〈来栖の独白〉
「死刑執行を命令するのは法務大臣であるから、執行の現場に法相も立ち会うべきである」という意見を初めて聞いたのは、十余年以上も前である。違和感を覚えた。
弟藤原清孝が処刑されたのは、彼の罪科のゆえであったことは、私は十分理解している。本人も、遺書に
「急な宣告に、今は大変ショックで とても冷静とは言い難いですが自分の犯罪を省みて、この急な宣告も仕方が無いか・・・と、もう諦めの境地に自分を導いている次第です。」
と、したためている。被害者へのお詫びと周囲への感謝のうちに、逝った。
ただ、この国が死刑制度を存置していなかったなら、藤原は一生を獄の中で詫びのうちに点訳奉仕に精出すことが出来た、とも思う。法務大臣(保岡興治氏・当時)が死刑命令書に判を押し、刑務官が執行したのは、手続きに過ぎない。「死刑制度」が、藤原の行年を決定した。死刑制度(乃至死刑執行)の主体は、国民である。
以下の論説は、私の心の機微に入り込み、違和感なく、私の傷んだところを繕ってくれた。
[神的暴力とは何か] 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い 暴力抑止の原型 大澤真幸(中日新聞2008/2/28)
一部抜粋
“ 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。
殺人(の禁止)規定と孤独に闘うとは、まさにこういう場面を言う。法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。責任はその他者に転嫁される。だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。井上の挑発的な制度は、このような「孤独」の中に国民を投げ込む制度として、再評価できる。
それにしても、殺人や戦争といった人間の暴力の究極の原因はどこにあるのだろうか? ゴリラの研究で著名な山極寿一は、霊長類学の最新の成果を携えて、この問題に挑戦している(『暴力はどこからきたか』NHKブックス)。無論、動物で見出されることをそのまま人間に拡張してはならない。だが、人間/動物の次元の違いに慎重になれば、動物、とりわけ人間に近縁な種についての知見は、人間性を探究する上での示唆に富んでいる。
山極の考察で興味深いのは、暴力の対極にある行為として、贈与、つまり「分かち合う行為」を見ている点である。狩猟採集民は、分かち合うことを非常に好む。狩猟を生業とする者たちは獰猛な民族ではないかと思いたくなるが、実際には、彼等の間に戦争はない。ほとんどの動物は贈与などしないが、ゴリラやチンパンジー、ボノボ等の人間に最も近い種だけが、贈与らしきこととを、つまり(食物の)分配を行う。
暴力を抑止する贈与こそは、「神話的暴力」を克服する「神的暴力」の原型だと言ったら、言いすぎだろうか。チンパンジーなど大型霊長類の分配行動(贈与)は、物乞いする方が至近で相手の目を覗きこむといった、スキンシップにも近い行動によって誘発される。森達也が教誨者師や(元)刑務官から聞き取ったところによれば、死刑囚は、まさにそのとき、一種のスキンシップを、たとえば握手や抱きしめられることを求める。死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和しているのである。”
ここ何日も、モーツアルトのアダージォを弾いている。この曲は、何故か過去に読んだ本の「松平忠輝」に重なる。(隆慶一郎著『捨て童子 松平忠輝』講談社文庫)
死刑という言葉が、メディアや人の口の端(意識)に、しばしば上る日常。朝日新聞18日夕刊1面コラム「素粒子」では、執行再開(93年3月)以降の法相で最多の執行数となったことに触れ、鳩山氏のことを「またの名、死に神」などと揶揄し、物議を醸している。被害者の会から、朝日新聞に対し抗議もあった。
心沈んでならない。考え、悲しみながら、アダージォを弾いている。宗教曲ではないが、29日のミサの聖体拝領時には、これを弾く。
太田昌国氏の指摘が思い起こされる。
“死刑という人の死を求める意見がここまで公然と報道されている。それはこの社会が人の死に対してだんだんと慣らされていく、訓練がされていく段階であるととらえている。犯罪を犯した人間が処刑されることを待ちわびる、待望する社会になっている。メディアの中でも突出して影響力のあるテレビで、そこで発言するキャスター・コメンテイター、番組にかかわるディレクターが、冷静な言葉と観察力でもって報道しないと、この社会は極めて不気味な力によって押し流されていく。”
