死刑批判で「バカは私」 寂聴さんが教えてくれた因果の道理
IRONNA 2016/11/08 22:39 高橋幸夫(「あすの会」幹事、医師)
日本弁護士連合会(日弁連)は人権擁護大会で「死刑廃止」を宣言した。その大会で、瀬戸内寂聴さんが作家として、出家者として「殺したがるバカども」とビデオメッセージで発言し、大きな話題となっている。私は、その大会に出席しており一部始終、見聞していた。私は14年前、妻を拉致誘拐され犯人が自殺、妻は行方不明のままとなった夫であり、この事件をきっかけに死刑制度に関心を持つようになった精神科医である。48年間の医療経験を重ね合わせて、日弁連や瀬戸内寂聴さんの件に感想を述べようと思う。
私の願いはただ一つ、失われた命を取り戻すことは出来ないが、悲惨な事件が繰り返されぬよう、社会ルールを堅持し、社会に安心、安全を取り戻すことである。そのためにも死刑制度は必要と考えている。
瀬戸内寂聴さんのビデオメッセージに批判の声が多く寄せられ、寂聴さんは、そのメッセージを否定する「バカは私」発言を再びなさった。この一連の流れから察するに、僧侶になろうとも、人の本心は変わらぬことを物語っている。出家し袈裟をかぶり体裁を整え、修行して徳を積み、人様に説教して廻り、傍目には「さすが僧侶」と見えた。しかし、それは表面的なものであり、本心は変わらぬことを自ら、我々に示したのである。
人間は生来持って生まれる生物学的性質と生活環境が、縄のごとくあざなって成長するものである。生活環境とともに、基本の生物学的に規定された性格(DNAレベル)要因が大きく左右し、人格形成がなされてくるのである。いくら良い環境で育とうとも、生物的に規定された性質によっては「反社会性人格障害者」が生まれてくることがある。生まれながらに犯罪(反社会的行為)傾向の強い人と言ってもよい。
これら一部の人たちは、適切な働きかけをしても、本人は反社会的行為だと気づかず、罪を悔いることもなく、残虐な犯罪を繰り返す人たちであり、更生や矯正治療によっても変わり得ないのである。すなわち治療反応性の極めて乏しい人たちである。この事実は、われわれ精神科医が日々痛感するところである。
統計数字から見ても、一般的な再犯率は40%~60%とも言われている。すなわち約半数の者は更生しないし矯正出来てないとも言える。殺人事犯では100人中1~2人は、再び殺人を犯すと言われている。再犯者には、暴力団関係者が目立ち、劣悪な生育環境下にいた者は少なく、相手を殺害するほどの事情がないにもかかわらず、その場の激情や興奮に単純に支配され凶行に及んでいるとの報告がある。
これは、感情が激越的に爆発しやすい性格であり、衝動的に反社会的行為を起こしやすいからである。このような人格障害者の矯正や更生は、とうてい望み難い。死刑廃止論者は、犯罪は社会環境のせいだとするが、社会環境が悪いだけではない。自己責任部分も多いにある。医学的観察や統計数字からみて、全ての人間が人の心の痛みを知り、更生できるとの考え方は、勉強不足というものである。虎も猫も子供のころはみな、かわいい。
しかし、成長するにつれ同じ環境下でも猫は猫、虎は虎に育つものである。死刑廃止論者は、教育すれば、みな牙をむかぬ猫や虎に育つと考えているようであるが、勉強不足も甚だしい。加害者弁護人は「更生の可能性あり」「反省している」との理由づけをするが、その根拠は極めて乏しいものである。再び罪を犯す者が半数いることが、その証左であろう。これは明らかに彼らの誤った判断である。
しかしながら、弁護人や裁判官から、今までこれらの現象についての反省を聞いたことがない。「更生の可能性あり」「反省している」との根拠をどこに求めて判断しているのだろうか。無責任と言う他はない。誤判ともいえるこの現象を、検証することもなく放置し今日に至っている。この風調が、弁護人や裁判官に対して信頼を失ってきている。早く正すべきであろう。理想像や望みを語るだけでは社会秩序は保てない。「バカは私」及び「日弁連の思考」から、思い起こすは「三つ子の魂 百まで」の諺である。
「死刑は執行したら取り返しがつかない刑罰だ。必ず間違いは起きるから死刑制度を廃止しろ」との主張には無理がある。冤罪は死刑制度だけの問題ではない。すべての裁判で起こる可能性はある。冤罪をなくさなければならないのは当然である。だが一方、全く疑う余地のない犯罪もあるのだ。
