼓」(金剛) 羽多野良子 ほか
*能「野 守」(観世) 吉沢 旭/高安 勝久/鹿島 俊裕 ほか
*また同日午前には、育成事業「若鯱研究発表会」公演(10時開演 同所)もございます。
◎上記事の著作権は[狂言共同社]に帰属します
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