『百年の手紙--20世紀の日本を生きた人々』-6- 忘れられた死 田村勝則少年

2011-09-17 | 本/演劇…など

『百年の手紙--20世紀の日本を生きた人々』忘れられた死
第39回(中日新聞2011/09/14Wed.) 梯久美子 著
(前段略)
 夭折とは若死にの意味だが、才能ある人や前途ある人の死を悼むニュアンスがある。では、ほとんど誰にも惜しまれることなく短い生涯を終えたこの少年の死を、何と呼べばよいのだろう。
 1946年5月、田村勝則という少年が巣鴨プリズンで絞首刑に処された。資料には18歳とあるが、生年から計算すると、満年齢は16歳または17歳だったはずだ。巣鴨で処刑された人の中では例外的に、彼は戦犯ではなかった。
 当時の北海道新聞が事件の概要を伝えている。田村は終戦の12月、二人の仲間とともに札幌の米軍宿舎の倉庫に忍び込み、菓子を盗もうとしたところを警備の米兵に見つかった。捕えられた仲間を助けようとして、倉庫にあった銃剣で米兵を刺し、死なせてしまったのである。
 米軍の軍事裁判で裁かれ、絞首刑を宣告された。逮捕から判決まで2か月、裁判はわずか2日で結審している。
 この年齢の少年が極刑に処されたとは信じがたいが、進駐初期の緊張した状況の中での事件であったことに加え、殺された米兵が治安を維持する憲兵(MP)であったことも刑を重くした。敗戦、占領という歴史の背景があっての極刑といえる。
 巣鴨プリズンの教誨師をつとめた花山信勝が、著書『平和の発見』の中で、この少年の最期について記している。死刑執行の直前、花山が遺書を書くよう勧めると、彼は鉛筆でこう書いた。
〈お父さん、お母さん、いついつまでも、どうぞお元気で。なにも思いのこすことはありませんが、親孝行のできなかったことだけが、ざんねんです。いずれ、お浄土でお会いしましょう。21年5月17日午前4時27分〉
 刑場に入る前に、花山は「君が代を歌うか」ときいた。戦犯はほぼ例外なく歌ったというが、彼は「いや」と答えて歌わなかったという。
 田村の死について触れたおそらく唯一のドキュメントである、上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉』によれば、彼は九州の貧しい家に生まれ、東京に出てきたが、昭和20年5月27日の空襲で罹災。札幌に渡って少年保護施設に入り、そこの仲間たちと窃盗を繰り返していた。巣鴨で処刑された人たちの記録は米国立公文書館に保管されているが、田村に関する書類はないという。
 田村少年は間違いなく、歴史の中の死を死んだ。しかし、、その死は当時も今も顧みられることなく、忘れられたままである。
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〈来栖の独白〉
 1つ前のエントリ 『百年の手紙--20世紀の日本を生きた人々』-5- 「佐藤総理に死を以て抗議する」由比忠之進 の〈独白〉で、〈私はいつの頃よりか、歴史上に名の残る人たちにではなく、無名の人たち、群像に心惹かれてきた〉と書いた。本エントリ[忘れられた死 田村勝則少年]も、そのような風景を描いていて哀切だ。
 想起させられたことがある。島秋人さんのことだ。昭和42年11月2日、小菅(東京拘置所)にて刑死している。田村少年と同じように、島さんも不遇の中に生育(昭和9年6月28日満州生まれ)、死刑囚となって死んでいった。飢えに耐えかねて農家に押し入り2千円を奪い、争ってその家の人を殺害したのだった。
 私事だが、島さんの養母 千葉てる子さんとは親交をいただいた。敬虔なクリスチャンでいらした。


 

 

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