日弁連は、常套句の如く「免田栄さんのような冤罪事件があるから死刑は廃止だ」と言う。しかし、彼らが冤罪と言っている事件は、半世紀も前の事件である。現在の進歩した科学的捜査手法では起こり得ないことだ。日弁連の主張は、まるで「昔の天気予報は不正確で社会的損失が生じた。だから現在の天気予報を廃止しろ!」と言っているのに等しい。時代錯誤の言いがかりとしか思えない。冤罪を防ぐには、最近の科学的捜査手法と共に「疑わしくは罰せず」を守れば良いだけの話である。
すなわち冤罪は、捜査段階での手法や運用の問題であり、死刑制度そのものの欠陥ではない。死刑廃止論者は、「運用の問題」と「制度の問題」を、ごっちゃ混ぜにした勉強不足からのものに他ならない。問題をすり替えようとしているのである。
罪の重さと罰の重さは、常に等しくなければならないにも関わらず、日弁連は「罪刑均衡の原則」には触れようとしない。死刑廃止論に不都合が生じるからであろう。人の命の重さは平等であるというならば、犯人の命を重んずると同等に被害者の命についても語るべきであろう。なぜ日弁連は避けるのか説明がない。このように偏った見方しか出来ない日弁連は極めて危険である。
被害者が死刑を求めるのは、復讐心に燃えてのことだと、死刑廃止論者は決めつけている。しかし、そんな単純なものではない。遺族は愛する家族が生きて帰ってくれることを、まず望んでいるのである。事件当初は犯人に死刑をなど思ってもない。犯人を死刑に処しても、愛する家族が生きかえることがないことは、重々承知している。にもかかわらず、なぜ死刑を求めるかは、愛する者の命を犯人の命より軽く扱われることに怒りを感じるからである。
やられたから、やり返すと言う単純な復讐感情だけではない。犯人に死刑を求めるのは、被害者の命を粗末に扱う社会的不平等に対する怒りからであり、愛する家族を供養するきっかけ作りなのである。遺族は死者を供養しながら、再び頑張って生きていこうとする気力を取り戻すのである。それは、赤穂浪士が吉良上野介を討った直後、主君の墓参りをしたのと同じ「供養」の心なのである。
このことで命の平等性が保たれる社会に安心し、理不尽なことなく安全で秩序ある社会維持に繋がるのである。こうした社会秩序維持のための応報感情から、死刑を求めているのである。弱肉強食社会は決して許されるものではない。社会秩序の維持を願ってのことなのである。死刑は遺族に供養の時を与え、遺族の心を支え、遺族の社会復帰に必要な行事なのである。死刑は犯罪への復讐感情にとどまらず、遺族の社会復帰と社会秩序維持のために必要な行事なのである。日弁連は復讐感情と、応報感情の区別も出来ない残念な集団である。
今回の日弁連の宣言は、2020年に日本で刑事司法の専門家が集う国連会議があるため、急きょ用意した外交辞令からのものであり、日本国民を思ってのことではない。日弁連は、数年前から死刑問題について、全社会的議論をしようと提案してきた。しかし集まるのは死刑廃止論者がほとんどで、形式的なものに終わっている。大会出席者の発言からも明らかで、本来の全社会的議論には至っていない。日本国民の多くはそんな議論すら知らない。しかし日弁連執行部は、全社会的議論を行ったことにして、今回「死刑廃止」を決定したのである。それもこれも対外的面子を重んじてのことであろう。
今回の人権大会の決定は、真にお粗末であった。弁護士総数3万7千余人のうち、出席者はたった2%(786人)に過ぎず、その内の賛成者は69%(546人)、反対12%(96人)、棄権18%(144人)であった。たった2%の出席者でもって、日弁連は全総意として決定したのである。余りにも乱暴で無茶苦茶な団体である。驚くほかはない。このような乱暴な団体が、他に有るであろうか?お粗末な限りである。これが民主主義を唱える日弁連の姿であり、警戒せざるを得ない。
日弁連には、このような無茶なゴリ押しが他にもある。「死刑廃止は世界の潮流である」との呪縛的文言である。「死刑廃止国が140カ国ある」「日本だけが取り残され後進国になる」「世界の潮流は、今や死刑廃止にあり!日本も遅れてはならぬ」「廃止へ向けて、それ突き進め!」とけしかけ、脅迫じみたものを感じる。
しかしながら、わが国では、国民の8割以上が死刑制度を支持している。当然だが、死刑制度は国民の総意により決めるものであり、他国から強制されるものではない。他国が日本国を安心安全な国にしてくれる訳ではない。死刑廃止国が多いといっても、世界人口の7割は死刑存置国に住んでいるのである。また死刑廃止国の殺人件数は、存置国の数倍も多いと言われている。EU諸国(死刑廃止国)を日本と比べても、日本の2~3倍も治安が悪いのである。
