佐藤愛子著『私の遺言』に見る 神戸連続児童殺傷事件 少年A 酒鬼薔薇聖斗 〈来栖の独白 2018.12.3〉

2018-12-03 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

 佐藤愛子著『私の遺言』平成17年10月1日発行 新潮文庫

p249~
 五章 死後の世界
    1
 1997年(平成9年)3月のことである。神戸市須磨区の団地・須磨ニュータウンの中の竜が台団地で9歳と10歳の少女が通り魔に襲われ、腹を刺された9歳の少女は命をとりとめたが、金槌のようなもので殴られた10歳の少女は死亡した。
 それから2か月ばかり経った5月24日、11歳の少年が行方不明になり、3日後、中学校の正門前にその少年の切断された頭部が置かれているのが新聞配達員によって発見された。切断された首の、その口の両端が耳に向かって6センチほど切り裂かれ、瞼と目尻に面白半分のような切り傷がつけられ、眼球がくりぬかれていたという報道もあった。口に紙片が挿し込まれていて、「学校殺死の酒鬼薔薇」と赤で書かれていた。

p250~
 少年が行方不明になる直前の20日頃、同じ中学校の正門前に2匹の猫の死体が捨てられており、猫の右前脚と右後脚は根元から切断されていた。(中略)
 続々ともたらされた目撃情報の中から捜査本部が掴んだ犯人像は「黒いブルーバードを所有し、黒いポリ袋を持ち歩いていた30代から40代の身長170センチばかりの屈強の男」というものであった。(中略)
 そんなある日、江原啓介さんと電話で話しているうち、江原さんはふと思い出したようにいった。
「あの神戸の首斬り殺人のことですけどね、わたしが霊視をしてみましたら、おかしいんですよ。屈強の中年男といわれていますが、わたしが見ると、まだ十代らしい細身の青年が見えるんです。眼が細くて、目尻がつり上がっているんですけど・・・」
 わたしがまだ未熟なせいかもしれませんがね、といつも謙虚な江原さんはいった。
 容疑者が逮捕されたのはそれから間もなくである。事件発生以来36日目だった。容疑者は中学3年生、14歳の少年で、「屈強の中年男」ではなかったのだ。未成年者であるためマスメディアは顔写真を出さない。だがそのうち写真週刊誌フォーカス(p251~)が少年の写真を出したので、(中略)
 漸く人から借りることが出来て頁を開き、思わず大声で家の者を呼んだ。江原さんの霊視通り、細い、目尻のつり上がった少年の顔があったのだ。早速私は江原さんに電話をかけた。
「フォーカス、ごらんになりましたか?」
「はい、見ました」
 淡々と、しかしどこか満足そうに江原さんは答えた。
「中年男ではありませんでしたね! 目尻がつり上がった少年でしたね!」
「やはりそうでした…」
 写真を見たときから思っていたことを私は口に出した。
「これは、憑依じゃありませんか?」
 江原さんはこともなげに、
「そう思います。憑霊ですね」
「で? 何が憑依してるんですか?」
p252~
「たいへん強いものですね。長い歴史の中で積もり積もった怨念が強力な霊団になったものです。この土地に関係があるようです」
 その霊団が何ものの怨念かを江原さんはいわなかった。差しさわりがあっていえないらしいことが私にはわかった。(略)
p253~
 そうして数日後、神戸新聞社に彼が送っていたという「第2の声明文が」がでた。
「神戸新聞社へ
 この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた。
 人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命(原文ママ)である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう。やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、(p254~)いままでも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。
 だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない。そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
 しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
p255~
    最後に一言
 この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚(けが)される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね。ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

