水上勉著『金閣炎上』 新潮社 昭和54年7月25日発行

2006-03-23 | 本/演劇…など

水上勉著『金閣炎上』 新潮社

〈来栖の独白〉
 もしこの作品の心に残った部分をすべて書き上げてゆくとすれば、一冊を丸々写すことになってしまうだろう。この作品は、私に教え続けた。昭和54年6月21日に「あとがき」を記しておられ、初刷りが同年7月20日、発行が同月25日、私の購入期日は同年8月9日である。当時長男が幼かったから、発行を知って近所の書店へ注文したのだろう。楽しみに待って、手に入るや、耽読した。人間への視点、文体の美しさ。これほどに愛した作品は、ない。悲しい作品だ。美しい作品である。美しさの極みは悲しさである、と私は捉えるようになっていた。
  昨年水上勉さんが亡くなられた。最晩年のエッセーに「毎晩、床につくとき、これが(人生の)最後と思って床につく」と書いておられたのを思い出す。いまあちらで、林養賢さんと語らっていらっしゃるのだろうか。 (一先ず2006,3,23にupし、順次書き加えてゆきたい)

p3~
 青葉山の中腹にあった私の分教場から岬へゆくのに、尾根づたいの杣道しかなかった。私はよく児童をつれて岬の杉山峠まで散歩した。岬のけしきは濃紺で描かれた一幅の絵で、子供らは鹿が寝ているようだと云った。なるほど、うずくまったけものだ。
p5~
 昭和十九年の八月はじめである。確かな日はわすれたが、陽のかけらがそこらじゅうにつきささる暑い午すぎだった。杉山峠から北へ少し行った茅っ原で、その男たちと出あった。男たちというのは、私が京都の相国寺塔頭の小僧だった頃、本山宗務所から今宮の大徳寺よこにあった般若林中学へ通っていた上級生の滝谷節宗と、もう一人はその時しか見ていない中学生だった。
p7~
 中学生を、私は見すえた。金閣寺の小僧。縁は多少どころでなかった。瑞春院の先住和尚が金閣寺へ栄転して住職になった。成生の裏の野原からきていた小僧も和尚についていって金閣の小僧になった。その金閣寺へ、また小僧が、しかも成生から。成生に西徳寺という寺があったのか。まったく、私にとって、意外な思いがしたので、国防色の制服の第一ボタンをはずして学帽をやや阿弥陀にかぶり、よくみれば中学四年らしくなく少年じみてみえる学生を見守った。と、学生は私から視線をそらした。滝谷と私の話に、瑞春や花園の名が出ても、無関心といいたげなのが私には不満に思えた。そこで、金閣寺和尚は相国寺塔頭から赴任したはずとか、その時いっしょについていった浜田弘は、私の法兄で、成生のうらの野原の出身だ、弘さんは元気か、滝谷へとも、その若者へともなくきいた。
 「弘さんは戦死したがいね」
 と滝谷がいった。うしろから、中学生が、
 「き、き、き、金閣は先住さんが死なはって、もうし、し、し、新命さんが長老はんです」
 どもりながらいった。私は二どびっくりした。極端な吃音だった。き、き、きと首の血管がふくれるほど息張った。
p9~
 この中学生がまさか、六年後に金閣へ放火して世間を騒がせようなど誰が思えただろう。
 金閣が焼けた時、浦和市白幡町の農家の土蔵を借りて住んでいた。のちに別れた妻が神田のダンスホールへ通う留守を、四歳だった長女を守しながらのぐうたら生活だった。浦和でも号外が出た。藁半紙の半切ぐらいの大きさで、「国宝金閣焼ける」と大見出しがあり、“放火容疑者は同寺徒弟の大学生”と副見出しだった。
p10~
 だが夕刊がきてわかった。午前三時〇五分に炎上した金閣は徒弟林養賢によって放火されていた。私は絶句した。六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。帽子を阿弥陀にかぶった額ぎわのせまい男。私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。あの男が火をつけたか。
p12~
  ここで気になったのは、新聞が林の生誕地を「福井県」あるいは「若狭」と報道していることだった。林の生誕地は舞鶴市字成生だから丹後、「京都府」である。どうして、また、こんな間違いを書いたか。あとで、こんなこともふかく考えさせられるようになるのだが、よこ道にそれるので云わずにおく。