EUに入るには、死刑制度を廃止しなければならない。その連合に加わっていた英国は脱退を決めている。その理由は、いろいろ有るのだろうが、移民問題、民族の融和問題、治安問題が含まれている。そうした国の駐日公使を講演者として招き、死刑廃止を説いていた。脱退までしようとしている治安の悪い国が、治安の良い国を指導するとは噴飯ものである。
また、「死刑制度はコストがかかる、執行する薬物入手も困難だ、だから死刑を廃止しろ!」との乱暴な意見を述べる講師もいた。死刑制度はコストの問題ではあるまい。安楽に死刑執行する薬物はいくらでもある。少なくとも麻酔科医や精神科医で知らない者はいない。手に入れることも十分可能である。昔からある極めて安価な薬物でもある。しかし、そんなこととはつゆ知らず、講演される講師がいた。余りにもお粗末であった。
日本は、他国より飛びぬけて治安の良い国であり、殺人事件は減少傾向にある。これは現行制度がうまく機能しているからに他ならない。誇りを持って現状を維持し、さらに治安の良い、安心安全で住みやすい国へと、まい進すればよいのである。お粗末な講演者や他国に惑わされて、制度変更する必要性は全くない。むしろ世界をリードし、世界に安心安全をもたらす役割を負うべきである。
最近、中近東の戦争から欧州へ移民が多くなり、種々の問題が生じている。経済問題、異宗教間問題、民族融和問題、テロ問題など、EU諸国に変化が見られ治安問題に繋がってきている。いわゆる潮目が変わっているのである。日弁連は世界の潮流と言いつつ、潮目を見逃している。それを見抜けぬ日弁連に日本を託すのは将来に禍根を残すだけである。
日弁連は「被害者遺族の厳しい感情は自然であり、被害者支援は社会全体の責務であり、何より心を致さねばならないのは、最愛の人を亡くした遺族の存在だ」と述べるものの、なぜ被害者や遺族を落胆させ、追い打ちをかけるようなことをするのだろうか。被害者の尊厳を無視して被害者支援もあるまい。
死刑を求めるのは、犯人への単なる復讐感情にとどまらず、社会秩序を維持する応報感情から来るもので、遺族は社会秩序の維持を願いながら社会復帰しているのである。犯人を死刑に処することで、遺族は供養の時を得、自らの心を支え、社会復帰しようと努力できるのである。それを支援するのが被害者支援ではないのか。しかし、それを否定するように、日弁連は「死刑廃止」を決めた。
これでは被害者支援どころか、被害者いじめである。犯罪被害に遭っていないからであろう。ならば被害者の声に耳を傾けるのが普通の人間であろう。なぜ無視し逆撫でするのだろうか。私は時に、死刑廃止論者の家族が殺害されることを願う時がある。それで初めて、彼らは被害者の理解と支援策が浮かぶのであろうと思うからである。それは非常に哀しく残念なことである。
「バカども」発言のビデオメッセージに対して、寂聴さんは「日弁連から頼まれ、私は即、収録に応じた発言の流れから、被害者のことではないと聞けるはずである、老体に似合わぬみっともない舌禍事件を起こしてしまった、深く反省している、言葉に敏感な弁護士達は、そのまま流すはずはないだろう」と語っている。しかし話の流れは日弁連の依頼を受けた時から始まっており、文学者なら行間に意を込め表現するのが普通である。読者はその行間を読んで感動してきたのである。
想定外とは言い逃れであり、読者を欺く情けない発言である。僧侶としてもいかがなものか。読者が行間を読んだ事柄が、寂聴さんの本心であり、読者は怒りを覚えたのである。寂聴さんが「言葉に敏感な日弁連は、そのまま流すはずはないだろう」と考え行動するのは、読者を欺くことであり、欺かれたと感じた聴衆が怒るのも当然である。
日弁連は寂聴さんの隙に付け入り、利用したのである。率直な寂聴さんゆえに、狡猾な日弁連に利用されたのであろう。僧侶でも何でもかまわない。利用できるものは何でも利用する達人たちである。寂聴さんは油断しその犠牲者となり気の毒と思う。
これまで文学者として、出家者として被害者のためにも論じ、行動してこられたことは、誰しも知るところである。「耄碌のせいだなどと私は逃げない」「みっともない舌禍事件を起こした」「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」などと陳謝する姿に、被害者は日弁連に利用されたばかりにと、お気の毒だとも思うのである。
しかし、バカども発言で「今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった」が気にかかる。国家や政府は国民の総意で成り立っていることはご存知であろう。その国民の8割は死刑存置を希望しているのである。それへの御発言も頂きたいものである。また、命を奪われた被害者への声掛けは、いかになさるのかもお聞きしたいものである。「過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」とのことで調べさせていただいた。
