侍従日記が明るみに出す 「昭和天皇」戦争責任の苦悩が生んだ「今上陛下」の“制服アレルギー”(1/2)

2018-09-09 | 雲上

侍従日記が明るみに出す「昭和天皇」戦争責任の苦悩 “東宮ちゃん”今上天皇に引き継がれたもの
社会週刊新潮 2018年9月6日号掲載
「昭和天皇」戦争責任の苦悩が生んだ「今上陛下」の「制服アレルギー」(1/2)
 「戦争責任のことをいわれる」――。今般、公となった元侍従による日記には、昭和天皇の偽らざる肉声が赤裸々に綴られていた。敗戦の責任を明言できない苦悩。やまぬ譲位への思い。それは今上陛下に引き継がれ、「制服アレルギー」に繋がって行ったのである。
  ***
 歴史にイフはないけれど、決断の連続である人生(life)の真ん中には【if】が潜んでいる。それは単に言葉遊びとしてのみならず、あのとき別の選択をしていたなら……と考えたことが一度ならず誰にもあるはずだ、という人生の虚しさを言い当ててもいる。
 帝王学を受けた昭和天皇にも同じような人生訓を当てはめるのは些か浅慮に過ぎるかもしれない。しかし、平成最後の夏も終わりに近づいた8月23日、昭和天皇の人間らしさが垣間見えるエピソードが各紙に掲載された。
〈「戦争責任言われつらい」侍従記録 晩年の昭和天皇吐露〉(毎日)
〈昭和天皇「戦争責任をいわれる」 晩年「辛いこと多く」 侍従記録〉(朝日)
 記事の中身は、大要以下の通りである。
・昭和天皇が85歳だった1987年4月7日。「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言されたことを示す日記が見つかった。
・日記を記した故・小林忍氏は74年4月から昭和天皇の侍従となった。日記は香淳皇后が崩御される2000年6月までの26年間に亘る。
・日記は共同通信が小林氏の遺族から入手し、その一部を報道各社に公開した。
 宮内庁は当時、昭和天皇の体力の衰えを考慮し、公務の負担軽減を模索していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれ、4月29日の天皇誕生日の宴会では嘔吐。同9月には歴代天皇で初めて開腹手術を受けられている。日記の記述はそういった事情と符合することに加え、既に公表済みの先輩侍従・卜部亮吾氏の日記にも、同じ4月7日に、「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とあり、今回の日記は、昭和天皇の心のうちをより克明に示す“発見”と言えよう。昭和天皇が秘めざるを得なかった贖罪の念が、その背中を見て育った今上陛下の制服アレルギーや生前退位への思いに繋がって行くのだが、まずは今回の日記の価値を識者に評してもらおう。
*半藤一利氏の評は…
「去年、共同通信に日記を渡されて丁寧に頭から読みました。いつ報道されるのかと思っていたところだったんです」
 と話すのは作家の半藤一利氏。それはともかく、
「小林さんというのは侍従たちをサポートするような役回りで侍従の中でも天皇のすぐ傍にいた方ではありません。そのため他の侍従らが書いたものと比べると非常に客観的な日記だと思います」
 もう少し日記の内容を紹介しておこう。例えば75年11月24日。訪米後の会見に対する世評を気になさり、自信を失っておられる昭和天皇。小林侍従の励ましに、「涙をお流しになっておききになっていた」。
 80年5月27日。中国の首相との引見、つまり面会にあたり、「陛下は日中戦争は遺憾であった旨おっしゃりたいが、長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいというのでは余りになさけない」。
 87年7月19日。「ふらふらなさり始めたので、左右から支えたところその場におくずれになった」
 半藤氏は更にこう評する。
「そういった記述は、『人間・昭和天皇』を同情をもってしっかり表していました。ただ、昭和史を書き換える、大騒ぎするような発見ではありません」
 昭和天皇がいつ、誰から戦争責任を指摘されたのか、日記はそこに触れずじまいである。その前後の出来事を引いてみると……86年3月、衆院予算委員会で共産党の代議士が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と追及。中曽根康弘首相がこれを強く否定する一幕があった。また88年12月には、本島等長崎市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言後、右翼団体幹部に銃撃される事件があった。
*「東宮ちゃん」
 昭和天皇が公の席で戦争責任を認めたことはないが、
「昭和天皇は敗戦の責任を感じ、3度、退位を考えていたことが様々な資料で明らかになっています」
 と解説するのは、現代史家の秦郁彦氏である。
「1度目は終戦の直後。戦犯が指名され、“戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍びがたいので、自分が一人で受けて、退位でもして収めるわけにはいかんだろうか”と側近に伝えています。日本の元首であれば、敗戦国といえど配慮されますが、元首でなくなれば立場はただの人。戦争犯罪人として逮捕しやすくなり、場合によって処刑されることもあり得ました。木戸幸一内大臣は、そういった危険性を承知しており、陛下に“ご退位しない方がいいです”と伝えていました。2度目は東京裁判の判決の日。昭和23年11月12日に退位を考えていた昭和天皇に、マッカーサー元帥が当時の吉田茂首相を通して思いとどまってほしい旨を伝えています。3度目はサンフランシスコ講和会議のときで、この時も吉田の反対で退位はなりませんでした。昭和天皇は常に責任を取らなくていいのだろうかと考え続けてきたことが窺えます」
 宮内庁関係者によると、
「小林さんは、私もお会いしたことがありますが、とても真面目な方で昭和天皇の信頼を得ていました。だからこそ、戦争責任のような、デリケートな問題についてもお話しになったのでしょうね。余談ですが、平成元年から平成3年まで今上天皇の侍従も務めたものの、今上天皇との折り合いは良くなかったと言われています。小林さんへ勲章を授与するとなったときに“今上天皇からの勲章であれば貰いたくない”と辞退した、という話もあります」
“昭和天皇愛”とも受け取れるエピソードだ。とまれ、
「今上天皇は、昭和天皇の平和への思い、遺志を引き継ぎ、さらに育てた方です。そんな今上天皇にとって、今回、昭和天皇の晩年のお言葉が発掘されて、戦争責任に苦悩されていた様子に触れることで、改めてご自身の30年を振り返るとともに、感慨深く思っていらっしゃるのではないでしょうか」(同)
 と、今上陛下の心のうちを推し量る。
「昭和天皇の戦争責任を巡る苦悩や平和への思いは、もっと早くから今上天皇に伝わっていたと思われます。今上天皇は皇太子時代、週に1度は昭和天皇のもとへ御参内され、ともにお食事などをして密にコミュニケーションを取られていました。ときには、現皇太子殿下が同行することもあったようです。昭和天皇は今上天皇のことを『東宮ちゃん』と呼んでいたんですよ。また、昭和天皇は今上天皇に対し、“大元帥であり国権の総攬(そうらん)者だった自分とは異なる天皇像を作り上げてくれる”と期待していたのだと思いますね。今回の日記は、昭和天皇がわが子に伝えていた思いが、改めて資料として出てきたと位置づけられるかもしれません」(同)
 今上陛下は、93年に歴代天皇として初めて沖縄をご訪問され、終戦60年の節目となった05年にはサイパンを、15年にはパラオや日米両軍が激戦を繰り広げたペリリュー島をご訪問になるなど、「慰霊の旅」を続けてこられた。それと今回の日記は無縁ではなかろう。
 (2)へつづく
 特集「『小林侍従日記』で明るみに出た新事実 『昭和天皇』戦争責任の苦悩が生んだ『今上陛下』の『制服アレルギー』」より

