新教皇さん誕生 / 「わたしの国はこの世のものではない」ヨハネ18章 / 『カラマーゾフの兄弟』

2013-03-19 | 国際

〈来栖の独白2013/3/19 Tue. 〉
 新法王誕生までの日本のメディアの報道は、諸外国に比べると流石に低調だった。
 私はカトリック信徒の末席を汚している者だが、今回のような出来事に接すると、必ず想起するコンテクストがある。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかからイヴァンの言辞。弟である修道士アリョーシャに熱っぽく語りかける[大審問官]のくだりである。
 イヴァンは問う。「もし、現代のこの世に、イエスが現れたら、教会はどう遇するだろうか」と。そして即座に自ら答える。「もうおまえ(=イエス)はみんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いまいっさいのことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい」、「教会はイエスを必要としない。来ないでくれ」と。
 ヴァチカン市国とは、「この世」の国である。一方、イエスは、「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18)と言われている。
 イエスはどこにおられるか? これは、私自身、イエスに出合って以来、常に問いかけ、確かめてきたことである。カトリック教会には「聖体ランプ」が鎮座し、イエスの臨在を示している。しかし、ほんとうにそうか。イエスは教会におられるか・・・。
 例えば、教会は野宿の人たちに炊き出しをするが、イエスは炊き出しをする教会信徒の中におられるか? 私には、そうは考えにくい。炊き出しをする側ではなく、雑炊の1杯を受けるために列に並ぶ人たちの中にいるのではないか。なぜなら、イエスは言われている。「わたしが飢えていたときに、食べるものをくれた」(マタイ25.35~40)と。
 新法王の誕生は、私には遠い外国のお話のようである。教会は、真に「小さくされた人」とコミットしてきただろうか。どうも、そのようには考えにくい。
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ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』
p340~
 深い闇の中に、とつぜん牢屋の鉄の戸が開いて、老いたる大審問官が手にあかりを持って、しずしずと牢屋のなかにはいってきた。彼はただひとりきりで、戸はそのうしろですぐさま閉ざされた。彼は入り口に立ち止って、長いこと、1分間か2分間か、じいっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かに近寄って、あかりをテーブルの上にのせて口をきった。
 『おまえはイエスか? イエスか?』しかし、返事がないので、急いでまたつけたした。『返事しないほうがいい、黙っておるがいい。それに、おまえなぞ何も言えるはずがないではないか! わしにはおまえの言うことが、あまりにもわかりすぎるくらいだ。それに、おまえはもう昔に言ってしまったこと以外に、何ひとつつけたす権利さえ持っていないのだ。なぜおまえはわしらのじゃまをしに来たのだ? ほんとうにおまえはわしらのじゃまをしに来たのだろう、それはおまえ自身でもわかっておるはずだ。しかし、おまえは明日どんなことがあるか知っておるか? わしはおまえが何者か知らぬ、また知りたくもないわ。おまえがほんとうのイエスかまたはにせ物か、そのようなことはどうでもよい。とにもかくにも、明日はおまえを裁判して、一番性の悪い異教徒としてや烙いてしまうのだ。すると、今日おまえの足を接吻した民衆が、明日はわしがちょっと小手招きしただけで、おまえを烙く火の中へわれさきに炭をかきこむことであろう。おまえはそれを知っておるか? おそらく知っておるであろうな』と彼は1分間も囚人(めしゆうど)の顔から目を離さないで、しみじみと考え込むようなふうつきでこう言いたした」
p341~
 「そして、囚人はやはり黙っているのですか? 相手の顔を見つめながら、ひと言も口をきかないんですか?」「そりゃ、そうなくちゃならないよ、どんな場合においてもね」と、イヴァンはまた笑い出した。「老人自身も、キリストは昔自分が言ってしまったこと以外に、何ひとつつけたす権利を持っていない、と断言しているじゃないか。もしなんなら、その中にローマカトリック教の最も根本的な特質がふくまれてる、と言ってもいいくらいだ。少なくともぼくの意見ではね。『もうおまえはみんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いまいっさいのことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい。少なくとも、ある時期の来るまでじゃまをしないでくれ』というのさ。
p349~
 われわれはおまえの事業を訂正して、それをば奇跡と神秘と教権の上に打ち立てたのだ。そのために民衆は、ふたたび自分たちを羊の群れのように導いてくれる人ができ、非常な苦痛の原因たるかの恐ろしい賜物を、ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだ。
