「心よりありがとう、ステキでした、赤星選手!」  「森野、お疲れ~」

2009-12-12 | 相撲・野球・・・など

【赤星・独占手記】「ファンのみなさま、ごめんなさい」(スポニチ2009年12月10日)
 セ・リーグ記録の5年連続盗塁王に輝き、通算381盗塁の球団記録を樹立した阪神・赤星憲広。「レッドスター」の愛称で親しまれたリードオフマンは、スポニチ本紙に寄せた独占手記で縦ジマのユニホームに別れを告げた心境を明かした。

 涙が出る暇もなかった…。「引退」の文字が頭に浮かんできてから約1カ月。33年間生きてきた中で一番つらくて苦しい1カ月だった。いろいろなことを考えた。1日、1日で気持ちが変わっていた。きょうは“絶対にやってやる”と思っていても、次の日は不安になって“辞めようかな”とか…。今までいろいろ野球で悩んだこともあった。つらいこともたくさんあったけど、33年間生きてきた中で、これだけ悩んだことも初めてだった。最終的に「引退」という結論を出しました。
 自分の中で野球を続けることがベスト。ただケガをした際に医師からは今度、同じようなことが起こったら不随や呼吸不全を発症して死に至る可能性もあると言われました。その中で最終的な決断に至った理由としては、やっぱり将来的なことを考えるようになってからですかね。身を引くことは仕方ない…とね。
 僕はプロ野球の世界に飛び込むときに今の力では通用しないと思っていた。みんな体も大きいし、強い。その彼らが100%の力を出してしまえば、全く太刀打ちできない。144試合トータルで考えると、70%ぐらいの力を持続することがプロとして大事。そういう中で僕はみんなが70%の力を出しているときに必ず、それ以上の力、80%から100%の力を出し続けなければ、彼らより上回ることはできないと思い続けてきた。
 でも、このケガを今後も背負いながら80%から100%のプレーができるのか?恐怖心もある。復活したとしてもブランクがある。みんなと同じように70%の力が出せるなら、経験と技術でカバーできるかもしれない。でも50%ぐらいの力しか出せないならアスリートとしてグラウンドに立つべきではないと思った。僕のプレーを見て“赤星選手みたいになりたい”と思ってくれている人もいるだろうし。それが僕らの仕事だと思う。今まで通りのプレーができる自信が正直なかった。ファンのみなさま、ごめんなさい。そして応援ありがとうございました。(阪神タイガース外野手・赤星憲広)
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こんなに広かったっけ」赤星が甲子園に別れ…(スポニチ2009年12月10日)
 「こんなに広かったっけ」。9日、引退を発表した阪神の赤星憲広選手(33)。同日午後6時ごろ、甲子園球場のグラウンドに足を踏み入れると、そうつぶやいた。
 赤星選手は2003年から、自分の盗塁数に応じて全国の病院や福祉施設にサイン入りの車いすを寄付し続けてきた。
 今年の盗塁数は31にとどまった。「最後は甲子園の芝生の上でサインをしたい」と球団に頼み、31台の車いすが9年間慣れ親しんだセンターのポジションに並んだ。
 直前まで開かれていた引退会見では硬かった表情が、照明のともったグラウンドに入ると、緩んだ。周囲を見渡しながら車いすに歩み寄り、一台一台にサインを入れた。
 「あと100台でも200台でも頑張って贈りたかった」。贈り続けた車いすは7年で計301台になった。側面には名字を英訳した「Red Star」と背番号を組み合わせた“RS53”というマークが入っている。
 外野の芝生に立つのはけがで途中交代した9月12日の横浜戦以来。後方のバックスクリーンを振り返り「久しぶりに来たけど、いい球場。ずっと守ってきたから、最後だと思うと寂しい」と話した赤星選手。別れを惜しむようにゆっくりとグラウンドを後にした。
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「そんなに悪いとは…」アニキが、新井が絶句(スポニチ2009年12月09日 21:40)
 阪神の赤星憲広外野手(33)が9日、兵庫県内で記者会見し、今季限りでの現役引退を表明したが、この衝撃にタイガースの金本、下柳らの仲間たちも大きなショックを受けていた――。
 【突然の赤星引退発表・阪神選手コメント】
 ▼阪神・金本知憲外野手の話 悪い悪いとは聞いていたけど、そんなに悪いとは思いませんでした。まだまだ野球にかかわっていくと思うので、後輩たちに多くのことをしっかりと引き継いで、野球界に大いに貢献していってほしい。
