「天皇家の葬儀は、なぜ仏式から神式になったのか この国のあり方をも示すもの」 現代ビジネス 2017.10.9

2017-10-09 | 雲上

現代ビジネス 2017.10.09
「天皇家の葬儀」は、なぜ仏式から神式になったのかご存知ですか この国のあり方をも示すもの
 大角 修 地人館代表
  伊勢神宮には皇室の祖先神が祭られているし、天皇は毎年元日の早朝、平安時代から伝わる古式装束を着て祭儀(四方拝)を行っている。だからこそ、天皇の葬儀も神式で行われるのは当たり前でしょ!?――そんなイメージを抱いている人も多いのではないだろうか。
 ところがじつは、神式で行われた葬儀は明治天皇、大正天皇、昭和天皇のわずか3回に過ぎず、その歴史が「皇紀2677年」に比して「意外と短い」ということをご存じだろうか。飛鳥・奈良の昔から江戸時代の孝明天皇の葬儀(1867年)まではずっと仏式で行われ、天皇家の菩提寺は泉涌寺(京都市東山区)だった。それが一転、明治以降はなぜ神式に変わったのか。
 10月18日に発売となる『天皇家のお葬式』の著者・大角修氏が、古代からの天皇の葬儀の変遷をたどりながら、その時代背景や時代の変化について考察する。
*天皇が語られた「自身の葬儀」
 平成28年(2016)8月8日、天皇が異例のビデオメッセージの形で生前退位を望む旨の「おことば」を述べられた。詳しくは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」という。下はその冒頭である。
<戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
 私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。(中略)
 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。>
 この「おことば」を受けて、天皇と皇室のありかたがさかんに論じられるようになり、平成29年6月に生前退位を可能にする皇室典範特例法が成立した。
 「おことば」で天皇は自身の葬儀についても語られている。
<これまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。>
 現在、天皇の陵所は東京都八王子市の武蔵陵墓地(多摩御陵)にあり、大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后の大きな四基の円墳が築かれている。それぞれ土葬されたのだが、今の天皇は火葬を希望されているという。宮内庁が平成25年11月に発表した「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」という文がある。
<天皇皇后両陛下から、御陵の簡素化という観点も含め、火葬によって行うことが望ましいというお気持ちを、かねてよりいただいていた。
 これは、御陵用地の制約の下で、火葬の場合は御陵の規模や形式をより弾力的に検討できるということ、今の社会では、既に火葬が一般化していること、歴史的にも天皇皇后の葬送が土葬、火葬のどちらも行われてきたこと、からのお気持ちである。>
*寺で行われた孝明天皇の葬儀
 歴代天皇で初めて火葬されたのは持統天皇で、1300年も昔の大宝3年(703)のことだった。以来、天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の承応3年(1654)に崩じた後光明天皇からはずっと土葬である。
 江戸時代の天皇の葬儀は京都東山の泉涌寺で行われた。もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内の「帝王陵」と呼ばれる区画に埋葬された。「陵」といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石塔が立ち並んでいる。
 古墳のような墳丘が復活したのは、幕末の慶応2年(1867)に崩じた孝明天皇のときだった。尊王攘夷運動が高まり、明治維新に向かう時期のことである。王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれたのである。ただし、その場所は泉涌寺の裏山で、葬儀も泉涌寺で行われた。
 明治天皇の葬儀は大正元年(1912)9月13日の夜、神仏分離によって神道式で行われた。その葬列には平安時代の装束のほかに洋装の礼服もあり、儀仗隊や軍楽隊も加わって和洋混在の葬儀であった。もとは白だった喪服が黒になったのも欧米の風習を採り入れたもので、明治時代からである。
 告別式にあたる葬場殿の儀は東京の青山練兵場で執り行われ、柩は陵がつくられた京都の伏見桃山に列車で運ばれた。霊柩列車は14日午前0時40分、送別の号砲とともに青山仮停車場(現在のJR千駄ヶ谷駅)から発車。その時刻に陸軍大将乃木希典と妻静子が自邸で自刃。殉死だった。
 その後、朝日新聞に「心 先生の遺書」の連載を開始したのが夏目漱石である。
<夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。(中略)
 御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。(連載原稿百九・百十)>
*ラジオで実況中継された大正天皇の葬儀
 明治天皇の崩御と葬儀は、維新から45年、近代日本の歩みにひとつの区切りをつける出来事だった。作家の田山花袋は「明治天皇陛下、“Mutsuhito the great”中興の英主、幼くして艱難に生い立たれて、種々の難関、危機を通過されて、日本を今日のような世界的の立派な文明に導かれた聖上、その聖上の御一生を思うと、涙の滂沱たるを誰も覚えぬものはなかった」と回顧録『東京の三十年』に記している。
 その明治天皇をまつるため、東京に創建されたのが明治神宮である。近隣に葬場になった青山練兵場があり、そこは神宮外苑に改めて近代的なスポーツ公園として整備された。現在、神宮球場、秩父宮ラグビー場、2020年東京五輪メインスタジアムとして建設中の新国立競技場などがある。
 ところで、明治神宮は明治天皇・皇后の二柱を祭神とするが、明治天皇には多くの側室があった。一夫一婦制になるのは大正天皇からである。また、大正天皇は子を生母の実家などに預けて養育する皇室のしきたりを廃し、身近において育てた。大正デモクラシーを象徴するようなニューファミリーである。しかし、そのころから天皇や皇太子の行先で民衆が一斉に日の丸の小旗を振って出迎えるような集団行動が目立つようになった。
 そして昭和2年(1927)の大正天皇の葬儀は、放送開始から間もないラジオで実況中継され、葬場での一同礼拝の時報に合わせて全国一斉に遥拝が行われた。それはあたかも、迫り来る国家総動員の戦時体制の予兆のようであった。
*「天皇とは何か」を理解するために
 次の昭和天皇の在位は歴代最長の64年に及ぶ。その長い期間に、昭和20年の敗戦があり、天皇のありかたがまったく変化した。大日本帝国憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といい、戦後の日本国憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という。
 もちろん、憲法に定められたからといって、それに伴う政府や国民の行動がなければ意味をなさない。帝国憲法が統治者と定めた「万世一系ノ天皇」も、現行憲法にいう「日本国民統合の象徴」である天皇も、さまざまな出来事を通して、その内実を獲得していった。
 逆にいえば、「天皇とは何か」を法理論や抽象的な思想によって考えても、一般の国民が思う天皇のことはよくわからない。それよりも、「あのとき、こんなことがあった」という具体的な事象をたどれば、天皇とは何かをもっとよく理解する糸口になるだろう。
 このたび上梓した『天皇家のお葬式』は古代から現代に至る天皇の葬儀の変遷をたどるが、それは日本の歴史を知ることにもなるだろう。というのは、葬儀はしきたりが重んじられるので、なかなか変わらない。天皇の葬儀の形が変化するときは、時代そのものが大きく変化していることを表しているからである。
 本書では、とくに明治・大正・昭和三代の葬儀に重点を置く。それは明治維新以来の近現代日本の歩みを鏡のように映す出来事であった。
 平成元年(1989)に行われた昭和天皇の葬儀に際しては、はたして国が関与してよいのかどうかが問題になった。憲法の政教分離原則に抵触するのではないかというわけだ。しかも、戦前の皇室令がすべて廃止されていたので、天皇の葬儀を実施するための法令もなかった。また、天皇の戦争責任が改めて問われた。
 とはいえ、亡き天皇の葬儀をしないわけにはいかない。国をあげての大葬となったのだが、柩を安置した祭壇の前の鳥居が可動式で、行ったり来たりする珍事が生じた。なぜそんなことになったのかは第11章「昭和天皇の大葬 新憲法のもとで」で述べる。
 今日、一般の葬儀は個人化がいちじるしい。しかし、かつて葬儀は家と地域の行事で、「お葬式」には親類・縁者も近隣の人も、何をおいても駆けつけるものだった。なかでも「天皇家」の葬儀は日本という国家のありかたを示す。その意味をこめて本書のタイトルを『天皇家のお葬式』とした。
 以上を本書の趣旨として、第1章は明治天皇の陵がなぜ京都の伏見桃山につくられたのかという謎から始めている。
 明治天皇陵は、じつは東京近辺につくられるはずだった。京都の伏見が陵所に選定されたことに対して、時の内務大臣だった原敬は「何か特別の理由ある事と思ふ」と釈然としない思いを日記に書き残している。内政全般に責任を負う内務大臣でさえ知らない理由とは何だったのか。それも近代史の一面をものがたる出来事であった――。

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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『差別と日本人』善良で被害者の自分たちと他者とを峻別。その生贄としての民・朝鮮人
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