 ---ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている---」

 忽ち世間は騒然となった。この犯罪についての批判やら分析が飛び交った。まず(p256~)目をつけられたのは家庭環境、父は? 母は? それから学校、教師。交友関係。分析とホジクリと噂と批評。牽強付会。神戸地方検察庁はこういう見解を発表した。
「少年は小学校5年のころ、大事に思っていた祖母が死亡したのをきっかけに、死とは何かについて強い関心を抱くようになった。小動物を殺して解剖しているうちに楽しむようになり、良心の葛藤を伴いつつエスカレート。人を殺害してみたいという欲望にかられ、無抵抗の人間を対象に一連の犯行に及び、残虐性や特異性が強まっていった」
 分析による論理的解明というものが、いかに無意味であるかを私は思わずにはいられない。少年の弟が病弱だったために母は弟にかかり切りになり、少年は祖母に溺愛されて育った。その祖母の死が少年の心に衝撃を与え、「死とは何かについて強い関心を抱くようになった。小動物を殺して解剖しているうちに楽しむようになり云々」…何度読み返しても、納得することは私には出来ない。要するにそういう経過を経て彼は「変質者」「精神分裂症」になって行ったということなのか? それだけなのか?・・・だからどうだというのだ。
 逮捕された彼は、取調官がなぜお前は切断した首の口を切り裂くようなことをしたのかと問うたのに対して、
p257~
「ただ、そうしたかったんや」
 と答えたということを、私は少年Aについての高山文彦氏の労作「地獄の季節」の中で知った。そして、
「ただ、そうしたかったんや」
 という一言は私の胸に染みた。つかまえ所のない彼の数多い手記や発言の中で、これだけが真実の声だと私には思えるのだ。彼の中には彼のほかにもう一人の彼がいる。そのもう一人の彼によって彼は「口を切り裂こう」という気持にさせられた。なぜかといわれても彼は本心を説明することが出来ない。もう一人の饒舌な彼の中に巻き込まれているからだ。だから彼は、
「ただ、そうしたかったんや」
 というしかなかったのだろう。(略)
P259~
(大半 略)
 高山文彦氏は「地獄の季節」の中でこう書いておられる。
p260~
「いずれの日も、心に大きな動揺と興奮がわき起こり、本名としての自己では持ちこたえることができず、架空の自伝の中心に『神』を置き、必死の形相で本名としての自己から逃れようとしている滑稽なくらい哀れな姿が見てとれる。奇怪なこころの世界をあらかじめ描くことによって、逮捕されたとき『精神異常者』としての特典にありつこうとでも考えているのだとしたら、彼の道化はあまりにも幼稚すぎる」
 しかし私は思う。
 少年は「架空の自伝の中心に『神』を置き、自己から逃れようとしている」のではなく、彼は「支配されていただけ」ではないかと。
 逮捕された時に精神異常者としての特典にありつこう、などと小ざかしく考えたのではない。彼は夢遊病者のように、あるいは催眠術にかかった人のようにそれらのことをした。いや正確には「させられた」。彼の本来の人格は「悪霊(あくりょう)」に占領され呑み込まれている。本当は彼は何も考えていない。良心が痛むこともない。彼はタンク山で顔見知りの小学生を殺し、翌日再びその場へ行って金ノコで頭部を切断し、遺体の下に敷いていたポリ袋に溜った血を飲んだという。それが「聖なる儀式アングリ」なのであろう。
 いみじくも高山氏は書いている。
p261~
「少年Aはこころの空洞を、いつしか『虚無』というもので満たしていったのではないか。やがてそれが『バモイドオキ神』として姿をあらわしたのではなかったのか」と。
 それを私なりに解釈するとこういうことになる。
---少年は悪霊に憑依されていたのである。
 悪霊とは人の怨霊などに自然霊が加わった強力な低級霊団のことである。俗に自然霊といえば狐霊、狸霊、蛇霊、天狗霊などが代表(?)しているが、それらのほかに、形もいえないような奇怪なものたちがいるという。人間のすることとは思えないような残忍な殺傷の場合は自然霊が加わっていることが多いということだ。
 悪霊は少年に憑依した。少年の「心の空洞」に呼び寄せられたともいえるし、つけ込んだともいえる。しかしその空洞は少年が穿ったものではないのである。空洞は何によって作られたか。祖母の死? それは契機だったかもしれないが、それだけではない。
---切り拓かれた丘の上のニュータウン。僅かな土くれも見当たらず、人工の石畳で塗り固められた6角形の箱の底のような広場。整然たる街並。
「地獄の季節」の中のそこかしこには、この町の無機質な様子が出てくる。
p262~
「この広大なニュータウンのなかに、本物の川は一本しかなかった。名谷駅そばの団地内を通るタイルで3面張りにされた小さなその川でさえ、水は一滴も流れていなかった。橋はいたるところに架かってはいるが、その下を流れているのは、どれも水ではなく車である」
 自然の匂いも色も手ざわりもない、物質文明のまっただ中での日々の暮しが、無機質な少年を育てたといいたい高山氏の咏嘆もよくわかる。それに加えて(私は実証できないが)心理分析家のいう彼の母親の教育への偏った考え方も、空洞を広げる役割を果たしたかもしれない。
 そして少年は自我が確立されないままに孤独を抱え、そのため人格を占領されて変貌して行った。彼には寂しさや口惜しさや悲しさに耐えて乗り越えていくための少年らしい単純な強い力がなかった。ある意味において彼は純粋で頭のいい考え深い少年だった。純粋は悪霊に占領され易いという。彼には魂の強さが育っていなかった。
 少年が通り魔事件後の4月に書いた「懲役13年」という手記がある。

