ボストンのトイレ表示から、「LGBTの権利」を考える 橋爪大三郎 2019/05/02

2019-05-03 | 社会

2019/05/02 # アメリカ # ライフ

ボストンのトイレ表示から、「LGBTの権利」を考える  橋爪大三郎の「社会学の窓から」⑫   橋爪 大三郎

■改造が進むアメリカ

 アメリカで、そして世界中で、トイレの改造が急ピッチで進んでいる。いままでの「MEN」「WOMEN」ではだめなのだ。多様な性別に対応しなければならない。手探りの、でも本気の取り組みである。

 ボストン美術館を訪れたら、トイレに立派なメッセージが掲げてあった。美術館のポリシーを示している。参考になるので、紹介しよう。

     ボストン美術館のトイレにあるメッセージ 拡大画像表示

 最初の段落にはこうある。1887年、マサチュセッツ州は全米で初めて、働く女性に「十分な数」の独立したトイレを設けるよう、事業所に義務づけました。男女別のトイレは、女性が公共の場で、安全で快適に過ごせるための運動でした。

 そのあとの段落がとても大事なので、まるごと翻訳してみる。

 「それから一世紀あまり、ジェンダーについての理解は前進しましたが、トイレはそのままでした。

 歴史的な、男性/女性の二分法(伝統的服装の、ズボンとスカートの絵がついている)では、そんな二分法に合わない人びとが、たとえば、トランスジェンダーやノンバイナリーやジェンダー・ノンコンフォーミングの人びとが、使えません。

 それに、障害のある人びとが使いにくいトイレも多いのです。当美術館では、あらゆるジェンダーの人びとが障害のあるなしに関わらず、トイレを自由に使っていただけるよう、取り組みを進めています。」

 トランスジェンダーとは、生まれたときとそのあとの性別が、一致しないひと。ノンバイナリーとは、男性/女性のどちらにも入り切らないひと。ジェンダー・ノンコンフォーミングとは、性別に不適合なひと。どれもすっきり日本語にならないが、それは、こういう現象を日本人がまだしっかり考えていないので、よい言葉がないのだ。

 そのあとは、こう続く。

 「まず第一歩として、これまでのトイレに、新しいサインをつけました。これは、当美術館の、今後変わらぬ方針を示すものです。すなわち、<来館者のみなさまは、現在のジェンダー・アイデンティティ(そして/または、見た目)に従って、ふさわしいトイレをお使いください。> 車椅子対応の便座も、一室には備わっています。」

   半身がズボンで半身がスカートのサイン 拡大画像表示

    一室だけのトイレの場合は、サインが新しくなった。三人、人間が並んでいる。ズボンとスカート、そして三人目は、半身がズボンで半身がスカートになっている。このサインは、最近あちこちで見かけるので、普及しつつあるようだ。

 別な場所には、オール・ジェンダー・レストルーム(すべての性別向けのトイレ)が新設された。サインをみると、便座と小便器、になっている。

 最後に、ご意見のあるかたはどうぞこちらへ、とメイルアドレスrestrooms @… がのっている。美術館にチームがあって、組織的な取り組みをしているのだ。

 実際に、美術館のトイレのサインを見てみると、いちおうMEN/WOMENとは書いてあるのだが、その下に self-identified(自分で決めてください)と書いてある。これなら改修しなくても、この看板をつければ、大部分のトイレですぐ対応できそうだ。

■ボストンのトイレの工夫

 ボストンは、マサチュセッツ州の州都。マサチュセッツ州は、全米でも先進的な取り組みをする州で有名だ。リベラルで、民主党が強い。ボストンの北にあるケンブリッジ市はもっと先進的で、全米で最初の同性婚を認めたのもここである。市役所の前のベンチは、レインボーカラーに塗り分けられている。

 こうしたトイレ改革の動きは、けっして一部に止まるものではない。

 近くのスーパーに行ってみた。もともと男女別だったのだろう。ふたつ並んだトイレがあるが、どちちも、INCLUSIVE RESTROOMS (誰でもトイレ)になっている。