 ▼阪神・新井貴浩内野手の話 寂しいですね。最初は冗談だと思って信じていませんでした。赤星は選手会長でもあり、それ以上に真のチームリーダーとしてすごく周りに気配りができて、僕が移籍してきた時も同級生だし、本当に助けられた。
 ▼阪神・下柳剛投手の話 残念ということしかない。第二の人生を思い切り楽しんでほしい。でも、やっぱり、熱い男と野球ができなくなるのは、残念で仕方ない。
 ▼阪神・矢野燿大捕手の話 とにかく信じられない。これまで赤星が活躍、機能することでタイガースは勝ってきたし、来年からもそうなると思っていた。これからの人生もあると思うし、とにかく体を大事にして頑張ってほしい。
 ▼阪神・鳥谷敬内野手の話 入団時から公私ともにいろいろ相談させてもらって、赤星さんのおかげでここまでやってこられた。あまりにも急だったので、今はあまり言葉が浮かびません。
 ▼阪神・城島健司捕手の話 素晴らしい選手ですし、同級生としても阪神で一緒にプレーできることを楽しみにしていたので、引退は本当に残念。
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あのダイビングキャッチで…赤星、涙見せず引退表明(スポニチ2009年12月10日)
 阪神の赤星憲広外野手(33)が9日、兵庫県西宮市内のホテルで会見し、今季限りでの現役引退を表明した。9月に首を痛めた際には持病の椎(つい)間板ヘルニアの悪化とされていたが、その後の検査で「中心性脊髄(せきずい)損傷」と診断されたため引退を決断した。
 突然の引退表明だった。赤星本人にとっては悩みに悩んだ末の決断。「泣いたら、いろんなことを後悔する」。100人以上の報道陣が集まった会見では、現役への未練を断ち切るため最後まで涙は見せなかった。
 9月12日横浜戦(甲子園)でダイビングキャッチを試みた際に首を痛めてシーズンを棒に振った。持病の椎間板ヘルニアの悪化とされていたが、実際は脊髄損傷。「言葉に表せないぐらいしんどかった。首の痛みで眠れなかった」と今でも両腕にしびれが残る。医師からは「今度やったら、最悪命の危険もある」と言われ、報告を聞いた球団からはシーズン終了後の10月30日に引退をすすめられた。それでも現役をあきらめられず、いくつもの病院を巡ったが返ってくる答えは厳しいものばかりだった。
 ここ3年間はケガとの戦い。「全力プレー」という自分のポリシーを貫けなくなった時、ユニホームを脱ぐしかなかった。「僕は今33歳。あと30年以上ある。その人生を考えた時、この決断に至った」。11月28日に南球団社長と最終会談し、今月3日に引退を決めた。
 今後は未定。球団は退団するが「野球界発展のために、何らかの力になれればいい」と話す。最後のプレーとなったダイビングキャッチには「今でも夢に出てくる。でも飛び込んだことに後悔はありません」と言った。9年間の太くて短い現役生活を赤星はトップスピードで駆け抜けた。
 ◆赤星 憲広(あかほし・のりひろ)1976年(昭51)4月10日、愛知県生まれの33歳。大府高では2、3年春のセンバツ出場。亜大、JR東日本を経て00年ドラフト4位で阪神入団。1年目からレギュラーとして走攻守ともに活躍。新人王のほか05年まで5年連続盗塁王。03、05年と2度のリーグ優勝に貢献した。通算成績は1127試合で打率・295、381盗塁。1メートル70、66キロ。右投げ左打ち。
 <歴代3位の盗塁成功率>赤星は歴代9位タイの通算381盗塁を記録。失敗は88度と少なく、盗塁成功率は・812。通算300盗塁以上の選手では広瀬叔功(南海=・829)、松井稼頭央(西=・814)に次ぐ3位の成功率を残した。また、今季は91試合に出場しリーグ3位の31盗塁。引退年に30盗塁以上は珍しく、51年の坪内道典(名古屋=37盗塁)以来58年ぶり2人目になった。
 <過去の電撃引退>
 ◆83年・小林 繁(阪神=31歳)82年シーズン終了後に突然「15勝できなければ引退する」と宣言。翌83年は8年連続2ケタ勝利ながら、13勝14敗と公約には届かず。「肩の故障で思うような投球ができない」との理由で引退した。
 ◆87年・江川 卓(巨人=32歳)9月20日広島戦(広島)で9回2死から小早川に逆転2ランを被弾。試合後はマウンドにうずくまり号泣。13勝5敗の成績を残したが、シーズン終了後の11月12日の引退会見で「あの試合で江川卓の野球は終わった」と吐露。
