『阿蘭陀西鶴』朝井まかて著

2016-11-19 | 本/演劇…など

 産経ニュース 2014.10.5 10:00更新
【書評】『阿蘭陀西鶴』朝井まかて著
 ■物語の力への信頼と祈り
 おあいが可哀想(かわいそう)だ。盲目の身ながら、母に教わり料理も裁縫もこなす。幼い弟たちの面倒を見る。けれどその母が死んだとき、父は娘に頓着せず、我(わ)が身の不幸を嘆くだけ。そればかりか、妻の死を悼む千句の俳諧集を出版し、自分の名を売る始末。
 この父が井原西鶴である。
 本書は江戸時代前期を代表するベストセラー作家・井原西鶴を、娘の語りで綴(つづ)った作家小説であり父娘小説だ。
 ここでいう阿蘭陀(おらんだ)とは、異端という意味である。自ら阿蘭陀西鶴と称し、新しいことに目がない。手前勝手でええ格好しぃで自慢たれ。だから最初は、西鶴に腹が立つばかりだった。しかし次第に印象が変わっていく。
 西鶴最大の功績は、大衆小説という新ジャンルを切り開いたことだろう。それまで物語と言えば、英雄の活躍を面白おかしく語るものばかりだったところに、名もない庶民を主人公に据えた。彼の書いた浮世草子はどれも町人のありのままの姿が活写されている。現代の私たちが楽しんでいる娯楽小説の原型を作ったのが、井原西鶴なのだ。
 西鶴が何を思って、市井の人々の物語を書いたのか。『好色一代男』の朗読を聞いたおあいが、主人公・世之介の豪華な装いの描写にそそられる自分を不思議に思う場面がある。瑪瑙(めのう)の緒締めなんか見たこともない自分がなぜ? そして気付くのだ。物語を聞けば「感じて掴(つか)むことはできるのや。自分なりに」と。
 物語の持つ力。これは、小説かくあれかしという朝井まかての祈りなのではないか。百人読めば百通りの世之介がいる、と言う西鶴。読者が自分なりの世之介に我を重ね、羽ばたかせる。これが小説の面白さだと、後世の作家たちも皆その力を信じて物語を紡いできたのだと、朝井まかては言っているのではないか。
 父娘小説としても秀逸だ。終盤、おあいが心の中で父に向けて呼びかけた一文には、泣けた。まさにこれが小説の持つ力だと確信できた。
 『恋歌』で直木賞を受賞した朝井まかては、本書で早くも円熟を迎えた。「創作」への思いが込められた一作だ。(講談社・1600円+税)
 評・大矢博子(書評家)

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です


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