ところが「別れの辛さに馴れることは決してありません。別れは辛く苦しいものです」の言葉と「人間に与えられた恩寵に‟忘却”がある」「たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず」「忘れなければ生きていけない」等の言葉とがうまくかみ合わない。出家され、徳を積まれ、尊敬される僧侶寂聴さんですら、みっともない本心が残っていたのである。「人は皆変わることが出来る」とは言えないことを94歳になって身をもって示されたのである。
寂聴さんから教わるに「人間は本来持っている思いや思考、性格は変わり得ない」と言うことである。いわんや、凶悪な反社会性人格障害者がいかほど謝罪、贖罪、更生しようとも、我々一般市民が望むような更生は不可能なのである。
『「あすの会」幹事』
高橋幸夫
1943年4月岡山県笠岡市生まれ。1968年に医師となる。その後、岡山大学精神神経科入局、岡山済生会病院精神科医長、津山看護専門学校長、津山市医師会副会長などを務め、現在、津山市の石川病院に勤務。2002年6月、津山市の自宅から妻(当時54歳)が行方不明となり、銀行口座から現金を引き出される事件が発生。妻の拉致誘拐犯が、タクシー運転手と判明したが自殺したため、妻の行方は不明のまま。犯罪被害者団体「あすの会」幹事も務めている。
◎上記事は[IRONNA]からの転載・引用です *強調(=太字)は来栖
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〈来栖の独白 2018.10.15 Mon〉
心ある、正論と思う。行き届いており、違和感なく読めた。
弊ブログは、カテゴリーに「死刑/重刑/生命犯」を設け、考えてきた。少し、私自身の事と死刑についての考えを述べてみたい。
私が生前の勝田清孝に接近し養子縁組までしたのは、「支援」のためではなく友情からであり、その根底には拙いながらも「信仰」があった。
しかし、死刑廃止団体はそれを死刑廃止思想・死刑廃止運動に所以すると思い込み、接触してきた。この状況は死刑囚勝田清孝に対しても同様で、「死刑廃止なんて言えません」と、清孝も苦しんだ。
清孝と私の死刑制度に対する考え方は、上記事と同じである。理不尽にもたらされた愛する者の喪失から遺族が生きてゆくための第一歩として、死刑判決が不可欠だろう。
そのように考えてきた私だが、いつまでも、一つだけ引っかかることがある。
死刑執行する刑務官の痛手である。職務とはいえ、白昼、人を殺めねばならぬ。死刑囚の首にロープをかけねばならぬ。3つあって、どのボタンが死刑囚の首に繋がっていたか判らぬようになっているとはいえ、その手で執行ボタンを押さねばならぬ。
法務大臣は死刑執行命令書に署名押印しなければならない。
人はモノを忘れるようでいて、忘れることのできない面も併せ持つ。
* 「遺言書」藤原清孝 ■ プロフィール
* 法務省:死刑執行方法を議論へ 政務三役会議 2012/4/9 2006年執行された藤波芳夫死刑囚はリウマチで歩けず、刑務官が身体を…
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◇ 死刑制度「殺したがるバカども」発言 瀬戸内寂聴さん謝罪「バカは私。94歳にもなった作家で出家者の身で・・・大バカ者」2016/10/14
◇ 瀬戸内寂聴さん「殺したがるバカども」発言・・・日弁連が謝罪「被害者への配慮なかった」 2016/10/7 人権擁護大会
◇ 疑問だらけの日弁連「死刑制度廃止」表明と寂聴氏の「殺したがるバカども」発言 2016/10/15 ケント・ギルバート
◇ 「死刑執行阻止の法的根拠示せ」弁護士106人が日弁連に質問状 2017/8/28
◇ 死刑廃止で日弁連が「分裂」 2017/7/25
◇ 日弁連の「死刑廃止」宣言・・・全ての弁護士が加入を義務付けられた強制加入団体である日弁連が、このような特定の思想・立場を表明することが許されるのか?
◇ 日弁連 「死刑廃止」宣言採択 2016/10/7 人権擁護大会 反対意見で紛糾も(参加者786人 賛成546人 反対96人 棄権144人)
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