田原総一朗が回顧する60年安保の真実「私は何も知らずに"岸はヤメロ"と叫んでいた」現代ビジネス2016/4/3

2016-04-04 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 1960年6月13日、岸内閣打倒、安保「改悪」反対デモ。しかし、この中の一体何人が、実際の条文を読んでいたのだろうか。〔photo〕gettyimages

現代ビジネス 2016年04月03日(日) 田原 総一朗
田原総一朗が回顧する60年安保の真実「私は何も知らずに"岸はヤメロ!"と叫んでいた」
「戦後レジームの正体」第11回(後編)
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■新しい日米安保条約
 1952年11月に、内灘の米軍試射場反対事件が起き、つづいて砂川事件が起きた。そして56年には警官隊との衝突で887人の重軽傷者が出た。
 さらに、砂川事件について、59年3月には東京地裁が米軍駐留を違憲とする判決を出した(最高裁は、この判決を破棄)。また、57年1月には米兵が薬莢拾いをしていた主婦を米軍演習場に誘い込んで撃ち殺すという、ジラード事件が起きて、日本人の反米感情が大変強まった。
 そこで、駐日大使のダグラス・マッカーサー(マッカーサー元帥の甥)は、日本人の非武装中立意識が高まり、安保条約廃絶の機運が高まるのを恐れて、岸首相と秘密の会議を重ねる中で、「事前協議」、そして「日本防衛の義務を負う」など、条約改定の提案をした。
 もちろん、マッカーサーは、アメリカ本国にも日本の反米感情の異常なまでの高まりを伝え、安保条約を大きく改定すべきだと求めていた。
 実は、アメリカは岸には、内外の共産勢力と戦うためにCIAから資金を提供するなど、岸を相当信用していて、そのために条約改定が順調に進んだと言えるのだろうが、実は重光外相の条約改定には、米軍基地を縮小するという項目があったのに対して、岸は基地縮小を求めていず、むしろ日米関係の強化を求めていたのである。
 57年6月16日、岸は首相として最初の訪米を行った。アイゼンハワー大統領やダレスと安保条約改定問題を討議するためだった。
 事前にマッカーサー大使が段取りをつけていて、討議は、おたがいに項目を確認し合うだけであった。アイゼンハワーもダレスも上機嫌だった。討議の前に岸はアイゼンハワーとゴルフをし、ともに裸でシャワーまで浴びていた。
 基地についての事前協議を行う、ダレスが主張した集団的自衛権は棚上げにして、日本防衛の義務を負う、そして条約の期間は10年、ということになった。あきらかに大きな改善であった。
 そして60年1月19日にワシントンで、新しい日米安保条約が調印された。
■労組、全学連を巻き込んだ歴史的な大闘争
 ところで、岸首相たち全権団が、1月16日に羽田空港を出発したとき、羽田空港周辺は全学連の学生や労組の人間たちで埋め尽くされていた。岸首相たちの訪米を阻止するためである。
 社会党、共産党、そして日教組、国労、動労など総評(日本労働組合総評議会)の強力部隊が、安保改悪阻止で大同団結していたのだ。そして、実は私も岩波映画という会社の新入社員だったが、先輩たちと安保改悪阻止のデモ隊に連日のように加わって、「安保反対、岸はヤメロ」と連呼していたのである。
 恥ずかしい話だが、岸首相によって安保が改定されると、日本はアメリカの戦争に巻き込まれることになると思い込んでいたのだ。
 岸は東条内閣の商工相でA級戦犯として逮捕された。そして東条英機たちA級戦犯7人が処刑された、48年12月23日の翌朝、児玉誉士夫や笹川良一たちと一緒に釈放された。安保改悪阻止のリーダーたちは、この釈放の際に、岸はアメリカと密約があったに違いない、それは日本がアメリカの戦争に参加するということで、だからこそはやばやと政界に復帰できたのだ、とまことしやかに話し、私たちは確認らしき作業もせず、その話を信じていたのである。
 リーダーたちは、鳩山内閣の重光外相の安保改定交渉は、アメリカの戦争に参加するという前提がなかったのですげなく断られたのだとも説明した。もちろん、反安保闘争が広まった背景には数々の反基地闘争やジラード事件などによる強い反米感情があった。
 ここでさらに恥ずかしいことを告白しておく。
 私は「安保改悪反対」「岸はヤメロ」とデモ隊の中で連呼していながら、実は、吉田首相の最初の日米安保条約も、岸首相が改定した安保条約も全く読んでいなかったのである。
