『名画と読むイエス・キリストの物語』中野京子著 〈来栖の独白2017.4.17〉

2017-04-17 | 本/演劇…など

〈来栖の独白 2017.4.17 Mon 〉
 じっくり考えることをせず、やり過ごしてきたイエスの受難に臨む心境。
 ぼんやり『名画と読むイエス・キリストの物語』を読んでいたのだが、急に飛び起きるような感じで「うん。然もありなん」と合点した。「そうかぁ、イエスは3度、行きつ戻りつされたが・・・、然もありなん!」。
 そしてイエスに接吻したユダ。いや、その前にユダが見たイエスの眼。中野京子さんの解釈に、全面的に賛同(?)した。
 受難に至るイエスの気持ちと、苦行をやりおおせたイエスの精神が理解できたように思う。「イエス」という御方と受難を人間が理解するのは、これが限界ではないだろうか。
 いろんな本を読んできたが、その中でこの本は特筆すべき本。イエスという御方が、近い親しい存在に思えた。ありがとう、中野京子さん。
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『名画と読むイエス・キリストの物語』中野京子著 文春文庫 2016年12月10日 第一刷
p157
 第10章 ゲッセマネ

    ユダの接吻 
       ジョット〈ユダの接吻〉
p160~
 (前段略)
 そこに使徒らを休ませたイエスは、ペテロ、大ヤコブ、ヨハネの3人のみを従え、さらに少し山の上へ進んだ。自分たちだけになった時、初めてイエスは愛弟子も愕然とするほど思いつめた表情を見せ、「わが心いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此処に止(とどま)りて我と共に目を覚ましをれ」。死ぬほど苦しく切なくやるせなく、胸が張り裂けそうだから、自分が戻ってくるまでここで起きて待っていてほしい、つまり別の場所で祈りをあげる自分とともに、あなたたちもここで祈っていてほしい。
 3人にそう言い置き、イエスひとり、さらにまた上へ登る。本当にひとりきりだった。荒野(あらの)の修行以来、ほとんど常に弟子や賛同者、治療の奇蹟を求める多くの人々に取り囲まれた毎日を送ってきたイエスだが、迫りくる運命を前に、弱く孤独な人間の身として神に対峙し、最後の訴えをするつもりだった。それはまた、肉体的精神的苦痛を怖れる人間イエスによる、血を吐くような問いかけ---「なぜこのわたしが?」(p161~)---でもあった。いかにして「人間の部分」を捨て去るかという、まさに「死ぬばかり」の苦悶であった。
 イエスは倒れるように地にひれ伏し、額に脂汗をにじませながら渾身の祈りを捧げた。「わが父よ、もし得(う)べくば此の酒杯(さかずき)を我より過ぎ去らせ給へ」。酒杯とは、待ち受けている運命、受難そのものを指す。
 なんと正直な吐露であろう。イエスは神に頼んだのだ、どうか助けてください、と。弟子に裏切られ、民衆に嘲られ、鞭打たれ、十字架上で苦悶の死を遂げる運命を、どうか避けさせてください、逃がしてください、許してください・・・・。
 神は答えなかった。無言であった。イエスはすでに選ばれており、それは変えようがない。神の沈黙、それが答えなのだ。ついにイエスは言った、「我が意(こころ)の儘(まま)にとはあらず、御意(みこころ)のままに為し給へ」。受難を忌避したがるこの心は、狭い小さな人間としての部分が感じるものでしかないのだから、全ては神にお任せいたしましょう、と。
 くたくたに疲れ果て、イエスは立ち上がってペテロらの待つ場所へもどった。するといっしょに祈ってくれているはずの3人が、だらしなく眠りこけているではないか。イエスは彼らを起こし、わずかの時間すら起きていられないのか、誘惑に負けぬよう(p162~)祈っていなさい、と叱った。それから誰にともなく、「実(げ)に心は熟すれども肉体はよわきなり」とつぶやき、再び元の場へ登ってゆくのだった。
 まだ覚悟できていなかったのがわかる。人間イエスと神の子イエスはまだ烈しく戦っている。使徒らへの言葉は、自らに対する叱咤でもあった。悪魔は己の中に巣喰い、絶えず弱さを突き、誘惑してくる。心はそのつもりでも、肉体が裏切ろうとする。決意したそばから、身が震える。イエスはさっきよりなお一途に祈り、もう大丈夫と神に呼びかけた、「父よ、この酒杯もし我飲までは過ぎ去りがたくば、御意のままに成し給へ」。
 「過ぎ去る」という言葉に、過越の祭が意識されている。かつて災いは仔羊の血を門に塗りつけたユダヤ人の家は過ぎ越してゆき、そうしなかったエジプト人の家に襲いかかった。今もしイエスが犠牲の仔羊の役割を担わなければ、神罰は人々の上を過ぎ越してゆかないだろう。ならばどんなに辛くとも、受難を引き受けねばならない。神の御心がそうならば従います、とイエスは言ったのだ。
 そうしてようやく山を下りると、情けないことにペテロたちはまたも眠っていた。「目覚めていること」は、人間にとってそれほどにも難しいことなのだ。魂を常に覚醒させていたいと願っても、瞼の重みに抵抗できない。願望や意志とは裏腹に、彼らには(p164~)行動が伴わない。イエスの受難にあたって何もしようとしない、その裏切りへの伏線ででもあるかのように、彼らは眠っていた。師の苦悩に思い至らないというより、怖ろしい現実を忘れたくての眠りだったかもしれない。イエスはもはや彼らを叱りも起こしもしなかった。ただ悲しく、またも決意が揺らぐのを感じたのであろう、踵を返し、三たび登りはじめる。
 先ほどと同じ場所で、同じように身を投げ出し、同じ祈りの言葉を唱えた。愛弟子たちの唱和もない、孤独な祈り。ひとりで耐えねばならない。この重責。どんなに愛しても許しても、裏切られる定め。イエスは祈った。神に問い、自分に問うた。人間は弱い。誘惑に負け、堕落しやすく、いとも簡単に裏切る。だが、だからこそ救わねばならない。にもかかわらず愛さねばならない。愛の窮みまで愛さねばならない。
 今度という今度こそ、手応えが感じられた。喚き叫びたい胸の痛みも鎮まった。御心のままに従います、とイエスは力強く点に向かって呼びかけた。ここで完全に吹っ切れた。人間イエスにしつこくまとわりついていた怖れや不安、怯えや躊躇、神に選ばれしことへの懐疑は、ことごとく洗い流され、イエスは聖なる存在としての自分---肉体は弱い人間のまま、神の子であるという自分---を受け入れた。この世の肉体的苦痛を極限まで体験する覚悟もついた。あとはもう、定められたとおりのことが起こるだけだ。
 (略)
p165~
 ユダは勝ち誇ったような表情で、まっすぐイエスに近寄り、「ラビ」と呼びかけ、抱擁、接吻した。束の間、イエスとユダの視線は交差した。ユダはイエスの目の奥に何(p166~)を見たろうか。裏切り行為を見透かされていたことは、最後の晩餐の際すでにもう気づいている。だからこの時ユダが見たのは、彼が想像だにしなかったものではなかったか。怒りや軽蔑なら理解できる。だがイエスの目に浮かんでいたのは、ユダの理解をはるかに超えていた。それは赦しであった。裏切り者の自分をイエスは赦し、憐れんでいる。ユダは愕然とした。
 ともあれ、ユダの接吻、裏切り者の接吻、それが合図だった。
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マタイの福音書26章36~46節
36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