p350~
 われわれがこういうふうに教えたのはまちがっておるかどうか、一つ言って聞かしてくれ。われわれが素直に人間の無力を察して、やさしくその重荷を減らしてやり、意気地のない本性を思いやって、われわれの許しを得た上なら、悪い行いすら大目に見ることにしたのは、はたして人類を愛したことにならぬだろうか。
 言ったいおまえは今ごろなんだって、われわれのじゃまをしに来たのだ? どうしておまえはそのおとなしい目で、腹の底まで読もうとするように、黙ってわしを見つめておるのだ? おこりたいなら勝手におこるがよい、わしはおまえの愛なぞほしくもないわ。なぜならば、わし自身もおまえが好きでないからだ。それに、何も隠し立てする必要はない。それともおまえがどんな人間かということを、わしが知らぬとでも思うのか? わしが今言おうと思っていることは、すっかりおまえにわかっている、それはおまえの目つきでちゃんと読める。しかし、わしはおまえにわれわれの秘密を隠そうとはせぬ。もっとも、おまえはどうしてもわしの口から言わせたいのかもしれぬ。よいわ、聞かせてやろう。われわれの仲間はおまえでなくて、彼(悪魔)なのだ、これがわれわれの秘密だ! われわれはもうずっと前から、もう8百年の間おまえを捨てて、彼といっしょになっているのだ。ちょうど8世紀以前、われわれは彼の手から、おまえが憤然としりぞけたものを取ったのだ。彼が地上の王国を示しながらおまえにすすめた、かの最後の贈り物を取ったのだ。われわれは彼の手からローマとケーザルの剣を取って、われわれのみが地上における唯一の王者だと宣言した。もっとも、まだこの事実を十分完成する暇がなかったが、それはわれわれの罪ではない。この事業は今日にいたるまで、ほんの初期の状態にあるが、とにかく緒についてはいるのだ。その完成はまだまだ長く待たなければならぬし、まだまだこの地球は多くの苦しみをなめねばならぬが、しかしわれわれは目的を貫徹してケーザルとなるのだ。ところで、おまえは、まだあのときケーザルの剣を取ることができたのに、どうしてこの最後の贈り物をしりぞけたのだ? この悪魔の第3の勧告を採用したなら、おまえは地上の人類が求めているいっさいのものを満たすことができたのだ。ほかでもない、崇拝すべき人と、良心を託すべき人と、すべての人間が世界的に一致してあり塚のように結合する方法である。なぜと言うに、世界的結合の要求は、人間の第3にしてかつ最後の苦悶だからである。
p351~
 全世界とケーザルの緋袍を取ってこそ、はじめて世界的王国を建設して、世界的平和を定めることができるのだ。なぜと言うに、人間の良心を支配し、かつそのパンを双手に握っている者でなくて、だれに人間を支配することができようぞ! 
 われわれはケーザルの剣を取った。そして、これを取った以上、むろんおまえを捨てて彼の跡について行った。おお、人間の自由な知恵と、科学と、アンスロポファジイ(人肉啖食)の放肆(ほうし)きわまりなき時代が、まだまだ幾世紀もつづくだろう。
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・ ヨハネによる福音書18章20節~
20イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。
21なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが彼らに語ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。わたしの言ったことは、彼らが知っているのだから」。
22イエスがこう言われると、そこに立っていた下役のひとりが、「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
23イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。
24それからアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところへ送った。
25シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼はそれをうち消して、「いや、そうではない」と言った。
26大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。
27ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。
28それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。
29そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った、「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」。
30彼らはピラトに答えて言った、「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」。
31そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。
32これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。
33さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。
34イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。
35ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
36イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。
37そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける
38ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。
39過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
40すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。
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フランシスコ1世:南半球初のローマ法王
JBpress 2013.03.21(木)(英エコノミスト誌 2013年3月16日号)
 ローマ法王フランシスコ1世は混乱を受け継ぐが、大きなチャンスも手にしている。法王はすぐに行動を起こす必要がある。
 信仰を持たない人やキリスト教徒でない人も、ブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がフランシスコ1世としてローマ法王に選出されたことに関心を持つべきだ。
  これからフランシスコ1世が率いていくカトリック教会は重要だ。世俗的な世界におけるその類のない特権(国家としての地位や国連における発言権など)によって、教会は世俗的な監視にさらされる。その善行(孤児院や病院など)は、なくてはならないものだ。
  教会は、外交、特に舞台裏での和平の試みで重要な役割を担っている。世界的な悪、ソビエト共産主義の破壊にも一役買った。信教の自由を守るその断固とした姿勢は、中国の指導者たちの頭痛の種になっている。
  外部の人たちは、フランシスコ1世の教会が危害を加える時にも注意すべきだ。
  アフリカでのコンドームの使用に反対することは、神学的な意味では理にかなっていたかもしれない(信者でさえ、しばしばその立場を不可解だと思ったとしても)。だが、その結果、教会はHIV(エイズウイルス)が蔓延することに手を貸し、罪のない多くの人たちを不要な痛みと死に追いやった。
  数十年にわたり、多くの国で行われた性的虐待の隠蔽は違法であり、犠牲者の苦痛に輪をかけた。カトリック法王庁の特別な地位を示すもう1つの風変わりな特権であるバチカン銀行は、マネーロンダリング(資金洗浄)を抑制できずにいる。
  そして、スコットランドのサッカーの試合での宗派的な声援から、退位したローマ法王ベネディクト16世による不手際なイスラム批判に至るまで、他の宗教との緊張は激しい対立に発展しかねない。
■世界最大の会員組織が担う重責
  だが、カトリック教会が最大の役割を担うのは、世界最大の会員組織としてのものだ。
  教会は12億人の人々――あらゆる年齢や状態の富める人と貧しい人――に、自分たちがより大きな世界秩序の一部であり、最も貧しく最も暗愚な国々においてさえ、自分たちの希望や恐れが考慮され、権力を持つ人が自分たちの話を聞いてくれていると感じさせる。
 この最後の理由だけを取っても、フランシスコ1世は大異変だ。
  1978年のポーランド人の法王選出が鉄のカーテンの崩壊と欧州の再統一を予告する一因になったように、アルゼンチン人の選出は北から南への経済的――そして政治的――な力の変化の前触れだ。
  ヨハネ・パウロ2世の誕生で、法王職はイタリア人のクラブのように見えなくなった。そしてフランシスコ1世の誕生で、もはやヨーロッパ人のクラブではなくなった。
  バチカンで南半球出身の法王の姿を見ることは、ある意味で、ホワイトハウスに初の黒人大統領がやって来たのと同じくらい重要な意味を持つ。
■新法王の使命
  だが、何も変わらなければ、象徴的な意味は価値を持たない。その年齢や、保守的なベネディクト16世との親密さにもかかわらず、フランシスコ1世は改革派かもしれない。お抱えのリムジンやブエノスアイレスの宮殿のような司教邸を使わず、質素なアパートからバスで仕事場に通っていた人物が、バチカンの口のうまい連中のナンセンスに耐えるとは思えない。
  欧州では、宗教は衰退しているかもしれないが、中南米ではキリスト教は――多くの種類があるとはいえ――まだ繁栄している。フランシスコ1世は別の意味でも門外漢であり、法王になった最初のイエズス会員だ。