  新聞の一字一字は私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた。浦和にいるのがもどかしかった。京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいたろう。
  犯人の林とは、六年前に会っているのだ。また焼けた金閣は、少年時にいた相国寺派だ。
p13~
  母の林志満子が、(中略)養賢が会見を拒否したので、失望のあげく帰村する途次、山陰線保津峡駅をすぎた汽車が断崖にさしかかったころ、車両の連結点から、川へ投身した。
 死体は岩石にあたって、頭と顔をくだいた即死だった。子の罪を身をもってつぐないたい、と彼女はもらしていた、と新聞記者はつけ加えていた。
p29
 高橋家はそこの中農といっていい部類で、志満子は長女。幼児から勝気で、学校へ入っても負けん気つよく、成績もよかったが、十二歳の時、母が死亡したため高等科を途中でやめた。年少の弟がいて、家事全般を早くからひきうけねばならなかった。高等科を断念したことが、のちのちまで口惜しかったらしく、成生へきてからも、そのことを村人にもらしていた。
p31~
  村人の目にうつった志満子の輿入れとその後の生活は、そのように語りつがれていたにしても、もう一つ踏み込んでみれば、二十四歳の他郷の女が、成生の辺境生活をはじめて経験する、寺の妻の座は珍しくもあったろう。が、養賢が生まれる昭和四年まで、肺結核の和尚とふたりですごす足かけ五年は、夢もそぎ落とされていった歳月だと見ても間違ってはいまい。
  山の迫った谷奥の陰地の寺。しかも、北に面した居間には、日のさす時間が短い。冬は床も畳もしめった。寒気は山風とともに天井の高い庫裡じゅうを吹いた。そこで青痰を吐く夫と顔つきあわせてくらす日常は、里を出た時考えたような甘いものでもなかった。だが、志満子は畑へも山へも出た。田植えにも出た。肥え持ちこそ酒巻家にしてもらったが、日がな峠をこえ、谷田の農事をつとめ、暮れて帰って、和尚との食事を支度した。二十代にしてはまめまめしい姿であった。
  若い志満子が西徳寺に不満ながらも腰すえていった事情に、彼女の律儀な性格は出ている。
p32~
  (当時としては晩婚だった)それと、禅宗寺へ嫁すことが、虚栄を充たしたらしい形跡がある。母の早逝後、弟を育てた勝気女が、就学の望みも余儀なく絶たれ、優等生を友人にゆずった口惜しさを、世間的にとりかえし得る道は結婚しかなかったので、人からもちこまれただいこくの座の、未知の寺を、いくらか美化して同級生にもはなし、当人からとびついてやってきた経過も推察できた。
  道源の肺結核は、仲人口にはなく、病身だぐらいにきいてきたらしい。結核は当時は死の病だった。いまの癌ほどおそれられた。二十四歳の娘が、そんな僧が待っているとは知らず、紫に花柄の銘仙地の着物に、黄色い名古屋帯をしめ、トランクと日傘だけもって、舟から桟橋に降り立った姿には、孤独で気丈だった性質もあらわれている。
  林養賢の生誕は昭和四年三月十九日である。志満子が二十八歳の春。この日ごろは六地蔵のよこの紅梅も散りつくし、裏山の細木の山桜がうす桃いろにつぼみはじめていた。
 山の雪もとけ、小石の出た道に日がな湯気がたった。子がうまれる季節にいい気候だ。
(ここまで2006,3,23,up)
p34~
  昭和三十六年の夏訪れた際、私は酒巻広一の案内で西徳寺の庫裡と本堂の一つになった建物の中へ入った。(略)
 「わしらもうまれておらん時分のことやで、寺ではどこでお産をしなさったもんやわかりませんけど、奥は本堂になっとるで、いくら何でも、仏様の前で目出度事も何やで、やっぱり、産むとすればここしかないわけになりますなァ」
  と広一は下間の部屋が養賢の産まれた部屋だろうといったあとで、
 「けど、この部屋は、病気の和尚さんが寝とらんしたところやし、部屋でないとすると土間かもしれんなァ。わしら、時どき養賢さんのところへあそびにきて、ここからのぞくと、和尚さんはいつもふとんを胸までひきあげて、高枕にあたまをのせ、天井を向いて、こっちは向きなさらなんだ」
  というのだった。結婚当時、和尚は結核だったのだから、寝たり起きたりでは、当然居間に万年床が敷かれていたとみてよい。すると、志満子の出産は、その夫の床のわきではされまい。和尚が床あげして、分娩のために、一週間ぐらい本堂へうつって志満子にゆずったとすれば別だが。
p38~