 60年反安保闘争の全学連のリーダーの一人であり、その後国立大学教授になった人物と、後に話し合ったことがある。実は、彼も吉田安保も岸安保も読んではおらず、元A級戦犯の岸はアメリカとの密約があって釈放された、と思い込んでいたのだといった。そして、全く恥ずかしいかぎりだということで一致した。
 それにしても、そもそも吉田安保が不平等きわまりないとして、安保条約の「改廃」を強く求めたのは、鈴木委員長をはじめとする社会党だったのである。
 そして、安保条約はあきらかに改善されたのだが、その社会党が、なぜ安保改定阻止闘争の先頭に立って戦うことになったのか。なぜまるで正反対の主張をすることになったのか。しかも、多くの労組、そして全学連が参加して、日本を揺るがす、そして歴史に残る大闘争となったのである。
■イメージを悪化させた警職法改正案
 私のように、吉田安保と岸安保を読みもせずにデモに参加した人間も少なくなかったとは思うが、少なくとも社会党議員の幹部たちは、吉田安保と岸安保の違いを熟知していたはずである。
 それにもかかわらず、なぜ安保改定阻止となったのか。
 そのきっかけとなったのは、58年秋に、岸内閣が国会に提出した「警察官職務執行法(以後、警職法)の一部を改正する法律案」であった。
 当時の警職法は、48年の占領時代に制定されたもので、GHQの日本弱体化の方針に基づいて、「民主警察」の謳い文句で警察の権限が極力縮小されていた。
 岸にとっては、独立国家にはふさわしくない、社会公共の安全を守るためには不都合な時代遅れの法律だったのである。岸は、近い将来に憲法改正を考えていて、そのときに起きるであろう反対闘争を、現在の警察力ではとても抑えられないと予測して、警職法の強化を図ろうとしたのだ。
 そして、この警職法の「改正」に、社会党、共産党、さらに総評、全学連などが猛然と反対して、国会運営が困難になる騒動となった。
 治安維持法の復活や、庶民の日常生活が監視されることが懸念され、そして「デートもできない警職法」が、反対闘争のキャッチフレーズとなった。
 ホテルでのデートの枕元で警官が臨検することになるというのである。
 警職法改正案は、岸のやり方が強引だったためか、野党だけでなく自民党の反主流派、非主流派までが、野党に連動するように岸を揺さぶり、ついに58年11月22日に審議未了、廃案となった。
 そして警職法改正案によって、岸こそは、戦前の治安維持法の復活を狙う「反動政治家」、いってみれば「悪の権化」だというイメージが強まり、その岸が目論む「安保改定」は「改悪」にちがいないということになったのである。
■激化する反対運動
 この年の年末には、自民党内部でも池田(勇人)国務相、灘尾(弘吉)文相、三木(武夫)経企庁長官の三大臣が「党人事の刷新」を叫んで辞表を出すという「混乱」が起きていた。
 60年1月19日、新安保条約の調印の前に、岸は、「今年は日米修好条約批准百年記念の年だから、米国大統領が日本を訪問されることは、日米関係にとって非常な意義がある」(『岸 信介回顧録』廣済堂出版)とアイゼンハワーに提案した。翌日、アイゼンハワーは上機嫌で、6月20日ごろ日本に行きたいと答えた。
 だが、国会周辺へ押し寄せるデモ隊の数が日を追うごとに増えていた。それに対して警官隊の方は、警職法改正案が廃案になったために、阻止できる行為が限られていた。
 繰り返し記す。
 岸が警職法の改正を図ろうとしたのは、あくまで憲法改正のためであり、岸としては安保改定は、社会党やマスメディアの不平等条約改定の要請に応えているつもりで、阻止騒ぎがこれほど大きくなるとは考えていなかったのである。
 4月26日の全学連による国会前の闘争は、規模も激しさもすさまじく、学生たちはずらりと並べられた装甲車を次々と乗り越えて警官隊と対峙し大勢が逮捕され、ケガ人も大量に出た。
 国会内でも野党は力ずくで審議を妨害し、自民党内の反主流派も「新条約の無理押し反対」と叫んで野党に同調した。
■焦りが生んだ強行採決
 岸は焦った。国会の会期は5月26日までであり、自然承認に要するひと月の時間を見込むと、反主流派の批判に耳を貸している余裕はなかった。
 5月に入って、アメリカ側から大統領の訪日スケジュールが伝えられ、6月19日の到着が決定した。大統領は、まずフィリピンのマニラに渡り、次いで台北、東京、そしてソウルを歴訪することになったのである。
 アイゼンハワー大統領が訪日すれば、国民は歓迎し、岸の立場は強化されるはずであった。だが、その前に何としても新安保条約を成立させておかなければならない。
 そして6月19日までに参議院で自然承認させるためには、1ヵ月前の5月19日には、どんなことがあっても衆議院を通過させなければならなかった。
 岸の執行部は、当然予想される社会党の暴力的とも言える採決妨害に対抗して、単独強行採決に踏み切ることにした。