  フランシスコ1世は何をすべきなのだろうか? 非宗教的な媒体としては、その提案を2つのグループに分けなければならないだろう。フランシスコ1世を含む多くの保守的なキリスト教徒が異議を唱えるかもしれない教会の教義の改革と、すべてのキリスト教徒が支持できる運営上の改革だ。
  教義に関しては、教会が大きな代償を払って守り、部分的に成功し部分的に失敗した規則のリストは、少なくとも本誌(英エコノミスト)の考えでは聖職者の独身主義から始まる。
 多くの司祭は、結婚している英国国教会出身者や東欧の東方典礼派のキリスト教徒だ。聖書に関するあらゆる証拠は、最初のローマ法王ペテロが妻帯者だったことを示唆している。他の聖職者にも妻帯を認めれば、聖職者の減少を食い止め、苦しみや孤独という大きな負担を軽減する助けになるだろう。
  結婚を禁じるタブーがなくなれば、人工避妊の禁止といった他のタブーが後に続く可能性もある。
  これはフランシスコ1世にとっては行き過ぎかもしれない。だが、バチカンを一掃し、近代化するという差し迫った運営上の必要性については、議論はないはずだ。
■真のメッセージを伝えるために
  教会の運営は、恥ずべきほどひどい。フランシスコ1世には、急を要する改革を行い、ベネディクト16世を苛立たせた、小競り合いを繰り返す聖職者公務員の派閥を整理する時間がわずかしかない。性的虐待のスキャンダルと(特に米国での)金銭スキャンダルの両方に取り組む必要がある。
  また、南半球初の法王として、教会のより多くの部分を信者の方にしっかりと近づけるべきだ。イタリアの別荘を用済みにして、代わりに南米あるいはアジアやアフリカに別荘を設けることが出発点になるだろう。その3分の1がイタリア人である枢機卿会を再編することも優先課題であるべきだ。
  これらのことに対処すれば、フランシスコ1世が愛と正義という重要なメッセージを伝えられる可能性が高まるはずだ。
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【風を読む】論説副委員長・五十嵐徹 CIA凌ぐバチカンの情報力
産経新聞2013.3.19 08:17
 「ヨーロッパを学びたいなら、バチカン(ローマ法王庁)の機関紙ぐらいは読まないとね」
 先週の新法王選出のニュースをテレビでながめながら、二十数年前の中年留学生時代を思い出していた。欧州某国で年若い指導教授から不勉強をなじられ、身も細る思いをしていたころである。
 フランス語だけでも四苦八苦の身に、イタリア語の追加など残酷きわまりない。せっかくの愛のむちも、結局は壮麗なサンピエトロ大聖堂の見学だけで勘弁してもらった。
 バチカン市国はローマ市内のテベレ川沿いに位置し、総面積は東京ディズニーランドほどの超ミニ国家である。それがかくも耳目を集めるのは、世界で12億人ともいわれるカトリック教徒の総本山だからだ。
 情報収集力は米中央情報局(CIA)のエージェントもかなわない。聖職者は、信者たちの前日の夕食の献立だって知ることができる。これは決してジョークではない。
 バチカンの主(あるじ)の交代はキリスト教圏に限らずビッグニュースだが、とりわけ今回は、存命中の退位とあって、観測もさまざまに飛び交う。
 元外交官で作家の佐藤優氏の分析によれば、ポイントは2つ。1つは「健康な後継教皇の指導下で、カトリック教会がイスラム世界に対する巻き返しを図ろうとする世界戦略」であり、1つは「中国に対して攻勢をかけること」にあるという。
 2つ目については若干の説明が必要だ。バチカンは欧州で唯一、中国を認めず、台湾と外交関係を維持している国だという背景である。中国政府が、バチカンの承認なしに国内の司教を任命していることも対立が続く要因になっている。
 しかし、その中国でも習近平総書記が国家主席に就任し、新政権が正式にスタートした。このタイミングを偶然とばかりは言えない。新たな関係構築に向け、双方が動きだす可能性は十分にある。
 やはり、バチカン情報からは目が離せないということか。
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「新ローマ教皇誕生」、アメリカが熱狂する理由は? 
Newsweek Japan [プリンストン発 新潮流アメリカ]by冷泉彰彦 2013年03月15日(金)11時47分
 それにしても、新教皇の選出に関しては、各社最大級の報道体制を敷いていたのには驚きました。アンダーソン・クーパーを送り込んだCNNを筆頭に、各社ともにメインキャスターをバチカンへ送って毎日トップニュース扱いでした。コンクラーベ(枢機卿たちによる新教皇選出投票)が始まると、熱気は更に盛り上がりました。
 ニュースの関心は「今日の煙は何色?」つまり、決定できないと黒煙、決定があると白煙がシスティーナ大聖堂の煙突から上がるというので、その「煙の色」で毎日大騒ぎになりました。いよいよ白煙が上がって決定を見ると、「一体誰になるのか?」で速報ニュースが飛び交い、最後にアルゼンチン出身の「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿」に決まると、報道は最高潮に達しています。
 アメリカではどうして新教皇誕生の報道でここまで盛り上がったのでしょうか?