  酒巻広一の案内で、私は寺の裏から大松山へのぼった。そこで西徳寺の所有する畑と水田を見た帰りに、産小舎があったといわれる淵の上に佇んだ。岩石が嶮しく落ちる岸から、くずれ岸の畑がのび、台地のわずかばかりの平坦地に草の茂った礎石跡があった。三畳間ぐらいの広さはあるだろう。風の吹きつける野ざらしの産小舎跡はから遠く離れていたために、こんな所にまできて子を産まねばならなかったの因習のふかさを思わせた。
 志満子がその小舎で養賢を出産していなかったにしても、限られた農地しかない貧寒で、うとまれての出産であることをつゆ知らず、冬空にひびいたろう、幾人かの子の産声をきく思いがした。
p41~
  三歳の頃から養賢は吃りはじめた。三歳の何月ごろかはわからぬが、志満子が事件発生後、西陣署員の訊問に応じた調書にそれが出てくる。「あの子は三つのときからどもるようになりました」とある。志満子の述懐だけでなく、酒巻広一や、二、三の村人の証言でも、三歳頃から吃音症が出たとわかる。
p42~
  道源夫婦に和気みちた平穏があったとはいえない。広一はじめ村人の証言にそれはあって、しょっちゅう夫婦はののしりあっていたという。
p43~
  三歳からぜぜった養賢が、村の子らとあそぶにしても、次第に偏向が生じ、敏春のように女の子とあそんだ様子はないにしても、孤独になってゆく経過は呑みこめるのである。
p48~
  父の病臥する庫裡からわずか離れた土蔵に入って、錠をおろし、尺八吹く養賢の、蛇の皮を首にまいた性向は、言語障害の子だけに、いま、明暗さまざまな思いを抱かせる。
p50~
  吃音をあなどられながらも養賢が、低学年の子らと寡黙なつながりをもって、蛇を投げてやったり、山桃の果をとったりしつつ田井へ通うけしきはこれで彷彿する。
p71~
 「金閣放火僧の病誌」でつぶさに林養賢の幼少年期を調査された小林淳鏡氏の文章に次の一節がある。
 「母の性格は、我儘、疳つよく、派手好き、勝気、所謂頭痛持ちで、親族も持て余し、林も母は父の性質と反対であったと述べている。また母は村からは高慢、多弁、片意地だとして好まれず、後年の金閣放火事件の際も『あれの子なら放火くらいしかねないだろう』との悪評があった程である。かかる状態で母にとっては経済上の苦労、村の冷遇、僻地の不便な生活、夫の病臥などは耐え難いものがあり、田舎の生活を嫌い、町で商売でもして気楽にくらしたい、としばしば云った。そして林に将来の望みをかけ、極めて厳格かつ大切に育てると共に、我儘をさせる点があった。母は元来丈夫ではなかったが、父の病勢とは逆に頑健となり肥えてきた。父母の間柄は無論正確なことは不詳だが、性格の甚だしい相違、父の病臥、生活上の問題よりして、必ずしも常に調和していたとは云えなかった」「母は村民としばしば悶着をおこし、かつ真偽不明だが素行上に不評があった。さらに母は村民に『養賢は将来金閣寺の住職になる。私はあの子が一人前になるまで会わない』と云っていた」
p262~
  この判決は、のちに雑誌にも掲載されて、名判決といわれたが、不思議なことに、判決理由の中で、被告人林養賢の人となりを述べるくだりで、彼が三歳から吃音症にかかって、長じるにしたがって障害は強くなり、そのため他人に差別されつづけ、劣等感をつよめるに至ったことには一字もふれていない。重要点の欠如といえる。幼少時、父の肺結核が感染し、肥満体でありながら、胸部疾患を抱いていた事実にもふれられていない。また犯行動機として鑑定書もその追跡に時間を費やした「せられる云々」について、なぜ、養賢が慈海師及び徒弟、副司、執事等から擯斥されたかについての論及がない。あるいはこれは、簡潔を尊ぶ判決書ゆえ慣例として不要かもしれぬが、私には粗略に思える。
p264~
  寺側に犯人を育てた土壌があったとの指摘は、私の関心をひくのである。久恒氏が、何日ぐらい金閣庫裡に起居され、養賢を手つだわせて庭園修理をなされたか不明だが、「切羽詰った彼の心情が理解できる」とされるからには、隠寮と庫裡との事情、さらに副司、執事らの言動に接し、何らかの事実を目撃された様子がうかがえる。よそから塀をのりこえて火をつけに来た男ではなかった。住職が、己れは観光客の入場料で毎夜酒を呑み、酒肴代稼ぎの根拠となる金閣に放火する小僧を育てていた。つまり、弟子が火をつけたのである。
p269~
  動機について養賢はかく言明した。