 ◎上記事は[デイリー新潮]からの転載・引用です。
 
 * 「昭和天皇」戦争責任の苦悩が生んだ「今上陛下」の“制服アレルギー” (2/2) 
.............
〈来栖の独白 2018.9.9 Sun〉
 名誉も最高位、物質的にも保証され、何の苦労もないと思われる雲上人。しかし、この世に生を享け、苦しみのない人間など、一人もいない。釈尊も、この世を「苦」だと言った。私が自分でも意外なことながら「雲上人」に関心を持つのは、この世の人すべてが、等しく「人間」であるからだ。
 それにしても、多くの命が奪われた先の戦争、その戦争責任を一身に負い、退位も叶わず生きてゆかねばならぬ十字架。如何ばかりだったろう。
 * 『釈迦と女とこの世の苦』 瀬戸内寂聴著 NHK出版
――――――――――――――――――――――――
昭和天皇「細く長く生きても仕方がない」戦争に苦悩し、側近の前で涙 故小林忍侍従の日記
昭和天皇 二・二六「特別な日」 腹心殺され、慎み(小林忍侍従日記)  共産党志位和夫委員長、昭和天皇を批判
.........


1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (あやか)
2018-09-10 06:55:15
昭和天皇様が、これほどまでに繊細なお心のかただとは、今さらながら胸がうづきます。
天皇陛下といえども、人間であり、さまざまな苦悩や葛藤に苛まれ、時代の風潮に翻弄されてきたのでしょう。
 『戦争責任』については、昭和天皇御自身が深く感じられ、戦後、重荷を背負って生きてこられたんですね。
そういう陛下の【深いお心の傷】も知らずに「『天皇の戦争責任?』を安易に口にする人」の冷酷さに怒りを感じました。
それにしても、小林侍従は、まことに立派な方だと思います。

☆今上天皇陛下の場合は、「あまりにも戦後体制の非戦平和主義の価値観に染まっておられるのではないか?」、と言う人もいます。(しかし、それは戦後日本人が皆、そうですから、そのことで現天皇陛下をなじるのは見当ちがいだと思います。)
 ただし、今の天皇陛下が『制服アレルギー』だという主張は、それ以上に見当ちがいです。
数年前『東北大震災』が起こったときは、天皇陛下は被災者のことを気づかわれるとともに、救出作業に邁進する自衛隊や警察を激励なさっておられました。

私は、無責任な噂に基づいて、皇室のことをあれこれ言うのは、厳につつしむべきだと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。