 前提としては、アメリカがキリスト教国家だということがあります。プロテスタントが多数派のアメリカですが、近年は保守的な福音派が増えており、その福音派の信仰に関して言えば、一部はカトリックの教義にも近い中でローマ教皇への親近感があるのだと思います。
 これに加えて、何と言ってもカトリックの人口が増えているということがあると思います。アメリカのカトリックは以前は、アイルランド系、イタリア系、ポーランド系などが多かったのですが、ここ半世紀にわたるヒスパニック系の人口増加により更にカトリックは増えているわけです。
 特に今回はアルゼンチン出身の教皇ということで、新教皇決定の翌日、14日の朝のニューヨーク・タイムズ紙は「新教皇は米州から」という見出しを大きく掲げています。米州(Americas=南北アメリカ)出身の教皇が選ばれた、それは「我々も南北アメリカ出身なんだ」という歓喜を表現していたと言えます。
 アメリカの中でもニューヨークは、イタリア系とアイルランド系のカトリックが多いのですが、この中のアイルランド系に関しては、今週末の17日(日曜日)が「聖パトリック記念日」となっています。つまり、アイルランドにカトリックを伝えた聖人を祭りつつ、春の到来を祝う祭りなのですが、これに合わせて新教皇が誕生したということで盛り上がっています。
 では、今回の「フランシスコ1世」の登場に関しては、どんな評価や期待があるのでしょうか?
 1点目として、アメリカの場合は2000年代に明るみに出た「カトリック聖職者の少年への性的虐待事件」の後遺症が残っているということがあります。問題の根絶も完全にはできていません。この問題に関しては、カトリックの信者たちからすれば、大変な不祥事なのだから、頂点に立つ教皇には徹底的に取り締まって欲しいのです。
 2つ目は、現時点では噂の域を出ませんが、今回ベネディクト16世が大変に異例な「生前退位」に至った背景には、教皇庁内部の暗闘説であるとか、金銭的なスキャンダルなど諸説があるわけです。新教皇にはそうしたスキャンダルがあるのであれば、徹底した浄化を行い、いずれにしてもローマ教皇庁の信頼を回復するということへの期待があるわけです。
 3つめは、世界の貧困問題や戦争の問題などの解決に積極的に関与するという期待です。この問題ではヨハネ・パウロ2世が大きな足跡を残している一方で、その後任のベネディクト16世は目立った動きをしなかったために、世界的には新教皇への期待は大きなものがあります。但し、アメリカではカトリックの大多数を含めた世論としては「軍事外交問題へのヨーロッパからの介入や圧力」には本能的な反発があるので、この点に関しては余り話題になっていません。
 4点目としては、そもそもプロテスタントや聖公会などでは認められている聖職者の妻帯が、カトリックでは禁止されているのが性的スキャンダルの背景にはあるという指摘です。つまり、聖職者の妻帯を認めてはどうかという問題です。いわゆる改革派的な観点からはそうした声も大きくなっています。
 5つ目は、カトリック教会の同性愛に対する姿勢です。21世紀の現代では、さすがにカトリック教会としても、同性愛そのものを「罪」とはできなくなっています。ですが、この問題に関する教会の立場はまだまだ中途半端であり揺れています。アメリカでは多くの州が同調しつつある同性婚の問題にも、カトリックは基本的には反対の立場です。新教皇の登場により、こうした面での「改革」を期待する声も大きいのです。
 6点目は、女性聖職者の問題です。カトリックの場合は、この点に関しては、ほぼゼロというのが現状であり、女性差別ではないかという観点から大きな批判があります。この問題に関する「改革」を求める声も相当にあります。
 では、3月19日に正式に就任する「フランシスコ一世」はこうした期待の総てに応えて行くと言われているのでしょうか?
 現時点での答えは「ノー」のようです。1つ目と2つ目の「いわゆる綱紀粛正」には熱心に取り組むでしょうし、恐らくは3つ目の「世界が直面している問題」への取り組みについても、前任のベネディクト16世よりは存在感を見せるのではと言われています。
 ですが、様々な報道を総合しますと、アメリカ社会が期待している4つ目以降の「カトリックの社会価値観改革」については、どうやら期待薄ということのようです。教義に関わるこうした問題に関しては、いくら「庶民派教皇」とはいえ、相当に保守的であり、またそうでなくては教皇庁をまとめてはいけないだろうという観測が多く見られます。
 そんなわけで、アメリカのカトリック、非カトリックを通じた世論としては色々と論評がされているわけです。その一方で、アメリカ大陸出身の教皇の登場で、しかも庶民派ということについては大いに盛り上がっているという構図があり、とにかく話題としては事欠かないということなのです。
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