1.いつの世も…、同じ事の繰り返しである。
 止めようのないものはとめられぬし(p263~)
 殺せようのないものはころせない。
 時にはそれが、自分の中に住んでいることもある…
 「魔物」である。
 仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う(原文ママ)
 心の独房の中…
 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、
 “何”が見えているのであろうか。
 俺には、おおよそ予測することすらままならない。
 「理解」に苦しまざるをえないのである。
2. 魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、
 あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。
 それには、かつて自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。
 こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に…(p264~)
 しかし、敗北するわけではない。
 行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。(以下略す)

 彼は闘おうとして苦しんでいたのか。自分の中の、止めよう抑えようとしてもどうしても動かされてしまう力と。自分で自分がわからない。湧き起ってくるどうすることも出来ない力を彼は殆ど「魔物の力」と感じた。
 しかし彼は自分の中の悪霊の存在を知っていたわけではないだろう。ただ比喩として「魔物」という言葉をつかっただけではないのか。その彼に、「君の中にソレがいるのだ、悪霊が」と教えたら、彼はどうするだろう。それを思うと私はいうにいえない憐れさでいっぱいになる。 

     2

 少年Aについて私はあまりに長く書きすぎたかもしれない。こんなに執拗に書いたのは、私の考えを読者に納得してもらいたいからである。神戸家裁は少年を医療少年院送りと決めた。鑑定書は少年の非行時も現在も顕在性の精神病状態にはなく、意識清明で、年相応の知的判断能力があると判定している。
p265~
「未分化な性衝動と攻撃性との結合により持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった」と。
 人が人を理解することの困難を改めて私は思う。家庭裁判所は「意識清明で、年相応の知的判断能力があり、かつ性衝動と攻撃性からサディズムが育った」と判断し、私は「悪霊の憑依」だと考える。おそらく多くの人は前者を肯定し、後者を黙殺あるいは嘲笑するだろう。私を含む極めて僅かな心霊を信じる人たちだけが悪霊憑依を確信している。そうしてそのどちらも信じかねる若干の人たちが、彼を憎み、怖れ、医療少年院送りになったことに不安と怒りを抱いている。あの鬼畜のような残忍な行為はまさしく彼が行ったことであるから、それは当然の感情だといえるだろう。医療少年院での彼の様子は我々には皆目わからないから、彼が出て来た時の心配が誰の胸にもある。勿論私にもある。家裁はいう。
「熟練した精神科医による臨床判定(定期的面接と経過追跡)と並んで、熟練した心理判定員による定期的心理判定を活用すべきである」
「少年を、当分の間、落ち着いた、静かな、一人になれる環境に置き、最初は1対1の人間関係の中で愛情をふんだんに与える必要があり、その後徐々に複数の他者との人間関係を持たせるようにして、人との交流の中で、認知のゆがみや価値観の偏りを是正し、(p266~)同世代の者との共通感覚を持たせるのがよい」