 INCLUSIVE RESTROOMS(誰でもトイレ) 拡大画像表示

 サインは、男性と女性の記号(矢印とプラス)に加えて、矢印とプラスを組み合わせた三番目のマークがつけてある。ドアノブの脇に、ズボンとスカートが半々のひとのサインの下に、GENDERNEUTRAL RESTROOMS と書いてある。性別を気にしないトイレ、だ。

 レストランに行った。二つトイレがあり、片方はEVERYONE、もう片方はANYONE、と書いてあった。誰でも/どなたも、である。オーナーが頭をひねったに違いない。

 こうした工夫は、ちょっとしたことかもしれない。けれどもおかげで、どれだけ数多くの人びとが、これまで人知れず耐えてきた重いくびきから救われることができるのかと想像すると、とても意味があると思う。

■LGBTの「居場所」をつくり出す

 「LGBT」はわが国でも、名前を知られるようになった。L(レズビアン)やG(ゲイ)のほかにも、B(バイセクシュアル)やT(トランスジェンダー)があるんだ。ちゃんと定義はできなくても、いろいろあるらしいということは、ふつうの人びとの頭に入った。これは、前進である。

 でもその先は、どうなのだろう。同性のカップルは、結婚できるのか。誰でも自分の意思で、性別を自由に変更できるのか。そもそも性別は、誰がどうやって決めるのか。世界で熱い議論が戦わされている。でもわが国では、議論そのものが低調だ。

 いったいどれくらいの人びとが、LGBTなのか。ほんとうのところは、よくわからない。まだまだ偏見や差別が強くて、名乗りをあげるのは危険。そういう状況では、アンケートを取ろうと、インタヴューしようと、正確な実態は知りようがないのである。

 自分が生まれてみたらLGBTだったと、想像してみて。世間のできあがった考え方や常識が、自分に当てはまらない。どう生きて行けばいいのか、手さぐりしなければならない。パートナーをみつけるのも大変だ。親にどう説明しよう。自分なりの生き方を探すのだけにでも,とてつもないエネルギーがいる。

 いろいろ苦労はあるだろうが、いちばん苦しいのが、自分の存在が社会的に承認されるのかということ。そこでもしも、LGBTという言葉があればとても助かる。人びとが、ああそうなのですか、と認識しやすいからだ。

 トイレが改造されることも、同様だ。公共の場所でトイレに行くたび、誰もが、LGBTの人びともいるのだ、と思い出す。そしてLGBTの人びとは、トイレに行くたび、ちょっとずつ元気になる。トイレは、LGBTの人びとのための、居場所をつくり出す。そう、トイレはトイレの問題であることを超えた、生きる権利の問題なのである。

■日本もこの取り組みの意味を理解すべきだ

 LGBTの問題は、キリスト教が背景にある。キリスト教は、聖書に、同性愛はいけないと書いてあるというので、長い間LGBTに無理解で、差別してきた。刑事犯として取り締まられる場合もあった。その長い歴史に、それでいいのかと声をあげたのが、リベラルなキリスト教のグループだ。

 キリスト教でもカトリックは、こういう問題にあまり熱心でない。大事なことは、法王庁(教会全体)が決めるのである。でも、プロテスタントには、法王庁がない。いくつもの宗派に分かれている。めいめいなりに、聖書を読む。

 そして、こういう疑問をもつ。そもそもなぜ、LGBTの人びとがいるのだろう。神が彼らを造った。信仰の立場からは、こう考えるしかない。それなら、LGBTであることは、罪ではなく、神の意思である。LGBTとして生きることは、正しいはずだ。

 すべてのプロテスタント教会が、こう考えているわけではない。けれどもここ数百年の新しい動きを踏まえた、リベラルな宗派は、ここ半世紀あまり議論を繰り返し、LGBTの人びとも同じ仲間、兄弟姉妹だと考えることにした。

 彼らを造った神は、それが正しいと考えているはずだ。ならば、人びとも、人びとの集まりである政府も、それを認めるべきなのである。

 外国のやり方を真似するのがきまりのわが国でも、右にならえで、トイレ改造の動きが起こるだろう。改造は、よいことだ。でも同時に、その取り組みの意味を、知っておきたいものである。

   ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です

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