マルコの福音書14章32~42節
27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。
33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
37 それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。
38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
39 また離れて行って同じ言葉で祈られた。
40 またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。
41 三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。

ルカの福音書22章39~46節
39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって
46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
47 イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。
48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。

『名画と読むイエス・キリストの物語』 中野京子 著(本の話WEB 2017.01.13)
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今朝の「古楽の楽しみ」は、バッハのマタイ受難曲〈来栖の独白 2017.4.3 Mon 〉

     

〈来栖の独白 2017.4.3 Mon 〉
 今朝のNHK FM「古楽の楽しみ」は、バッハのマタイ受難曲。カールリヒター。私にとって、命のような曲。
 昔、学生の頃、新宿コタニでこの曲を聴いた時の思い出。美しさに圧倒され、涙が溢れた。こんな曲、音楽が、この世にある。奇跡のような音。イエスという存在が奇跡なら、このお方を源流とする音楽・美術・・・一切が奇跡だ。
 本日、マタイ受難曲を聴くうち、なんとも親しいメロディーが出現♪---私がほぼ日常的に弾き、口ずさんでいるカトリック聖歌の中、【いばらのかむり】ではないか。なるほど、カトリック聖歌は、こういうところから曲を作ってきた(採譜)のか。道理で味わい深い曲が多いわけだ。

苦難 【いばらのかむり】 (#171)
1 いばらのかむり おしかぶされ
 きびしき鞭に はだは裂かれ
 血しおながるる 主のみすがた
 いたましきさま たれのためぞ 
2 きのうにかわる 主を取りまき
 ののしりさけぶ にくむ群れを
 つねに変わらぬ いつくしみの
 まなざしそそぎ ゆるしたもう 
3 世のひとびとの 罪に代わり
十字架になう み苦しみよ
 かぎりも知らぬ 愛のみわざ
 しのびてわが身 献げまつる 

  深く心沈む日、不安に怯える日、哀しみの日・・・そのような日々を、私はカトリック聖歌を弾くことで、慰められ、勇気を与えられ、凌いできた。典礼聖歌も、然り。
 イエスの苦しみもさることながら、御子を傍らで見届けた聖母の悲しみは如何ばかりだったろう。
 今、このデスクの脇、本棚の最上段には十字架が静かにある。私に安心と力をくれる十字架。イエスがおられたから、小さな私の人生にも意味があった。意味を見いだすことができた。

 本日、我が家の庭先の桜が一輪、開花。清廉な花びら。昨年来、心沈むことの多く、春の訪れなど考えられもしなかったが、そんな私にも春は訪れて、桜は咲いている。「私にも春は訪れて」と心に繰り返す。信じられないような春の訪れ。
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清孝が死刑執行されたとき、私はこの曲を弾いていた。
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