何のために生き、死ぬかは… 五木寛之『人生の目的』

2019-04-19 | 仏教・・・

  幻冬舎plus 人生の目的 2019.04.19 更新

何のために生き、死ぬかは今は各人の自由。だが現実には自由ではない 五木寛之

 辛いことや苦しいことがあっても私たちは生き続ける。人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。20年の時を経て名著『人生の目的』が新書版に再編集され復刊。いまの時代に再び響く予言的メッセージ。

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■人生の目的を考える必要のなかった時代

 ふたたび考えてみる。人生にはたして目的はあるのだろうか。私は、ないのではないか、と、前に書いた。つまりそれは、すべての人間に上から押しつけられるような、一定の目的などないということである。

 人間はこうあるべきだ、と人が自分で思うのは勝手である。自分自身がその目的を信じて生きればよい。しかし、それを他の人間に押しつけることはできない。義務として強制(きょうせい)することも、まちがっていると思う。私は他人から、これが人生の目的だぞ、それをめざして生きろ、などと言われれば、すぐに反対の方角へ向けて走りだすだろう。

 それほどひねくれてはいなくとも、人は人生の目的を既成(きせい)のものとして受け入れることに抵抗をおぼえるものだ。

 私が子供のころは、この国は激(はげ)しい戦争の渦(うず)のなかにあった。私たちはすべて国家の一員として扱われ、逆らうことのできない義務を背負っていた。国に忠誠をつくすというのが、国民の義務であり、国家のために働き、必要なときには命を捧(ささ)げることが当然とされていたのである。

 そんな時代だったから、なにも人生の目的などということをあらためて考える必要はほとんどなかった。

 もちろん大人や青年たちのなかには、真剣に悩んだ人びとも多くいたことだろう。まれにではあるが、軍隊にとられることを命がけで拒否した青年もいたのである。彼らは自分の信念にしたがって徴兵を拒否し、非国民(ひこくみん)として苦しい人生をあゆんだ。なかには精神障害者として扱われた例もあった。

 しかし、私のような戦時下の少年は、ごく自然に「お国のため」につくすことを、上から定められた運命のように感じていたのだ。それがいやでも仕方がないような気がしていた。いまふり返ってみると、つくづく奇妙な時代だったんだなあ、と思わないわけにはいかない。

 幼いころの私は、大きくなったら軍事探偵か、戦闘機の操縦士(そうじゅうし)になりたいと思っていた。たぶん当時の少年読物の読みすぎだろう。しかし、どちらも実際は命がけの仕事である。スパイとして銃殺される場合もあろうし、敵艦に体当たりしなければならないときもある。そんな場面で、本当に「天皇陛下万歳!」と叫んで死ねるかどうか、あれこれ想像してドキドキしながら真剣に悩んだものだった。特攻隊に選ばれて出撃したとして、アメリカの航空母艦に向かって、はたしてまっすぐに操縦桿(そうじゅうかん)を押せるだろうか。恐ろしくなって途中で思わず逃げたりはしないのだろうか。

 死ぬ、ということは、当時の私にとっては、かなり現実味をおびた問題だったのである。

 しかし、そこでは「いかに死ぬか」は大問題であったけれども、「何のために死ぬか」ということで悩むことはなかったように思う。答えははじめからあたえられていたからだ。

 国民は「お国のために」死ぬものらしい。頭からそう信じて疑うことがなかったのである。ものごころついたときからすでに戦争のなかに暮らした世代としては、仕方のないことだったのかもしれない。

 しかし、いまは戦争の時代ではない。何のために生き、何のために死ぬかは、各人の自由である。兵役の義務はなく、義務教育さえも放棄(ほうき)する子供たちがいる。残された国民の大きな義務は納税ぐらいだが、これも税金のがれを生甲斐(いきがい)にしているような人たちもいる。つまり、私たちは自由なのだ。しかし、自由でありながら、現実には自由ではない。そこが最大の問題なのではあるまいか。

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    幻冬舎plus 人生の目的 第10回 2019年04月18日 15:42

私たちは運命にすべてをゆだね、受け身に徹しきるべきなのか 五木寛之

 辛いことや苦しいことがあっても私たちは生き続ける。人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。20年の時を経て名著『人生の目的』が新書版に再編集され復刊。いまの時代に再び響く予言的メッセージ。

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■生まれること、その不公平な出発点

 逆境のどん底から、自己を信じ、努力をつづけて成功したという人は、私にいわせれば幸運な人である。そもそも「自己を信じる」ということは至難(しなん)のわざだ。自分を信じようと決意したとしても、なかなかそうはいかない。自己嫌悪ならほとんどの人にできる。自己を信じようと決心してそうできた人は、そういう前向きタイプに生まれてきたことを謙虚に感謝すべきだろう。まして努力ができる性格をあたえられたことは、周りじゅうの人に、「自分だけ恵まれすぎていて申し訳ありません」と謝って歩いていいくらいの幸運ではないか。

 努力をした、のではない。努力できたのだ。自分を信じた、のではない。自分が信じられただけなのだ。

 麻雀(マージャン)が好きな男は、努力などしなくても二日も三日も徹夜するのである。私も若いころ色川武大(いろかわたけひろ)さんたちと七十二時間デスマッチなどという馬鹿(ばか)なことをやったりもした。しかし、大変だったがじつにおもしろかった。

 人は好きなことなら、どんな難行苦行(なんぎょうくぎょう)もいとわない。重い荷物を背負って登山する人がいる。また、ご苦労なことに、酸素ボンベを背負って海底にもぐる人もいる。

 人は好きなことをしたいと思う。しかし、人生は思うにまかせぬものである。好きであっても素質がない場合もあり、素質はあっても環境や運に恵まれず、好きではない世界で一生を送らなければならないこともある。そういう例はいくらでもある。

 こう考えてくると、ブッダが、〈四苦(しく)=生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)〉として思うにまかせぬこと四つの最初に、まず〈生〉をおいたことの重さを、つくづく感じないではいられない。〈生〉には、生まれてくること、そして生きてゆくこと、の二つの面がある。私たちは生まれてくることにおいても、思うとおりにはならない。それはむこう側からあたえられるものだ。私たちの自由意志や、希望や、努力や、誠意などによって変えることのできないものである。そして私たちは生まれることを、自分で拒否することさえできないのである。なんと不自由な、そして不公平な人生の出発点だろう。

 それだけではない。生まれた以上、生きてゆかねばならぬ。その人生の途上(とじょう)において、私たちはさまざまな人間関係をもち、体験をする。両親と出会い、兄弟姉妹とともに暮らし、友人、師、そして異性と出会う。そこには計算どおりに進行するものは、ほとんどない。もし生まれる前から赤い糸で結ばれている相手がいるとしたら、それは運命のてのひらにすべてをゆだねるということだ。そこに私たちの自由意志などない。努力も、向上心も不要である。すべては運命の糸にあやつられるままに、人生はすぎてゆくことになる。はたして私たちは、そこまで受け身に徹しきることができるだろうか。私はできない。できないからこそ、こうして「人生の目的」などというわけのわからない問題について考えたりするのである。

  五木寛之『人生の目的』

 人生に目的はあるのか?あるとしたら、それは何か。お金も家族も健康も、支えにもなるが苦悩にもなる。人生はそもそもままならぬもの。ならば私たちは何のために生きるのか。刊行から20年――。人々に寄り添うその深い洞察が大反響を呼んだ衝撃の人生論。 平成という時代が変わる今、再読したい心の羅針盤。大きな文字で再編集した新書オリジナル版。

 ◎上記事は[幻冬舎plus]からの転載・引用です

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