「なお、少年の両親、特に母親との関係改善も重要である」
 これを一読して忽ち私はしらけた。これで解決した(解決できる)と、本気で思っているのか。ここにあるのは観念的な言葉の羅列だ。もはやこうした一定の言葉を並べてことがすむような時代ではなくなってきているのだ。物質文明の爛熟が人間の価値観を変え、精神性を侵害してきていることの、これは端的な現れではないのか?
 私は思う。悪霊にとり憑かれたこと、それが彼の罪だろうか?
「心の空洞」を作ったこと、無機質な人間になったこと、それが彼の罪だろうか?と。
 1997年に起きたこの事件の翌年から、まるで伝染病のように十代の少年たちの殺人が始まった。まず98年1月に19歳の少年が「誰でもいいから殺してやろう」と考えて、幼稚園の送迎バスを待っていた幼女など3人を刃物で刺し、(後略)
――――――――――――――――――――――――
〈来栖の独白 2018.12.3 Mon〉
 佐藤愛子さんの仰っていることは正しいのかも知れない。江原さんの

>わたしが見ると、まだ十代らしい細身の青年が見えるんです。眼が細くて、目尻がつり上がっているんですけど・・・

 も、当たっていた。
 しかし、佐藤さんや江原さんのような能力や体験を持ち合わせている人は極めて少数だ。また、

>狐霊、狸霊、蛇霊、天狗霊などが

 と言われる(p261)。霊能感覚を持ち合わせない大多数には、難しそうだ。

>悪霊は少年に憑依した。
>---切り拓かれた丘の上のニュータウン。僅かな土くれも見当たらず、人工の石畳で塗り固められた6角形の箱の底のような広場。整然たる街並。
「地獄の季節」の中のそこかしこには、この町の無機質な様子が出てくる。
> 私は思う。悪霊にとり憑かれたこと、それが彼の罪だろうか?

 無機質な風土が、あった。その故に少年Aは悪霊にとり憑かれた、と佐藤さんは云われる。私のような何らの霊体験のない者には、理解しがたい。
 少年Aは医療少年院で人間性を回復した、と私は思う。その後、彼は手記『絶歌』を出版する。彼自身、出版をさほど願っていたわけでもないのに、出版社という「悪しき人間ども」が彼を唆した。ほとほと、悪霊(悪しき人間ども)の蔓延する世の中だ。
――――――――――――――――――――――――
平成9年(少)傷害、暴行、殺人、殺人未遂、死体損壊・遺棄保護事件 家裁審判「決定」全文(所謂事件名;少年A 神戸連続児童殺傷事件)『文藝春秋』 2015年5月号掲載 
神戸連続児童殺傷事件 [手記=僕の事件と母親には何の因果関係もない]×[判決文=愛着障害の可能性]
【元少年Aを闇に戻したのは誰か 7年2カ月の更生期間が水の泡】杉本研士・関東医療少年院元院長 2015/9/16
『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行〈…「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する僕の「答え」〉
「山地が逮捕時に見せた微笑み…あれほど絶望した人間の顔を僕は見たことがなかった」元少年A著『絶歌』  
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元少年A一家は、被害者遺族から損害賠償請求を起こされ、約2億円の負債を背負っている。これまで約8700万円を返済 ※『週刊朝日』 2015/6/26号
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この世で最も難しい手紙を、心身を削りながら元少年Aは書こうとしているのではないか 2016/2
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