 「私は金閣寺を見ていて僧になることがいやになって了った。将来の僧生活に絶望感をもつようになった。生来の吃音もある。雲水になってもうまくゆかぬだろう。といって田舎へ帰るにしても、村八分で西徳寺を追い出された母のいない寺は海臨寺の和尚が差配している。そんな所へ帰る気はない。還俗して生きてゆく自身ももちろんない。とするなら、いっそ金閣寺の象徴でもあり、金づるにもなっている舎利殿を焼いてしまったら気持いいだろう。あんなものがなくなれば、師匠も、禅僧としてのたてまえ生活と金銭欲のはざまで苦しむこともないだろう。あたりまえの禅僧にもどれるだろう。皆の眼をさますためには自分さえ死ねばいい。死んで、金閣を焼いて、あの男は、大きなことをやったな、といわれたい」
  三浦氏との問答からの推察である。
p283~
  この手紙も味がある。罪業ふかい己れを故郷成生の断崖から葬り去られたい。西徳寺で田井海臨寺和尚の役僧として読経し、野辺送りを努めたが、その時の霊魂となった人々から、断崖へみちびかれたい、といい、「安養の仏のふるさと成生岬の逆巻、怒涛の慈海に還源・・・」といっている。慈海師はこの手紙に出てくる「慈海」をどのように読んだろうか。
p294~
  京都新聞の三月十六日附けによると、入院直後から喀血をつづけ、臨終は七日午前十一時十分ころで、ベッドには二錦織透院長、担当の小林淳鏡医師と数人の医師、看護婦がいた。この日も朝から雨だった。短い二十六年の生涯である。吃音のため充分に人に思いを語れずじまいだった男が、血の絆の誰一人看取るもののいない病院で、息絶えてゆく孤独のふかさを私は思う。
p330~
  私がつとめていた高野分教場の足もと、といってもいい竹薮の一部を線路にとられ、一方は赤土斜面になった共同墓地の、椿林の一角に、林家の墓石群はあった。隅に二基、正四角立方型の二尺ぐらいの高さの石塔があり、一基は養賢のもので「正法院鳳林養賢居士」と彫字はよめ、一基は「慈照院心月妙満大姉」とよめた。裏に両名の死亡年月日があった。
  志満子は昭和二十五年七月三日になっていた。保津川投身の日である。ともに林家の建立による。母子が俗家へ帰ったのだから、養賢としては、身近な在家である林家にもどって不思議はない、と思えるものの、大江山麓から嫁にきた志満子が、里の墓地に眠らず、夫の実家の墓地で、成生の夫とはなれて眠るけしきは「三界に家なし」と仏門でいう女のありようを思わせた。子の墓石とよりそうようにならび、二基とも風霜で肌も荒れ、台石にはまだらにうす苔が被っていた。誰が供えたか、枯竹の花筒に、黄菊の束がさしこまれ、よごれた葉は涸れていた。
  養賢が林家に寄寓していた中学時代に、成生から海沿いの陽照り道を、日傘さして通った志満子が、「よくひとりぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった」と話してくれた酒巻広太郎の思い出の光景が私の瞼にゆらぎつづけた。
  帰りに村人にきいてみると、母子の墓には、僧形の墓参者はひとりとてないとのことだった。
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〈来栖の独白〉
 冒頭にも記したけれど、全編印象に残る文体で、総てを書き写したいほどである。水上氏の文章は、哀しく美しい。この作品の最終、上のp330“日傘さして通った志満子さんが、「よくひとりぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった」”の光景を私は幾度思い浮かべただろう。ちょっと恥ずかしいが、これがあったために、真似て、日傘さして白壁の拘置所へ通ったこともあった。拘置所傍の橋に立ち止まって、お堀一面に咲く紫の花を眺めた。その花の名前をこの春知った。花大根という。
  罪に問われた人の最期は侘しい。養賢さんは血の絆の誰一人看取るもののいない病院で深い孤独のうちに逝き、母志満子さんは保津川に自裁して果てた。私の弟藤原清孝も、刑務官に囲まれ縊られて死んだ。水上作品を私は多く読んできたが、哀切な叙情の中に不思議な安らぎを感じる。人は泣きながら生まれる。この世はそんなところだよ、ということか。そんなこの世を死期の迫った釈迦は「美しい」と云い、「人の命は甘美なものだ」と云った。
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