 ◆06年・新庄 剛志(日本ハム=34歳)4月18日オリックス戦(東京D)の第1打席で本塁打。「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と名づけると、試合後のお立ち台で引退を表明。日本一となった翌日の10月27日にあらためて引退会見を行った。
 ※年齢は現役引退時
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森野、背番号30
中日新聞2009年12月12日 紙面から
 中日は11日、「3」の返上で未定となっていた森野将彦内野手(31)の来季背番号が「30」に決まったと発表した。この日、名古屋市中区のホテルで行われたパーティー「東海ラジオ・ガッツナイター感謝の夕べ」に出席した森野は「球団にすべて任せてあったので、ぼくから言うことはありません」と言葉少なだった。
 パーティーで今季の優秀選手として表彰された森野は壇上に立つと、司会者からの背番号の質問に「自分のわがまま。気持ちの整理がつかなかったので、球団に預かってもらうことになりました」と約300人の来場者に「3」返上の経緯を説明。「(新背番号が)30番に決まったようですが、何も言うことはありません」と付け加えた。
 新選手会長としての意気込みを尋ねられ「野球で引っ張っていきたい。しゃべるのは苦手なので」と話した森野。入団時の「7」から数えて6つ目の「30」がついた背中を若手にみせながら、真のチームリーダーとなったとき、7つ目の「3」をまとうことになる。
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森野、背番号「3」保留
中日新聞2009年12月10日 朝刊
 中日の森野将彦内野手(31)は9日、名古屋市内で契約更改交渉後に会見し、今季限りで引退した立浪和義氏から継承した背番号「3」について「球団に1年間、預かってもらう」と明らかにした。
 ドラゴンズを代表する背番号の重みを再認識した決断といい、来季に納得のいく成績を残せば正式に引き継ぐ。
 今季背負った「31」は既に中川裕貴外野手が付けることが決まっており、森野の来季の背番号は未定。近日中に発表される。
 5年契約の2年目となる来季の契約更改交渉では、4000万円増の1億6000万円でサインした。
 今季はプロ13年目で初めて全試合に出場。打率2割8分9厘、自己最多の23本塁打をマーク。打点は109と初めて3けたに乗せたが、打点王は1差でチームメートのブランコに譲った。今季は三塁を守り、リーグ最多の25失策を記録した。
◆来年納得いく成績を
 -背番号の継承について。
 オーナーから発表があったが、いろいろ考えて、来年1年間、球団に預かってもらうことになった。3番は特別な存在。みんなも分かっている。今年の成績では僕が付ける番号ではない。
 -1年後に背負うのか。
 それは球団が決めること。ひどい成績では球団が付けろと言うはずがない。来年1年間、野球に集中してみんなが納得いく成績を挙げたい。
 -来季の背番号の希望、31番への愛着は。
 球団に任せている。3番を預かってもらったので、希望はない。これまでたくさん背番号(7、8、16、31)が替わっているので愛着は何とも言えない。ただ、3番は今までの番号と違うので考えてしまう。
 -来季、打率3割、本塁打30本の目標達成が継承のラインか。
 それより守りの面が大きい。球場で一番出ている時間が長いのが守備。その時間に輝かないといけないのに、今年のようだったら3番がしぼんでしまう。堂々とグラウンドに立てるのが3番。立浪さんの背中を見ているので。
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〈来栖のつぶやき〉
 赤星さん。悲しくて悔しくて・・・言葉になりません。プレーを観ていて、他の選手の場合も、怖いって思うことが何度もあります。・・・言葉になりません。心よりありがとうございました。ステキでした。赤星選手!

 森野、お疲れ~。背番号は、選手にとって愛着のでてくるものだ。勝負の世界、験(げん)を担ぐ世界で、数字(背番号)が気にならないはずはない。それを何度も何度も替えさせられた。本人の意思ではなかった。こんなことに要らぬ神経を遣わされて。森野、ほんとうにお疲れさま。
 だけど、今回の対応、上首尾だったね。無下に断れば角が立つし、かといって受ければ負担が大きすぎる。上手に裁いたね。誰か良いアドバイザーがいるのかな。そうであってほしい。


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