 しかし、本会議強行採決案は自民党議員にさえ事前には知らされていなかった。総指揮者は川島正次郎幹事長であった。
 そして5月19日を迎えた。
 与野党の攻防を予測して院内の衛視を非常勤も動員して150人を250人に増員した。
 自民党が右翼や暴力団などを集めているという情報を摑んだ社会党は、全国から1500人の行動隊を虎ノ門の共済会館に待機させた。
 午後4時半、自民党は急遽、議院運営委員会を開いて会期延長を決定し、本会議を突破するために、自民党議員が多数で議長正面入り口を占拠した。議長を本会議場に送り込める態勢を固めたのだ。社会党の秘書団がこれに体当たりを繰り返したが、自民党議員団の態勢は崩れなかった。
 国会周辺では、全学連のデモ隊が機動隊と衝突しながら渦巻きデモを繰り返していた。
 午後10時半過ぎに、本会議開始のベルが鳴り、自民党議員だけが会場に入った。
 社会党、民社党議員は審議拒否を決めて入場せず、社会党は秘書団と共に議長室入り口前で座り込み、議長が本会議場に入るのを阻止した。それに対して500人の警官隊がゴボウ抜きにかかり、議長が本会議場によろけながらたどり着いたのは11時50分であった。清瀬一郎議長はただちに、50日間の会期延長を議決した。そして、社会党議員たちにもみくちゃにされながら、安保改定関係法案について小沢佐重喜安保特別委員長の報告を聞くかたちで、一挙に可決した。
 自民党の石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫、宇都宮徳馬たち12人が欠席した。
 翌朝の新聞各紙は、いずれも岸内閣の強行単独採決を厳しく批判し、朝日新聞は5月21日の社説で、「国民を裏切る」ものであり、自民党員は「岸総理に退陣を迫るべき」だと主張した。
■新安保条約と心中
 そして国会周辺のデモは一層激しさを増した。
 6月10日、アイゼンハワーの新聞係秘書のハガチーが事前打ち合わせのために羽田に着いたが、全学連に幾重にも包囲されて、同乗していたマッカーサー大使と共に米軍のヘリコプターで脱出せざるを得なかった。
 だが、ハガチーが「あくまで大統領の訪日予定は変えない」と言明し、新聞各紙が、「岸退陣」を迫るようになっても、岸は強気で揺らがなかった。
 ところが、6月15日に、事態が大きく変わった。この日、全学連のデモ隊は国会の南通用門から国会内への突入を図り、警官隊と激しく衝突したのだが、その中で東大の女子学生、樺(かんば)美智子さんが死亡するという事故が起きたのである。
 そして、この事故が決定打となった。翌16日、岸はアイゼンハワー訪日を断ることを決意し、同時に内閣総辞職を決めたのである。
 6月19日の新安保条約の自然承認を待って辞任することにした。つまり新安保条約と心中するかたちになったのである。
 もっとも、岸は新安保条約でことなれりと考えていたわけではない。私は現役を引いた後の岸と二度会ったが、彼は、憲法を改正して、アメリカと本当に同盟と言える関係を結ぶべきだと語った。
 ということは、ダレスが重光外相に要求した、双務的な安保条約を結ぶ、つまり集団的自衛権を有することになるのだろうが、確認はしなかった。
 (次回に続く)

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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安保法案反対デモ 60年安保のときと状況酷似 岸信介元総理「私には国民の声なき声が聞こえる」

    

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秘密保護法 野党とメディアの大声 60年安保に酷似 岸元首相は言った「サイレント・マジョリテイを信じる」
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「安保改定の真実」(1)~(8 完)産経ニュース 2015/5/4~2015/5/10 連載
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安倍首相の土産 パター / 『アメリカに潰された政治家たち』 第1章 岸信介 2013-02-25 
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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎
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