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私も同じ事を記事に書きました。そして、国民全員も立ち会うべきだと。
その記事に「法治国家なのだから、法に従って何が悪い」というようなコメントをいただきました。
多くの言葉を尽くせば尽くすほど、存置派の方を引き寄せてしまうみたいです。そんなこんなで若干疲れております。(と、よそ様で愚痴ってどうする)
該当記事をTBさせて頂きます。
少なくとも私は、死刑存置の立場を取る以上、例えば今回鳩山法相がその浅慮*故に宮崎勤君の死刑執行を許可してしまった事に、国民の一人としての自分自身の責任を感じようと努力しています。 手の届かぬ、窺い知れぬ所で決定されていて、正直リアリティは有りませんが。
*「慎重の上にも慎重を期する」なら、とても“粛々と”判は押せないケースです。
罪を裁く以上、その事により社会は事件を産んだ背景、経緯を知り、人の心に潜む邪悪の存在を学び、これを制御する術、免疫力を身に付けねば、これに費やされた時間、思考、労力は全く無駄になってしまう。
宮崎勤君の場合、精神鑑定の信頼性、39条の妥当性という法律論のテーマも含め、知るべきことが未だ多く残っていたし、彼自身も語ろうとしていた。(『創』によれば)
被害者遺族には、「刑はいずれ必ず執行されます。 しかし、我々社会が、人間が孕む邪悪性、脆弱性を知り、少しでも良い社会とするために、彼の言葉が必要で、いま少し堪えて下さい」と言えば、理解頂けたのではないか、と思います。
我国が法治国家だというのは、現実を精査すれば、建前に過ぎず、国家規模の壮大なまやかしである事が分かります。また。代議制あるいは議会制民主主義というのも現状には合っていません。一党独裁が半世紀以上も続き、2世、3世議員が続出する代議制とは一体何なのでしょうか。代議とは名ばかりの政党利権制というべきでしょう。
>それは代議制の否定ですのでトンデモ論
? 鳩山氏のベルトコンベア発言こそ、代議制の否定となりトンデモ論ですが、国民が直接立ち会うのが、何で代議制の否定ですかね?
>刑はいずれ必ず執行されます。・・・言えば
誰が、言うのですか。三権分立の原則はどうなるんですかね。
>我々社会が、人間が孕む邪悪性、脆弱性を知り、
裁判所(司法)としては、精神鑑定も含めて事実は解明されたとして「審理終結」させたのです。判決文にも書かれていない「死刑の執行猶予」を明文化して誰が言うのですか。さっぱりわかりません。
ところで、宮崎氏は再審の請求を準備中であったとか。確定死刑囚が再審を請求するケースは少なくない。「刑はいずれ必ず執行されます」なんて・・・いつ、どういう状況で出てくる言葉なんでしょうかね。
>死刑制度の主体は、国民である。
>人の死を求める意見
>処刑されることを待ちわびる、待望する社会
法務大臣が死刑執行の判を押した、数多く判を押した、と突出させて槍玉に挙げるのは見え易いし、攻撃し易い。けれど実相は、国民が“藤原さんたち”を殺したのです。
ここ何年も国民は、光市の事件に象徴されるように、人の死を待ちわび、待望するという感情を表に出して恥じることさえ忘れてきました。
>刑はいずれ必ず執行されます。
結局こういうところへ着地するのであれば、“粛々と”やっても同じことだと思います。
>そんなこんなで若干疲れております。
そうなんですよね、ケッコー痛手を受けるものですよね。
>(と、よそ様で愚痴ってどうする)
よそ様だから愚痴れるのかも。自分の名前を出して自分のブログでは、愚痴るのも憚られますわ。
『創』ですが、私としては、些か疑問に感じる出版社です。清孝のことで色々ありましたのも、不審のきっかけです。
とんでもない。大歓迎! 宜しくお願いします。
改めて「代議制」ということ、考えてみました。今や、代議制とは言えないかもしれませんね。
それにしましても、御歳とともに、narchanは、過激になってゆかれるような~。楽しみです(笑)
>宮崎氏は再審の請求を準備中であったとか
そうでしたね。秋葉原の事件との関連ですね。まるでドラマ仕立て、劇場です。
実際、そうなのです。が、私としましては、法相が判を押したから殺された、と考えるほうがラクですね。「国民」(の8割以上)を敵に回すに等しい状態(=四面楚歌)は、怖いです。清孝も手記の中で、その緊張を
>警察官を襲って拳銃を強奪してから、逮捕される58年1月31日までの95日間は、騒然とした世間に反逆しながら生きているような自分に常時強烈な不安がありました。
と書いています。人間に堪えられることではありません。光市事件の被告人も、国民の殆どを敵に回しました。哀れです。