「死刑は票にならん」国民世論の8割以上が死刑を容認する中で死刑廃止を主張するのは勇気がいる

2010-06-14 | 死刑/重刑/生命犯

反射鏡:冤罪解明に政治のリーダーシップを=論説委員・伊藤正志
 かつて死刑問題の取材で国会議員に会うたびに「死刑は票にならん」と聞かされた。
 世論調査で国民の8割以上が死刑を容認する中で、たとえ内心で思っていても死刑廃止を主張するのは勇気がいる。死刑賛成と胸を張って言うのもはばかられる。どちらにしろ、有権者受けはよくない。そんな心情だったのだろう。
 だが、ちょっと待ってもらいたい。裁判員制度が始まった。これからは国民の誰もが死刑に向き合う可能性がある。一方で、国会議員は法律上、裁判員にならない。国民が全人格をかけて悩む中、賛否はともかく、政治家が死刑問題にそっぽを向いていていいのだろうか。
 例えば、フランスで81年に行われた大統領選で、国民の6割以上が死刑に賛成する世論に抗し、ミッテラン氏は死刑廃止を公約に掲げた。当選後、その年に廃止を断行している。
 いまや死刑廃止は世界の潮流だが、日本が現状のままの「死刑を含めた刑罰体系」を維持するのが妥当なのか。最終的に決めるのは政治家である。
 話がそれたようだ。死刑の是非を言いたいのではない。刑事政策の分野には、死刑など「命と人権」にかかわる重要テーマがあるのに、政治主導が発揮されていないと感じるのである。
 政治家がリーダーシップを発揮した例を挙げたい。
 米イリノイ州は05年、殺人事件を対象に取り調べの録音・録画を義務づける法律を施行した。この法案を提出し、成立に尽力したのが当時、上院議員だったオバマ大統領だった。
 死刑の被告が一転無罪になる冤罪(えんざい)事件が00年、同州で起きたのがきっかけだ。当時の知事は委員会を設置し、刑事政策の見直しに乗り出した。改革案の一つが取り調べの録画だった。
 だが、事は簡単ではない。取り調べの録画に踏み切っている州は当時、全米でわずかだった。事件解決が難しくなるとして警察は激しく反対し、犯罪に対して厳しい態度の共和党議員からも同調する声が出たという。
 それでもオバマ氏はひるまなかった。08年1月4日付ワシントン・ポスト紙にその活躍ぶりが掲載されている。
 オバマ氏は、反対する議員らとバスケットボールやポーカーに興じ、時に心配事に耳を傾けて気持ちをやわらげたというのだ。いわゆる懐柔策である。
 ビデオ録画の場面を限定しようとする警察の反撃も封じた。「オバマは、取り調べを録画義務の対象から除外させないために戦い、そして勝利した」と記事は締めている。
 なぜ、オバマ氏が法案成立にこだわったのか。
 記事にはないが想像できる。例えば、米国では白人より黒人の方が死刑判決がでやすいとのデータがある。刑事手続きでの人種差別の存在が推測される。取り調べをガラス張りにして不当な扱いを止めるとの信念がオバマ氏にはあったに違いない。
 日本に話を戻したい。
 足利事件の再審裁判で3月、菅家利和さんに無罪が言い渡された。菅家さんは人生の大切な時期の17年半を抹殺された。自らに置きかえた時、これ以上ない人権侵害だと痛感する。
 何人もの法律のプロの失敗が積み重なった「複合的」な冤罪の構造が明らかになっている。警察、検察の見込み捜査と自白の誘導だけではない。菅家さんの当初の弁護人は冤罪を見抜けず、有罪を前提に弁護をした。裁判所も、弁護側が求めたDNA再鑑定に長年応じず、解決を決定的に遅らせた。
 警察と検察は事件を検証したが、やはり当事者では限界がある。裁判所や弁護士側の対応も検証が必要だ。ここは、「第三者の目」で原因究明と再発防止を議論すべきところである。日本でも取り調べの録音・録画の実現が焦点になっているが、議論の中でふさわしい制度のあり方が見えてくるかもしれない。
 実は、日本弁護士連合会が独立した第三者機関の設置を求める意見書を既に出している。呼応する政治家の声が聞こえてこないのは残念だ。
 もちろん、三権分立の精神からも、司法と政治は一定の距離をおくべきだろう。問い合わせと称して検察審査会に接触を図るなど、政治主導をはきちがえたような行動は論外である。
 だが、足利事件に見られるように、専門家集団は、自らが培ってきた経験や慣例に縛られ、たこつぼ的な発想に陥ることもある。個々の事件にとらわれない、全体を見渡すような大局観に基づいた政治のリーダーシップを期待したい。
毎日新聞 2010年6月13日 東京朝刊


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